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びっこのポーギー

作者: 小島克

昔「びーどろ」というジャズのライブハウスを経営していた高森さんが初めてこの店のドアを開けたのは、桜が満開の土曜日の午後で、コーヒーを注文し、初めの一口、二口をゆっくりと飲みくだすと、口元を弛め窓の外を眺めた。


80年代という、まるで新時代が到来するかのような幻想が、ロック喫茶、ジャズ喫茶、輸入レコード店、中古レコード店、中近東雑貨やアジアン雑貨の店、古着屋に古本屋が所狭しと無秩序にそれにやや怪しげに並んだ幾つかの雑居ビルをまとめて壊したのだった。しばらくの間その土地は放置されたが、三年か四年が過ぎて、シネマコンプレックスにボーリング場、それに三フロアーにわたるゲームセンターを備え、屋上には遠く旭岳を一望する観覧車の回るアミューズメントビルが賑やかにその姿を見せびらかせると、風景は確かに80年代の幕を開けたようだった。

「びーどろ」が閉店したのはその雑居ビルからの立退きではなく、高森さん自身の小さな事故のせいだった。氷った薄野の路上で転び頭を打ち、酩酊にまかせて歩いて家に帰る途上に倒れ、そのまま病院に運ばれたのだった。当時僕は香港にいて「びーどろ」の入っていたビル一帯が無くなることは知っていたけども、高森さんの話はその事故から数年後に人づてに聞いた。街中で偶然擦れ違った高森さんは片足を引き摺り、表情が少し変わっていて、僕のことを覚えていなかった。


店の開店案内を高森さんにも送っていたが返事はなく、一年と半年が過ぎたその日高森さんがドアを開けた。

「コーヒーね」と高森さんは注文した。そして、美味しいよと言う。どこで修行したの?

「いえ、自己流で」

「そう。とっても美味しいよ」

タバコを吸って、コーヒーを飲み、窓の外を眺めて、三十分程を過ごした。

翌日、また美味しいの飲ませてねと言って、コーヒーとタバコ一本の僅かな時を過ごし、それから毎日のように午後の二時前後に店のドアを開け、三十分ほどを過ごしては帰っていく。

その時間にはジャズのレコードを掛けた。マイルスやデューク・ジョーダン、チェット・ベイカー、キース・ジャレット。

「このレコード、僕も以前持っていてね、あげちゃったんだ。僕、昔ライヴハウスをやったことがあってね、いっしょに手伝ってくれてたやつがいいですねぇコレ! なんて言うもんだからさ、なんか嬉しくなってあげちゃった」

「大事にしてくれているといいですね」と僕は言った。

「ここでコーヒーを飲んで、こんなレコード聴いてると昔を思い出すよ」と高森さんが言う。

「こんどよろしければそのライヴハウスの話も聞かせてください。僕も以前ジャズ喫茶でアルバイトしてたことがあって、よろしければ」

そうだね。と窓の外に顔を向けて高森さんは言った。


不意に高森さんが姿を見せなくなって、春が終わり、店内に強い西日が入りこんだ。外に一つだけ置いた小さなテーブルには、犬連れの婦人や人の往来を眺め続けるスーツ姿の男性やらが、長い時間席を空にすることがない。スーツはもう暑いだろうなと思っていると、昨日も一昨日も来ていたような顔をして、ミンガスの直立猿人のレコードジャケットがプリントされた T シャツ姿の高森さんがドアを開けた。

「美味いねえ」

「あなた、どこで修行したの」


次の桜の季節にさなえさんが店を訪ねてきてくれた。

「わたし、分かる?」

さなえさんは「びーどろ」のお客さんで、月に二度三度営業中高森さんのことを連れ出しては、酔いつぶれて高森さんに連れられて帰ってきて、閉店過ぎまで眠っていたのだった。

「高森ね、二月に亡くなった」とさなえさんは言った。

「これ、あなたにって」

キース・ジャレットの “ The Melody at Night , With You ” だった。

「これあなたが好きみたいだからって言って、私に CD 買わせて俺が持ってくって言ってたんだけど。買ってきてみたらもうなんで買ってもらったんだか覚えてなくてね、ずっと部屋に放りっぱなし。私はここの開店のご案内を頂いた時から、あなたがやってる店だって分かったから、本当はすぐにでも高森と来たかったんだけど」

さなえさんがカウンターに腰を掛けて話すのを聞きながら僕はコーヒーを淹れ、淹れ終えてからターンテーブルのレコードを掛け変えた。“ I Loves You , Porgy ” が流れて、さなえさんの目と耳が赤くなった。唇を噛みしめているようだった。それから少し落ちついてコーヒーを口にしたので、僕も口を開いた。

「このレコード、びーどろから持ち出しちゃったままのやつなんです」

二曲目が始まるとすぐに、針が一度飛んだ。

「高森さん、このジャケット見て、若い奴にあげたんだなんて言ってたけど、分かってたのかな」

「ねえ、コーヒーびーどろのと似てる」

「同ンなじですよ。豆も焙煎も淹れ方も高森さんの味のまんまです。すごく美味しかったですもん、あの味を変える気なんか全然なかったし、高森さんも気がついたかなって思ってるんですけど」

「いいわね」と、さなえさんはほくそ笑んだ。

「また来るね」と言ってさなえさんが帰って、まだ外は明るかったけど、店はすぐに賑わいを見せた。隣駅にある大学のブルース研究会が八人押し寄せてきて、ブラインド・ウィリー・マクテルをリクエストし、壇上寺のオカマの僧侶くうちゃんが友人らしい二人の女性を連れてビール瓶を次々と空にした。ジャズのレコードを、その日もう掛けることはなかった。


そのお客さんはいつも午後の二時過ぎに店のドアを開けて、コーヒーを注文し、「美味いねえ」と言う。

「どこで修行したの」

「自己流なんです」と僕は答える。

ジャケットの底も抜け、三方をセロテープで補修した “ The Melody at Night , With You ” を僕はターンテーブルに乗せる。

「これ、僕も大好きなアルバムでね、昔友達にあげちゃってから聴いてなかったけど、やっぱりいいねえ」

僕はうなずく。

「前にライヴハウスをやってたことがあってね、山下洋輔、板橋文夫、古澤良治郎、坂田明、大友良雄、鈴木勲、向井滋春、渋谷毅、梅津和時、武田和命、当時のジャズ・ミュージシャンみんな演奏してくれた。凄かったんだ」

「またやらないんですか」

「そうだね」

そのお客さんの脳には深い傷があって、ひどく鮮明な一部の記憶があるかと思えば、今の記憶を明日まで残すことが出来ない。

「びーどろって、ジャズの世界では知られた店でね、浅川マキもやったな。渡辺香津美も、渡辺貞夫、日野皓正、日野元彦、森山威男、土岐英史、川端民生、菊地雅章、林栄一。ジャズが日本の音楽だったような気さえするよ。そうだね、またみんなの演奏が聴けたらいいよね」

「楽しかったんでしょうね」と僕は言った。

「うん」と、高森さんは嬉しそうに微笑んだ。

「そうだね、またやろうかな」


窓の外を眺めながら優しい笑みを見せて、またやろうかなと言った高森さんがシャボン玉が割れたみたいにいなくなって、僕は店を閉め残った洗い物をした。

さなえさんの持ってきてくれた CD を掛けた。ノイズの無い、澄んだピアノの音がこぼれた。ガーシュウィンのメロディーは優しく、キース・ジャレットが紡ぐ音色でその優しさがスピーカーから溢れだしているようだ。繰り返し繰り返し僕は “ I Loves You , Porgy ” を聴いた。その音とメロディーのせいで、それとも再び浮かんだ高森さんの笑顔が今度はいつまでも消えずにいたせいなのか、僕の目からも涙がこぼれて溢れてばかりだった。

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