気に入られても、ねぇ…。
俺が赤西に手紙を指導した話は、元々交流のあった何人かに広まった。刑務作業が同じやつ、食堂で少し話たやつ、森山の顔馴染み、そいつらから文章の書き方を指導して欲しいと言われたのである。確かに携帯電話を没収され面会時間も限られている中であれば、限られた手段の中で外部とのコミュニケーション方法は手紙のみ。しかし、その手紙をマトモに書けない奴もいる。だから、俺が頼られた。
ただ、この話はここで止まらなかった。高卒認定の勉強を手伝って欲しいと頼まれ始めたのだ。ここでは大学を出ている人間の方が少数派ではあるが、それでも俺より良い学校を出ていている人間はそこそこいる。サイバー犯罪とか横領とか、その手の奴ら。過去にそいつらに頼んだ事はあったらしいが、しかしそれでも学力のレベル差があり過ぎて教えられなかった。対し土屋なら学力の差がそいつらより無いはずだから、頼むなら土屋。周囲ではそう結論付けられた。…頼られるのは嬉しいんだけど、釈然としない。森山には「ここにいる大卒の中で一番馬鹿って事だ」と結論づけられた。まぁ、それはそうなんだけども。
刑務所での生活にも完全に慣れて、それに刑務作業以外の時間は暇だったし、引き受けた。数学や物理はなんとなくの範囲でしか教えられなかったのだが、国語、日本史、現代社会、政治経済あたりはなんとかなった。さらに俺が無理そうな範囲は、森本が得意だったので、なんだかんだ広い範囲をカバーできたのである。
ただ「とりあえず土屋の話聞いておこう」みたいな輩が増えてくると、大学の頃「とりあえず土屋のノートコピらしてもらおう」みたいに群がってきたのを思い出してあまり良い気分ではなかった。
3回目の高卒認定試験結果が出た頃、俺はこの刑務所の所長に呼び出された。年に一度の挨拶以外でお目にかかるのは、これが初めてだ。所長を近くで見ると、「昔はイケメンでモテていた」と言われても信じてしまいそうなだが、今はメガネをかけて小太りな普通のおっさんとしか思えない風貌だった。
「君が、土屋くんだね。噂はかねがね聞いているよ。君のおかげでウチの刑務所の評判がいい」
そもそも刑務所に評判なんてあるのか。食べログみたいに星の数が出て、この刑務所は看守が最悪でした、みたいにコメントを書かれたたり。そんな訳ないか。
「元々記者をやっていたんだって? どうりで現社や政経が得意な訳だよ」
「いえ、自分なんて下っ端でしたので大したことないですよ」
「そんな事ないよ。君の存在はとてもありがたいんだから。結局のところ刑務所は更生して欲しい施設なんだ。だから君が高卒認定という一つの実績を残してくれるのは大きい。君を気に入っているんだ。なんならずっと居て欲しいぐらいだよ!」
俺はずっと居たくないので、気に入られても、ねぇ…。そもそも冤罪だし。
とはいえ、この刑務所内で独特のポジションにありつけたのはありがたい。徒党を組むでも、腕っ節が強くなるでも、調達屋になるでもなく、囚人の間だけで自分の立ち位置が確立されているのだ。悪い気分では無い。
ただし、この時の俺は気付いていなかった。この「所長に気に入られる」面倒臭さを。
最近刑務所が荒れている気がする。喧嘩がやたらと多い。構図としては、勉強をしていない人間が、勉強している人間の邪魔をして、ここから喧嘩に発展する。俺自身は看守とも交流があるので直接的被害は無いのだが、俺が対立を煽っているみたいであまり良い気分では無い。
自由時間の運動場も、変な緊張感に包まれている。前のようにワイワイ騒ぐ人の数も減っている。ただ、その運動場を広く悠々と使ってキャッチボールをやっているのが、五十嵐。一ノ瀬さんが警告してくれていた。「五十嵐って男には気をつけろ。俺が入る前からこの刑務所に入っている囚人なんだが、知る限り8回は懲罰房に入っている。実際はもっと入っているかもな。それに最近は聞かないが、アイツがここに入ってから4人もの『変死体』が見つかっている」こういう怖すぎる噂だった。
かてて加えて最悪なのが、この五十嵐という男が喧嘩をふっかける側のグループのリーダーだという点である。凶暴な五十嵐と、頭脳派の土屋、なんかこういう変な対立構造になっているらしい。
五十嵐のグループは、ゴロを捕ったりフライを投げたりして楽しんでいる。あんなに楽しそうに体を動かしているのに、何人も人を殺しているとは、人は見かけによらないらしい。チラチラと見ていると誰かがボールを後ろに逸らし、俺たちの方へ転がってきた。
「おい、さっさと取りに行けよ栗原ァ!」
五十嵐が激しい口調で命じた。そんなに大きな声を出さなくても聞こえるのに。栗原と呼ばれた小柄な男は、ゆっくりとボールを拾い戻っていった。
「あの栗原って人は、なんの罪で入ってるんでしょうね」
日本が流暢になった赤西は、その疑問を俺に投げかけてきた。
当然俺は答えられないのだが、それでは会話が盛り上がらない。なのでせめて、俺の推測を説明した。
「さぁ、今までイジメられていて、その仕返しで何かをやらかした…、とか?」
「なるほど」
「そういえば、森山さんと土屋さんは何で刑務所に入ったんですか?」
思い返すと、赤西に自分の入所経緯を話した覚えがなかった。しかし森山と赤西は同じ房のはずなのに、そんな事もお互い知らなかったのか。俺は初日で知ったぞ。
「俺は、喧嘩だ。喧嘩で人の骨を折ったのと、それと決闘罪だ」
「タイマン張ったてことですか?」
「…まぁ、そんなところだ」
「土屋さんは?」
「俺か。えーっと俺は……」
自分の身の回りでは人の出入りがなく、長らくこの説明もしていなかった。一連の話で、忘れかけていた部分がいくつもあった。思い出し、自分で自分に言い聞かせるように、俺は自身の、ここに入るまでの経緯を説明した。弁護士にも「ハメられた可能性がある」と言われた事まで。
「うん、そんなところだ。それで入ってから、もう長いこと経っちまってるな」
赤西は、確かに驚いていたのだがそれ以上に、何かを訝しんでいた。
「どうした、赤西」
「いや…その、実は以前留置所で同じような話をしていた人がいたんです。コインロッカーにあるパンツとセットになるブラが部屋から見つかった、って」
これはある仮説の信憑性を高めた。俺はハメられたのかもしれないのだ。
これを所長に伝えに行った。そして所長は応えた。
「なるほど、君は一度決まった判決を覆したいわけだ。しかしそれは、私になんのメリットがある? 面倒な手続きが発生するし、気に入っている君を手放さなければならないんだぞ」
俺は絶望した。俺たちはこんな男に閉じ込め、更生を強いられていたのか。
「しかし…」
所長は言葉を続けた。
「お前が何か、こちらに成果を見せたら考えないでもないぞ」
俺は所長室を出た。扉のすぐ外に、以前飯を奪われかけたのを止めてくれた看守がいた。
「厄介な条件を出されたな」
「ですね」
短く応えて、房に戻っていった。おそらく俺は、気に入ってもらう相手を選ぶべきだったのだろう。