吾輩は猫かぶり令嬢の猫である
吾輩は猫である。名前はミケランジェロ。
そして、吾輩を腕に抱くはイレーヌ第二皇女。銀の髪と青の瞳を持つ、華奢な乙女だ。帝国一の美女と吟われた母に似て美しい顔立ちをしている。
そんなイレーヌにたらふく飯を貰い、吾輩はふくふくと育った。貰いすぎて、近頃は腹の肉が気になり出してきたくらいだ。
たぷん。波打つ脂肪を打って、そろそろダイエットすべきかと悩む。これまではそんなこと考えたことはなかったが、吾輩を抱えるイレーヌが辛そうだと言われるとさすがに思い直してしまう。
「イレーヌ・アメリリス!お前との婚約を破棄する!」
ぽよんぽよんの我が腹から、やかましい声のした方に視線を変えれば、金髪のアホそうな男がこちらに向かって指をさしている。隣には豪勢なドレスを着た赤い髪の女がベッタリと張り付いていた。
片方は第一王子、片方は公爵令嬢だったと思うのだが、どうにも振る舞いに知性が感じられない。これなら犬っころどもの方がまだ賢かろう。
現在、イレーヌは王子に呼び出され謁見の間に参上していた。彼女はアメリリス帝国からやって来たこの王子の結婚相手なのだが、それにしては我々を囲む雰囲気が物々しいと思っていたところである。……それがまさか婚約破棄とは。
「殿下。そんなことが出来るとお思いなのですか。私たちの婚姻は両国の和平の証なのですよ」
「……和平の証だと?」
冷静に諭すイレーヌに、第一王子はわざとらしく声をたてて笑ってみせる。
「お前は降伏した国が我が国に差し出した人質だろう。そもそも、俺はお前のことを婚約者だと思ったことすらない」
「なっ……!?」
イレーヌは絶句する。正直、吾輩も自分の耳と金髪アホ王子の正気を疑った。
少し前まで、王国と帝国は戦争をしていた。中々決着が着かず、被害ばかりが拡大していく状況を苦く思ったイレーヌの父親である皇帝が和平を提案したのだ。
これは帝国が負けそうになったから持ち出された提案ではない。むしろ実際はその逆で、敗色が濃厚なのにも関わらず王国が敗けを認めず、民への負担ばかりが重くなっていることを皇帝が憂えたからだ。
……なに?さっさと王の首をとればよかろう?
取れればとっくに取っているとも。
この国の王はな、ああ、あの奥の馬鹿みたいに派手な腰掛けにふんぞり返っている男だ。
そして、見てみろ。端に控える騎士たちの手の甲。ぐにゃぐにゃした紋様があるだろう?あれは隷属の印だよ。
あいつは国民を魔法の力で縛っている。哀れなことに国民達がどんなに嫌でも、あいつの命令には逆らえないのさ。
王が倒されそうになれば、民の意に反して彼らは王の盾になるだろうね。
ま、そういうわけだ。
それを、王国は『あちらが和平を申し入れた』と勝った気でいる。アホだ。
帝国はその気になれば王国を捻り潰せる力がある。吾輩は皇帝のことを出来る男だと思っているが、ひとつ短所をあげるとしたら情に厚すぎるところだろう。
いっそあの時に国民の被害には目をつぶってでも徹底的に滅ぼしておく方が良かったと思う。そうしたら、吾輩のかわゆいイレーヌがこんな不愉快な目に遭うこともなかったのに。
「俺が愛するのはこの公爵令嬢リリアーナのみ!貴様の首をもって、再戦の狼煙とする。かの国を今度こそ我が領土に加えてやろうぞ!」
「そのようなことはさせません!」
「ふはは!させない、とな?女一人と猫一匹に何が出来る?お前についてきた召し使いどもは全部追い返してやったというに!」
アホは止まらない。ブレーキと知性を母親の腹の中に忘れてきたのやもしれぬ。
得意気な顔で隣の女の肩を抱き寄せれば、女も満更でもなさそうにその胸にぺったり張りつく。アホ父は後方で満足そうに頷いているのが見える。
イレーヌが吾輩を見た。
「……どうしよう、ミケランジェロ」
『なんだ?』
吾輩は一声鳴くが、イレーヌは猫の言葉を解さない。しかし、イレーヌは言葉を続ける。元より返事は求めていないのだろう。
「もう、猫を被るのをやめてもいいかなあ」
イレーヌは本来、天真爛漫でお転婆な娘だった。刺繍よりも剣術が好きだし、両親のなれ初めよりも父親の武勇伝を聞きたがった。
それでも自分の置かれた立場を理解できる年になると、淑女らしい振る舞いをするようになって国でも評判のレディーになった。
けれど、幼い頃の気持ちがなくなったわけではないのだろう。窓から剣の稽古に励む男兄弟の姿を羨ましそうに眺めていたのを幾度となく見かけている。
イレーヌは我慢強い子だった。国のため民のためとと自分に言い聞かせて敵国に嫁いできた。
嫌がらせも陰口もたくさん我慢した。
しかし、それももう限界だったのだろう。
「こんの、アホ王子!!いい加減にしろ!」
イレーヌが握りしめた拳を振りかぶる。けれど、それがアホの頬にめり込むより先、
「ぐあっ!!」
アホは地面に倒れ伏した。イレーヌの右手は空を殴っている。
アホは背中をモフモフのお手々に押さえつけら
れて動けないでいた。それは我輩の手だった。
大きくなった我輩の手。今の吾輩は象くらいには大きくなっていた。
イレーヌはただでさえ大きな瞳をこぼれ落ちそうなくらい見開いて吾輩のことを見上げている。
「ミケランジェロ……、あなた、猫神様だったの……?」
いかにも。吾輩は『我慢』を食料としている神獣である。
特に、乙女の我慢を好んで食す。甘いのに苦い味もしてカラメルソースみたいで病みつきになってしまった。
イレーヌの問いに一声鳴いて肯定を示すと、斬りかかろうとしていた騎士を猫パンチで吹っ飛ばす。
安心しろ、峰打ちだ。吾輩は蹴散らしながら王座へと迫る。
皇帝との打ち合わせでは、王族以外を処すつもりはない。
イレーヌをきちんと迎え入れ大事にしていれば良かったものを、王はなんと愚かな選択をしたもののか。彼女を粗末に扱ったせいで、……彼女にたくさん我慢させたせいで、吾輩はこんなにも大きくなってしまった。
皇帝は情に厚いが、甘い男ではない。
だって、和平を提案しつつも愛娘にこんな『爆弾』を巻き付けて嫁がせたのだから。
王が怯えた顔で腰を抜かし椅子にすがりつく。にょきり。モフモフの我がお手々から爪が出る。
「や、やめろ……、やめてくれ……!」
吾輩は猫である。
ねずみ取りが大の得意だ。