1848年の革命騒動
「来るべきものが来た」
そう俺は想った。
革命の種は十二分に蒔かれている。
後はそれを収穫せねばならない。
但し、それは俺が考える方向でだ。
メッテルニヒには因果を含め、水面下で自由主義化を進めさせている。
更にカトリック教会、ローマとの関係をできる限り、好意的なものに進めている。
オーストリアは、1848年の革命をできる限り、傷の少ない形で乗り切るのだ。
1848年2月、フランスで革命が起きたとの知らせを受けて、オーストリアは直ちに反応した。
1年以内の憲法制定、その象徴としてメッテルニヒの辞任と英国への亡命承認、通商、出版、言論の自由は直ちに承認されるとの勅令が速やかに出されたのだ。
これは革命支持の穏健派を速やかに満足させるものだった。
そして、憲法の原案として続けて発表されたのは、議会は庶民院と貴族院の2院制とし、庶民院は普通選挙が導入される、との折衷案だった。
これは、反革命派、革命派双方に不満を残すものではあったが、俺の予測通り、それどころではない事態が続けて起きてくれた。
ハンガリーやポーランドで独立を求める暴動が起き、更にイタリアでも統一を求める動きが起きたのだ。
俺は、史実ではハンガリー独立のために戦ったポーランド人のユゼフ・ベム将軍を味方に引き入れることに成功し、彼をポーランドの独立運動の支援のために向かわせた。
言うまでもなく、それなりの武器弾薬や資金の援助も、カトリック信徒のポーランド人支援を大義名分としてカトリック教会、ローマ教皇庁を介して(秘密裡に)行っている。
このために。
有能な将軍が1人いないことから、ハンガリーの抵抗は史実よりも弱いものになった。
その一方で、ポーランドの独立運動は史実より過激化した。
そのために、ロシア軍の主力は史実よりもポーランドに向けられることになった。
そして、裏に俺がいるらしい、と察したロシア軍は、ドイツ人に対してもその弾圧の矛先を向けだした。
これは俺にとって、更に好都合な事態が起きたと言えた。
ドイツ民族主義をロシアは弾圧している、と俺は主張し、その報復としてポーランド人を公然と援助できるようになったからだ。
俺はこの状況を煽れる限り、煽ることにした。
この状況に、プロイセンは頭を抱えることになった。
ドイツ民族主義を弾圧しているロシアと手を組んで、ポーランドを弾圧するのか、という声が国内外から高まってしまったのだ。
しまいには、ドイツ民族の裏切り者とまで、フランクフルト議会の議場では、大っぴらにプロイセンは叫ばれるようになってしまった。
こうした混沌の中で、俺は朕と自らを呼ぶ立場になった。
フランツヨーゼフ1世として、俺はオーストリア皇帝に即位したのだ。
予め分かっていたとはいえ、本当に身震いせざるを得ない。
21世紀初頭までの歴史を知った身で、斜陽の帝国の皇帝に即位する運命の身に転生したのが分かった時には、俺は半分絶望したくなった。
史実通りに流されては、弟を、妻を、息子を失い、更に帝国をも失うという(もっとも、帝国の滅亡を見ずに俺は死ぬのだが、俺が死んだ時点で、帝国滅亡は確定的だった)運命を変えねばならない。
それこそ史実のフランツヨーゼフ1世同様に、俺は猛勉強に励むことになった。
だが、俺は21世紀の人間だ。
史実のフランツヨーゼフ1世と異なり、自由主義、社会主義にそれなりに(内心では)理解を示した。
そして、歴史の知識を活用して予言めいたこともした。
こうしたことから、
「マクシミリアン1世の再来」
「将来のオーストリア帝国の期待の星」
と周囲からの期待は高まる一方になった。
かくして俺は皇帝に即位し、生き延びるために辣腕を振るうことになった。
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