第一話 ここは無名部
僕以外誰もいない部屋。その部屋に、電子的な中高音が警告的に鳴り響く。確認するまでもなく分かった。固定電話からだ。
鉛筆を手放す。何の躊躇もなく受話器を取る。
その奥からは、ひどく緊迫した男性の声が聞こえた。聞き慣れない声。
「――――――通――故で、――――」
頭の血が凍るような寒さを感じる。
しばらくすると、急に何かが閉まるように何も聞こえなくなった。ああ、そうか。きっと間違い電話だったんだ。どうりで聞きなれない声だったんだ。
受話器を落とした僕は足が震えて尻餅をついた。
「……」
言葉が出なかった。
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「っ!!」
僕は、必死に手を前へ伸ばした。無くなってしまうものを取り戻すように。
しかし、その手を伸ばした先にあったのは、前の席に座る女子の髪だった。
間一髪。
幸い周囲の人間は気づいていない様子だった。
「っ……」
本人は気付いていない様子。
ギリギリ触れなかったその手をゆっくりとホームポジションに戻す。
「……」
心の中でため息を吐く。
それにしてもさっきの夢。
あの夢を見るのは少し久しぶりだ。最近になって少しは心の整理がついたと思っていたけど、そう簡単なものじゃないと、改めて思う。
(なに、他人事みたいに言ってんだ)
我ながら、おかしい感性をしてるとおもう。
いつもみたいに考えていたら、今日の授業は終わっていた。
放課後は例の部屋に行くため、四階へ上る。
「ふぅー……」
やっとゆっくりできそうだ。
いつもの部屋では特にやることは決まっていない。名目上部活らしいけど。
今日は僕以外来てないし、本当に何をしようが自由だ。
……しかし、こんな時に限って、変なことを思いついてしまう。
「けほっ、けほっ、う……」
こんなに埃をかぶってたのか。一年もほったらかしにしてたっけ?
横にある準備室から、一つだけ異常に埃をかぶっているイーゼルを引っ張り出す。ついでにカルトンと画用紙も一つずつ取ってくる。
どこで描こうか少し悩む。ふと横目に見えた灰っぽい空が、変に気に障った。じゃあそれだと思い、窓際にセッティングした。
描こうと思ったきっかけは、部屋に誰もいないという一種の深夜テンションのようなノリで、本当は描く気なんてなかったし、当然描けなかった。
教室内に無音が流れる。さっきまでは、イーゼルの木の軋む音や、画用紙の擦れる音が聞こえていた。でももうセッティングしてしまったから、音はない。
本当はグラウンドを走る運動部の声や、吹奏楽部の楽器の音が聞こえているはずなのに、不思議と聞こえなかった。
なんだか寂しくて、心が小さくなって、よれていくのを感じる。誰かに会いたい。会って話がしたい。いつもみたいにそう思った
そんな僕の気持ちに呼応したのか、廊下から足音が聞こえてきた。
え。
焦った。思ったことが現実になったことよりも、この状況を見られることに焦った。関係者であろうがなかろうが。
でも手遅れだった。すたすたと歩くその足音は、すでに教室に侵入していた。
「美術部ってここであってますかっ!!」
スカーンとホームランが抜けていくようなその声は、僕を硬直させるには十分だった。あまりにも突拍子もなくて、たぶん、口が半開きになっていたと思う。
「あのー……、大丈夫ですか?」
今度は、声のトーンを抑えてこちらの様子をうかがってきた。それでも僕は、まだ時が止まったみたいに固まっていたと思う。
「……調子悪かったりします? あっ! もしかして私の顔に変なものついてますか!?」
「……」
少し落ち着いてきた。ゆっくり深呼吸して……
「調子が悪いわけでも、あなたの顔に変なものがついてるわけでもないです。……すみません」
「そうでしたか! というか私一年なのでタメ口でいいですよ?」
幼い子供みたいに短く髪を結んでいる彼女が一年生だということくらい察しはついていた。でも敬語じゃないと安心できなかった。本当に下級生だとしても、敬語じゃないと会話することすら億劫になる。
「これはあんまり気にしないでください。癖みたいなものなので」
「そう……ですか……、って最初の質問! 結局ここは美術部であってるんですか?」
「美術部ではないです。ただの寄せ集めの無名部みたいな感じです」
「じゃあ先輩はなんで、キャンパスに向かって絵を描こうとしてたんですか?」
痛いところを突いてくる。
「部活の活動内容は特に決まってなくて、何をしてもいいんです」
「へぇー」
何やら不満げな彼女は、こちらを軽く観察した後、何かをひらめいたように顔を明るくする。
「ここへは、廊下ですれ違った人に場所を訊いて、やってきたんです。その人は確かに『美術部』って言ってましたよ?」
「それはその人が、この無名部を美術部だと勘違いしているだけだと思います。部活中よく絵を描いているので」
「……」
「……すみません」
あからさまにがっかりした顔をされた。なんだか申し訳ない。
でも、そんな憂いはあまり必要なかったみたいで、彼女は表情をひっくり返すように輝く笑顔で、
「じゃあこの部活に入ります!」
そう言ってしまった。
「あの……この部活は、入ろうと思って入るものじゃなくて、その、いろんな事情で部活に入れない人がとりあえず入る仮設部活みたいなもので、その、うちの学校は部活動強制参加なので……」
「うーん。でも、この学校に美術部はないんですよね?」
「そうですけど……」
「じゃあ! この部活で絵を描くことにします!」
「……はあ」
こんなに元気そうな子なら、ちゃんとした部活に入ったほうがいいに決まってる。でも、美術部は学校にはないし。どうすればいいんだ。そもそも、新規で入部って出来るのか? そういう部活じゃないし。
「とりあえず、部長の許可がないと入部できないと思うので、また今度来てください。今日は部長、来ないので」
「そうですか……。先生はいないんですか?」
「先生はいるけど、実際は幽霊顧問状態で、部長が顧問みたいな感じなんです」
「なるほど……。そういうことなら、また明日きます!」
すると彼女は元気よく教室を出て行った。『さようならー』という声が廊下から聞こえるのは、気のせいではあるまい。
「ふぅー……」
気が抜けた。空気を抜いた浮き輪みたいにベッドに萎れこみたい気分だ。
それにしても彼女、嵐のみたいな人だった。いや、それは失礼だ。晴れ、晴れだ、それも快晴。
現在の天気が曇りなだけに、やけに彼女の元気さが印象に残っている。
「……ぁ」
明日も来るのかと思うと、少し憂鬱だ。
どうにかこの僕の平穏を守りたい。けど、周りがそうはさせてくれないみたいだ。
「……本当に入部したらどうなるんだ」
思わず声に漏れる。
そんなこんなで今日は早めに寮に帰った。