息を奪って撃ち抜いて
毒キスと弾丸
けだもの
『36階、536』
画面に映る簡素なメッセージを一瞥したのち電源ボタンを押して暗くした。たった十年で覇権を握ったトークアプリの緑色が真っ暗な部屋で酷く目障りに感じたからだ。
ベッドから這い出て覚束ない足取りのままシャワーへ向かう。肩からずり落ちた着る気のないワイシャツ、洗面所の鏡に映った自分の姿に呆れ笑いが込み上げて息を短く吐いた。黒髪は乱れ目元はほんのり色づいている。真っ白だった肌に咲いた花のいくつかは、ようやく枯れる事を選んでくれたのに今日また咲いてしまうのだろう。
温度など確認せずにレバーを強く引いて頭から水を被った。背筋に何かが這うように寒さが走って反射的に肩が跳ね上がる。顔を上げ冷たい水をそのまま受けたのは、終わりを覚悟したからだ。それと毛穴は冷水で締まるらしいので、気持ちだけでも実践しておく。人間は老いには適わないから。
ブランド物のシャンプーのボトルを頭にひっくり返した頃には水はお湯に変わっていた。42度は人の体温よりも高く、水膨れになるには低すぎる。痛めつける事も出来やしない温度を、人はこよなく愛している。
残り少なかったシャンプーはつむじから地肌に、地脈を通る水のように毛先まで流れていった。がしがしと音が出そうなほど乱暴な手つきで髪の間に指を這わせれば瞬く間に泡は膨れ上がった。ホワイトムスクの甘ったるい匂いが風呂場を占拠する。
別に好きでもなかったのにな。
ぼんやりと頭を洗い続けながら鼻を啜る。いつからこれを使い始めたんだっけ。使う前まではどんな匂いが好きだったんだっけ。それすらももう、思い出せないまま指を動かした。飽きたらお湯で流し、同じ匂いのコンディショナーを丁寧に漬け込む。待ちながらボディーソープを泡立てた。腕に伸ばしながら、これまた甘い匂いに吐き気がしそうだった。
全部を洗い流して、排水溝に溜まった髪を一瞥した。一日に50~100本抜けるのが人間だけど、そんなに抜けなくてもいいし、人でこんなにも抜けるなら動物はどのくらい抜けるのだろうか。長毛種の猫なんて、歩くだけで床が毛だらけになるのかもしれない。飼った事も、これから飼う事もないから分からないけど。
真っ白なバスタオルで身体を包み込み、染み込ませるようにスキンケアをして鏡と向き合った頃には色づいていた目元が元に戻っているのが分かった。バスローブに腕を通し髪の毛を乾かしていく。ヘアオイルは忘れずに。
リビングに向かい大きな冷蔵庫を開けた。中にはペットボトルの水といくつかの果物しか入っていない。水を手に取り、皮のついたイチジクを数個左手に収め肘で冷蔵庫を閉じた。皮の周りに着いた毛を洗い流しそのまま口をつける。乳白色の汁と、種ばかりの赤が口の端からぐちゅっと音を立て落ちていった。
嫌な音だった。
食事を済まし寝室に戻りドレッサーの椅子に腰かけた。机いっぱいに広がるメイク道具の中からいくつかを選び、残りを横に置いていたゴミ箱に流しいれていく。金色のアイシャドウ、ブラウンの瞼、白い肌にカメリア色の頬、長く上向きの睫毛、唇を色づければ派手だけれど品のある女が出来上がった。いつもと同じ顔。でも、今日で終わりの顔。
クローゼットの中からスリットの入った黒のドレスを選ぶ。ゴールドのクラッチバッグに十センチ声のハイヒール。髪を巻けば全てが完成された。
時計は午後六時を示している。部屋を後にしようとした時、忘れそうになったドレッサーの上の口紅を手に取る。バッグの中に忍ばせて部屋を出た。
もう、戻る事はない部屋に。
「待ってたよ」
上質なスーツに身を包んだ三十代半ばの男性は、部屋のドアを開けた私に微笑んだ。口角を上げ、お久し振りですと笑う。入って、手を引かれ入った先は三ツ星ホテルの36階、536号室だ。広い部屋にカーテンのない大きなガラス窓の向こう側で夜の街が光り輝いていた。
「綺麗ですね」
「前に、夜景が好きだって言ってたから」
そんなもの嘘だと、口から出かけた言葉を飲み込んだ。ソファーまで腕を引かれテーブルの上に置かれた色とりどりの軽食とグラスの中で泡を立てるシャンパンが輝いていた。
「先飲んじゃったんですか」
「待ちきれなくて。ごめんね」
「いいですよ、私、優しいので」
私のグラスにシャンパンを注いだ彼は柔らかに微笑む。ネクタイに手を伸ばし緩めれば、指先を掴まれ唇を落とされた。もう、と笑みを零しその手を引いて乾杯をした。
ベッドの上、背を向けたまま眠る男性の背骨に指を滑らせた。一糸まとわぬ肌は、爪を立てると赤くなっていく。規則正しい寝息が聞こえた。ベッドから抜け出し床に乱雑に落とされた服の中、男性が来ていたワイシャツに袖を通す。ボタンをいくつか止めて膝立ちした。太ももまで隠れたシャツに先程まで散々気づいていたはずの体格差を改めて思い知らされた。
「いい人」
紳士的で、穏やかで、欲に忠実で、素敵な人。いい人とは、多分こういう人の事を言う。
「貴方の事を好きになれれば良かったのに」
彼無しでも、私は息が出来るし、彼が明日いなくなっても、多分何とも思わない。私は、そういう人間だ。
そういう風に、育てられた人間なのだ。
クラッチバッグの中から取り出した口紅を塗った。青みがかったピンク。ベッドサイドのランプが、唇を宝石のように輝かせた。
「ん……」
男性がもぞもぞと動き始める。瞼が薄く開いて、私の事を捉えた。眠らないの?私の髪に触れ、壊れ物みたいに肌に指を滑らせた。その手を掴み、指を絡めていく。
「眠るのは貴方」
微笑んで唇にキスを落とした。気を良くした彼の口角が上がる。開いた唇に深く深く口づけをした。すると数秒もしない間に男性はもがき始めた。両手で私の腕を肩を掴み、口づけを止めさせようとする。私はゆっくり唇を離した。透明だったはずの糸は、赤色で染まっている。
「な、にを……」
顔面蒼白。息も絶え絶え。自分の首を掻きむしるように爪を立て、唇の端から漏れ出す空気の抜けた音に、残念だねと笑った。やがて彼は血を吐く。私の頬に赤が飛び散った。36度よりは温かく、42度になる前に冷たくなった。泡を吐き始めた彼に、もう一度唇を落とす。軽く、触れるだけのキス。ご丁寧にリップ音を立て、おやすみなさいと呟いた。
数秒後、息が止まった。
真っ暗な部屋でベッドに座り込む。クラッチバッグからスマートフォンを取り出して、メッセージを送った。ゴミ箱の中に捨てられた欲の塊が、やけに目についた。
数十分経ったくらいだろうか。部屋の扉が開く音がした。眠りかけていた私は死体の隣で横たわっていた身体を起こす。寝室の扉が乱暴に開け放たれた。真っ黒なスーツに身を包む貴方は、部屋の匂いを嗅いで酷く顔をしかめた。
「する前に殺せよ」
酷く冷たく言い放たれた言葉に私は微笑む。それを言われたいがためにやっているなんて言ったら笑うだろうか。
「回収しろ」
貴方の後ろから何人かが現れて、ものの数十秒で死体を袋に入れ、抱えて消えてしまった。部屋に残ったのは二人だけで、貴方はゴミ箱を見たのちより一層眉間に皺を寄せた。
「さっさと殺せ」
「殺せないよ。体格差で」
「不意なんていくらでもあるだろ」
言われてしまえばその通りだけど、私は私で好きにやっているのだ。
「そんでその服着るな」
「おさがりだよー」
「死体のな」
ベッドの端に腰かけた貴方は懐から取り出した煙草に火をつけた。ああ、嫌だなあ。さっきの人は吸っていなかったのに。私がその匂いを嫌うのを、知っているくせに当てつけで吸うのだ。
「いつになったら普通に殺し屋するんだよ」
「してるよ殺し屋」
「プロはとっとと殺してる」
「プロだから楽しんでから殺すんだよ」
「毎回証拠隠滅のために必死になる俺の立場を考えろ」
猫背は先程まで隣にいた人とは正反対だ。気怠そうに掻いた首から、小さな花が枯れかけているのが見えた。
私は殺し屋で、この人は一応上司。さっき殺した人は戦地に武器を横領していた会社の取締役の息子。でも本人は何も知らなかったらしい。惜しい好青年を亡くしたが、取締役ではなく息子を殺す事で精神を崩壊させ、事業を撤回させる事が目的だったそうだ。
ちなみに、昨日は横領した先の会社の人を殺したし、その前は軍の偉い人を殺している。
毒入りの口紅で。
「口拭え」
投げ出された箱ティッシュに、さっきまで違う用途で使われてたなあなんて呆然と思いながら唇を拭っていく。女が殺し屋として仕事を全うするなら、ハニートラップが一番早いと言ったのは誰だったか。もっとも、ただのハニートラップでは簡単に騙されてはくれないから、数ヶ月の期間を使って懐に飛び込んでいくのが私の手段である。
髪色を変え、メイクを変え、身分を変えて、本当の自分を捨てていった。
「ほら」
今度は濡れタオルが投げられた。唇を当てた所から色が変わっていく。馬鹿だなあ、毎回白いタオルなんて止めればいいのに。一回で使い物にならなくなるものなんて、人も何もかもいらないのだ。
毒入りの口紅で深いキスをして人を殺す私は、その界隈でオンディーヌと呼ばれている。オンディーヌの呪いなんて、そんな生易しい物ではないけれど。それでも私自身に毒が効かないのは長年に渡り耐性をつけられたからだ。
「オンディーヌ」
だから、本当の名前を失くしてしまった私は必然的にその名前で呼ばれて、その名前で誰かを殺すのだ。
「部屋は片したか」
「片したよ」
「夜明けにこの国を離れる」
この国での殺しは終わりだと、さっきの男性が最後であると言われていたから知っていた。だからメイク道具を捨てたし、冷蔵庫は空っぽだし、シャンプーも使い切った。後は回収班が何とか綺麗にしといてくれるだろう。駄目だったら、燃やすかもしれないが。
「さっさと脱げ」
ワイシャツを顎で指され、私はふざけてえっちーと言った。元の服に着替えろというけれど、これは私の少しばかりの反抗である。殺した男から奪ったワイシャツを見にまとう事で、貴方の眉間に皺が寄るなら、それほど嬉しい事はないのだ。
無視する私に貴方は煙草の吸殻をゴミ箱に投げ入れた。そして、殺人現場に私を押し倒した。乾いた唇が重なって苦い煙草の味が口内を埋め尽くす。思わず眉間に皺を寄せれば、今度は貴方が楽しそうに笑う番だった。
ああ、やっぱり嫌いだなあ。髪から香るシャンプーは、以前までの私が好んで使っていた石鹸の匂いがした。緩めたネクタイの先から香る身体は、以前まで使っていたボディーソープの匂いがした。口内を蹂躙した煙草の匂いだって、私が嫌だから止めてって言ったら吸わなかったくせに。
普通の幸せが、二度と訪れない事を貴方のせいで何十回だって思い知らされるのだ。
無骨な指先が頬を撫でる度、愛おしそうな顔がこちらを見る度に、貴方無しでは息が出来ないと思い知って、二度とも戻れない事を知っていく。他の誰かと遊ぶたびに、結局最後はこうなってしまうって、枯れた花が再び咲いてしまうのも知っているのだ。
「殺せばよかった」
「誰を?」
「さっきのやつ。俺がやればよかった」
ああ、歪んでしまったなあ。普通になんてなれないくせに、手を離す気なんて毛頭なくて、一緒に死んで運命から逃れる勇気もない私たちはまた、指を絡めていく。
「いつか、殺してあげるね」
貴方の重荷を、私が全部背負ってあげる。あの口紅で、呪いをかけてあげる。二度と目が覚めないように、キスで全てを終わらせてあげよう。
でも、それはまだ早い。
「そっくりそのまま返してやる」
いつか。貴方が胸を打ち抜いて、私が息を奪うだろう。この恋物語はそういう終わり方をする。平凡な家庭とか、青空の下で手を繋ぐとか、そんな未来訪れはしない。
求めあって、もう一度唇にキスを落とす。
けだものみたいだなんて鼻で笑いながら、せめて明日の朝は二人でご飯でも食べれたらいいなあと思った。