sLave the cat(ねこのどれい)
スーツ姿の餌飼 幸太郎の前には、一匹の三毛猫がいた。
三毛猫は、幸太郎に言った。
「ダンジョンねこだよ」
「きみはボクの主、ダンジョンねこマスターになって」
「ボクに住み良いダンジョンを作る義務があるよ」
「義務か」
幸太郎は光らせたメガネに指を当て、クイ、と上げた。
◇
3メートル四方の密閉空間。
通勤途中。混み合った電車の中。
つり革につかまってウトウトし、ふと気づいた瞬間。
幸太郎はすでにそこにいた。
石造りの壁、天井。
石畳が張り巡らされた床。
それらの模様は規則性があり、人工物であることを感じさせる。
発光体の存在はどこにもなかったが、部屋の中には暗闇を感じない。
狭い部屋のすみずみまで、はっきりとよく見えた。
これだけの異常事態にもかかわらず、幸太郎はなんだか馬鹿馬鹿しい気分になる。
…三毛猫に話しかけられているのだ。
幸太郎は気の抜けた表情で床に座り込み、よっこらせ、とあぐらをかいた。
正直困る。
幸太郎はそう思う。
その身にまとうダークスーツにネクタイ。
磨かれた革靴。
ちょっとおしゃれなメガネ。
いろいろなものが入った、革の手提げ鞄。
ふところのスマートフォンも財布もカードケースも、全て無事だ。
幸太郎は革の手提げ鞄を床に置き、しっかり剃った顎をさすって三毛猫と向かい合った。
「なあ、猫よ」
「ダンジョンねこだよ」
三毛猫はすまし顔で、そこにちょこんと座っている。
「…ダンジョンねこ、俺に義務があるのはまあ、分かった」
「だがな、今はとにかくいろいろなことがわからない。たとえば、なぜ俺がここにいるのか」
「ボクが呼んだよ」
「…どうやって?」
「ダンジョンねこの魔法で呼んだよ。『マスター召喚』」
「マスターがいない時、便利な魔法だよ」
「便利な『魔法』か」
幸太郎のメガネがギラリと光り、表情を隠す。
「…それは…便利だな?」
「うん」
(一見、ただの猫だが…。話が本当ならば、人の理を外れた不条理な存在)
(この猫は何故俺を呼んだ?…その目的が悪意にまみれた事柄ならば)
(…はてさて、俺はどうすればいい?)
幸太郎はひりつくような緊張と、押し殺した警戒とともに、ゆっくりと猫に探りを入れる。
「…それで?お前はどうして、俺をマスターとして呼んだ?」
「この部屋を見て」
三毛猫は小部屋を見回す。
幸太郎も同じように見回す。
「狭いな」
ただの小部屋。装飾も調度品もない。
そしてすごく狭い。
「しかもなにもない」
「ここまでは頑張ったんだよ」
三毛猫はフンスと自慢げに言う。
そして小首をかしげた。
「でも、ボクにはどうもしっくりいかない」
「…そうか」
全身から力が抜ける。
幸太郎は目を伏してうつむいた。
膨らんだ警戒と緊張が、ヘナヘナと穴の空いた風船のようになる。
「だからマスターを呼んだよ」
「…しっくりいかなかったか」
「そうだよ」
三毛猫はよそ見をしながら言う。
ふと気がついたかのように幸太郎に向き直り、話を続けた。
「だからマスターはボクの力を使って、ボクに住みよいダンジョンを作ってもらうよ」
「あと、ご飯も出してもらう」
幸太郎は脱力したまま、困りきった顔で答える。
「…まあ、そうだな。ご飯は重要だ」
「重要だよ。でも他に多くは望まないよ」
三毛猫は厳かに告げる。
「マスターはマスターで。好きにしてていい」
「ボクに構いすぎるのも困るし」
「ボクが構われたい時は構ってくれるといいよ」
◇
「…うーむ」
幸太郎は整髪料でセットされた頭をぐしゃぐしゃと乱す。
「つまり俺は、ダンジョンねこによって異世界に呼ばれたんだな」
「うん」
「そして義務として、お前の住処を作る手伝いをしなければならない」
「ご飯もね」
「そうだな」
答える三毛猫を見て、幸太郎は無表情になる。
何かをこらえるように、ぶつぶつと呟きだした。
「…向こうで俺が培った、すべてのものを投げ出して。お前のためにダンジョンを作らねばならないだと?」
「仕事も、生活も。積んだスキルも、人との関係も」
「全部が全部…すべてがすべてだぞ…?」
「…それを全部、無理やり捨てさせられて、一方的にこんなおかしな事に巻き込まれて」
「小部屋で猫の世話をしろ、だと…?」
小声でぶつぶつ呟く幸太郎を、三毛猫は不思議そうに眺める。
耳をピクピクとさせて、三毛猫は聞いた。
「どうしたの?マスター」
幸太郎の脳裏に、色々な想いが走馬灯のように駆け巡る。
仕事で積んだ結果の数々。上司や同僚と培った関係。
取引先や顧客。自分のために積んできたさまざまなもの。
努力と忍耐。
齟齬と解決。
摩擦と割り切り。
世界を住み良くするための哲学と自己研鑽。
…やむにやまれぬ屈辱と、ささやかな反撃。
その結果が、成果が。
そこにはたしかにあったのだ。
それらはすべて、煙のように幸太郎の前から消えてしまった。
「クハハ…」
幸太郎は、虚しく笑った。
そしてあぐらを解いて膝をつく。
漂う悲壮感。
両手を床に付き、彼は力無くうなだれた。
幸太郎は、万感の想いを込めて、言葉を絞り出した。
「こっちのほうが」
「ずっとずっとましじゃないかーーー!!」
ダンジョンねこは大声にびっくりして、ブワと毛を逆立てる。
何歩か後ろに駆け出して、おずおずと振り返った。
「…びっくりしたよ?」
「すまん」
うなだれた顔を上げ、幸太郎は立ち上がった。
「…そりゃあそうだ。このほうがずっとずっと、ずっとマシだ」
そして両手を広げ、不敵な表情で、空(天井)に向かってのたまう。
支配者のポーズだ。
「世界よ。貴様が俺に押し付けた、すべての重荷を捨て去って、俺はこの先ずっと猫と戯れ生きることにするぞ」
「うらやましいか?」
「羨ましいだろう!」
「ククク…ハハハハ…クハハハハ!」
三段笑いで哄笑する幸太郎を見上げ、三毛猫は疑問の声を上げた。
「…えー?」
その声に我に返った幸太郎はピタリと笑いを止め、どっかと床に座り直し、あぐらをかく。
「やるよ。ダンジョンねこ。お前の奴隷に俺はなる」
「…?」
ちょこんと座り直したダンジョンねこは、コテンと首をかしげる。
「きみがマスターだよ?」
「そうだな」
幸太郎は楽にあぐらをかき直し、ダンジョンねこにニヤリと笑いかけた。
「幸太郎だ。餌飼幸太郎」
「よろしくな、ダンジョンねこ」
ダンジョンねこは、いまだ不思議そうに、幸太郎に答えた。
「…?…よろしくね?コータロー」