第三話 いろいろな質問
彼女の絵は……ひどく乱れていた。でも乱れた中に輝く何かがあって、僕はそれを感じ取ることができた。そして同時に分かった。この絵は僕には絶対に描けない、と。
「ど、どうですかっ。私の絵……」
どうって言われても……。
でもこの時の僕は、思ったことを素直に言った。その絵に対する熱量と意志は本物なんだと、本当に絵を描こうとする姿勢が見られたからだ。
「すごく描き手の意思を感じる力強い絵です。色使いが独特で、そこに吸い込まれそうなくらい世界観が構築されています」
それを聞いた柳さんは、数秒くらい石膏像みたいに固まって、しばらくしていつもの柳さんに戻った。
「ほんとですか!? ほんとのほんとにっ!?」
語彙力が失われたその喜びの感情は、彼女っぽさがよく出ていて、暑苦しかった。
「本当です。思ったことを言っただけです」
「うれしいなぁっ。褒めてもらえると思わなかったんですよ、最初。藤和先輩なんか堅そうだし。でも、違ったんですね! なんか勘違いしててすいませんっ」
堅そう。確かに周りから見たら、僕はそんな風に見えるのかもしれない。
「それにしても、先輩、絵描くの得意だったんですか? なんかやけに専門的な言葉を喋ってたような。中学の頃、美術部だったとか?」
「中学の頃は普通に帰宅部でした。今は絵は描かないし、柳さんが思ってるようなものじゃないですよ」
「へぇー。でも、絵が大好きなんですねっ!」
「……っ」
一瞬体が動けなくなるくらい震えた。刺さった。僕の心の奥底の大事な部分に刺さった。
柳さんはそんな意味で言ったんじゃないと分かっている。それでも今の僕には、その言葉はどんな針よりも鋭く、どんなハンマーよりも強烈に、僕を傷つける。
「先輩? どうかしましたか?」
その言葉に悪気がないことが分かれば分かるほど、傷が深くなる。
「ちょっと眩暈がして。体が弱いんです」
嘘だ。体はそんなに弱いほうじゃない。むしろ弱いのは心だ。
「え、すみません……。申し訳ないことをしました……」
「こちらこそ気使わせてすみません。もう大丈夫です」
「とりあえず座ってください。まだ安静にしてないと」
そこで初めて自分たちが立っていることに気づいた。どうやら、彼女の絵を見たときに思わず立っていたみたいだ。
しばらく無音が訪れた。僕にとっては本来、居心地のいい環境のはずなのに、先の一件のせいか心がざわついている。むしろ柳さんと喋っていたほうが気が紛れるんじゃないかと思うくらい。
「あ、あの、先輩のこともっと訊いてもいいですか……? さっきみたいなことがあったら申し訳ないし……」
「個人的なことをあまり人に話したくないんです。すみません」
正直、自分のことをべらべらとは話したくない。
というか、この柳迎季乃という人間は、会って間もない人によくぐいぐい来れるな。
「いや、そのっ、そういうことじゃなくてっ! 好きな食べ物とかでいいんです。ほら私こんな性格でしょう? なんか人と喋ってないと落ち着かなくて。私のも教えますから!」
好きな食べ物って、小学生の自己紹介じゃあるまいし、と思った。けど、僕も何か喋って気を紛らわせたかった。そうでもしていないとおかしくなりそうになる。
「好きな食べ物は特にないです。食べられればそれはおいしいと思ってます」
「えぇぇー。そんなの寂しすぎますっ。何か一つ! 何か一つくらいないんですか?」
そんなこと言われても、好きなものがないのは本当だ。しいて言うなら、
「味噌汁ですかね。なんというか安心できるというか。飲むと心がとても落ち着くんです」
「み、みそしる……。藤和先輩何歳ですか。高校二年生の発言とは思えませんよ」
こんな少しズレている回答にも真面目に彼女は反応する。
「赤味噌ですか? 白味噌ですか?」
「もちろん赤味噌です」
ほぉーと感心しながらうんうんとうなずいている。
「じゃあ次の質問行きますっ」
次もあるのか……。
「好きな教科は何ですか?」
好きな〇〇シリーズしかレパートリーがないのか……。
「好きな教科も特にないです、ちなみに苦手な教科もないです」
柳さんが絶望した顔でこちらを見てくる。
「もう、先輩は個性っていうものがないんですかっ! 好きとは言わず得意な教科くらいあるはずですっ!」
とは言っても、本当に何もない。勉強は万遍無くやってきていて、可もなく不可もなくできるはずだ。
僕の『本当に何もない』と言いたげな顔を見た柳さんは、すこし頭に手を当てた後、悪魔が悪だくみをするみたいな顔になった。
「じゃあ三つ目の質問! 現在好きな人またはパートナーはいますか?」
「…………いるわけないです」
柳さんが少し怯えたのが見て取れた。
彼女からしたら、色気づいた話の一つや二つでも訊きたかったのかもしれないけど、僕にそんな話はないし、する資格もない。
「……へ、へぇー、過去に何か……あったり?」
「そういうわけでもないです」
「それじゃあ……」
「僕には恋愛する資格なんてないんです。ただそれだけです」
本当にその通りだ。そんな幸せ惚気を僕は享受していい人間じゃない。
難しい顔をした柳さんはやっと僕の言葉を飲み込んだようで、
「なるほどなるほど。よく分かりませんでしたが、先輩がよく分からない人だということはよく分かりました」
自分でも分かってる。変な人間だなあと。
「じゃあ次は私の番ですねっ。私は三つ質問したので、先輩も私に三つ質問してください!」
「僕は別にいいです」
「なら私が自分で喋りますっ!」
え。