第二話 名前
次の日の放課後。予告通り、彼女は無名部部室にやってきた。
「こんにちはーっ」
穢れを知らない純粋無垢なその声が僕の心を震わせる。
「部長って今日来てますか?」
僕はゆっくりと深呼吸をして、
「多分今日も来ないと思います。ここのところ進路のことで忙しいみたいです」
今は新年度が始まって何かと忙しい時期だ。今年受験生の部長は、これから部に顔を出す暇なんてないのかもしれない。
「あの、明日、休み時間中に直接会うことはできないんですか?」
部活に来られないくらい忙しいのに、休み時間に訪ねて邪魔じゃないだろうか。部長がそう言うのに寛容なことは分かっている。でも、だからこそ、
「部長は多忙な人なので、それはやめておいたほうがいいかもしれません」
それを聞いた彼女は何を連想したのか、恐ろしいものに怯えるように身を縮こまらせた。短い髪を結んだ彼女の姿は、絵に描いた怯える少女そのもので、ここが現実かよく分からなくなる。
「そんなに怖い人ではないですよ。でもただちょっと変わってるというか、お人よしというか……」
「……そうなんですか。よかったぁ」
凍える冬に一つのぬくもりを見つけたみたいに安心している。
「でもそうしたら、私は当分、どうしてればいいんですかね?」
「……」
正直こんな、うるさい人と一緒にいるのは嫌だ。ほかの部員もいるならまだしも。
でも、昨日の彼女の言葉を思い出すと、自然と『いいか』と思えた。彼女は絵を描きに来たのだ。
「この教室で部長を待ってるのが良いと思います。もしかしたら顔を出すかもしれないし」
「おぉ! いいんですか!? それでは御厄介になりますっ」
御厄介にはならないでくれ。
「後ろの椅子とか使ってもいいですか?」
「はい。いろいろ自由に使って大丈夫です」
この教室はもともと空き教室で、机と椅子がすべてまとめて後ろに下げられている。元はクラス教室として使っていたみたいだけど、校舎を増築したときに用済みになったらしい。
「それにしても、ここ、静かですごい落ち着きますね。大声出したら、すぐ隣の廊下まで響いちゃいます」
そういいながら、彼女は椅子を一つ持ってきて、僕と同じように窓に向かうように座った。僕と彼女との距離は三メートルくらい。
このまま静かにしてくれればいいなと思った。けど、彼女が喋らずにいるわけがなかった。
「そういえば名前! 訊いてなかったですよね?」
確かに。
「私は一年六組、柳迎季乃っていいます。先輩は?」
椅子に座っていたはずの彼女が、いつの間にか立ってこちらを見ながら話していた。
「二年二組の藤和和希です」
「『ふじわ』っていう苗字なんですねー。なんか貴族っぽい」
そんなこと初めて言われた。
「柳迎さんこそ、珍しい名前ですね」
「そーなんです。自己紹介とかで名前を言うとき、いちいち長くて。あ、あと私のことは『柳』とかでいいですよ。男子からもよくそう呼ばれてたので」
「じゃあ柳さんで」
こんなに人と喋るのは久しぶりだ。部長とはよく喋っていたけど、それとは疲れ度合が違う。
「藤和先輩は絵描かないんですか? さっきから外ばっかり見てますけど」
「絵は描かないんです。いろいろあって」
「でも昨日描こうとしてましたよね?」
あーもう、なんでそんなこと覚えてるんだ。
「あれはなんというか、気の迷いみたいなものです」
「へぇー。……じゃあ私描いていいですか?」
「え?」
「え?」
当たり前のことなのに少しびっくりした。
彼女は絵が描きたくてこの部に入ろうとしてるんだ。なにもおかしいことはない。
でも少しだけ、自分の中の芯が削れたような気がした。
「……分かりました。鉛筆と百均の色鉛筆しかないけどいいですか?」
いかんせん部費がないから、出来ることは鉛筆でスケッチするくらいだ。
「はいっ。大丈夫です!」
その返事を聞いて、僕はスケッチブックと鉛筆セットを柳さんに手渡した。
「ありがとうございます!」
画材を手に入れてウキウキな柳さんは、すたすたと椅子に戻って鉛筆を走らせ始めた。
てっきり、ここから見える風景でも描くのかと思ったら、紙だけを見て描いていた。まるで自分の思いを絵にぶつけるみたいに。
流石に他人が何を描いているかが気になった。普段の僕なら言わないだろうけど、この時の僕は、好奇心みたいなものが勝ってしまって、つい質問してしまった。
「何を描いてるんですか?」
「えっとですねー……」
柳さんは描くのに夢中で、まともに返事が返ってこない。
十五分くらいくらい経っただろうか。ようやく柳さんが言葉を発した。
「出来ましたっ」
彼女の絵を見て、僕は固まってしまった。