第94話 垂れこめる暗雲 ⑧
なおも護衛による警戒と前方偵察は抜かりなく行われているが、隊列は何事もなく進む。
野盗の襲撃もなさそうなので、エストに着くまでの間にラウルは今朝から気になっていたことをハキムに教えてもらうつもりでいる。
奴隷や従僕についてあまりにも無知なことに我ながら衝撃を受けたのだ。
「あの、ハキムさん」
「なんでしょうか?」
「お国の奴隷事情を教えていただけませんか?」
「ああ……そうでした!いろいろ不快に思われたでしょう。お詫びを忘れていました」
ハキムはラウルが身分差別に敏感らしいと察したが、隊商長や他の隊商員たちの手前、質問や文句は後でという形で先延ばしにしていたことを思い出したのだ。
「アルメキアの方が聞いても気分の良い話ではありませんよ」
と、一応断ったうえで彼は解説を始める。
◇
【奴隷について】
奴隷。
東方諸島では奴と言い、グリノスでは農奴と呼ぶ。サーラーンでは、人の形はしているが人間や亜人が本来持っているはずの権利を奪われた無給労働者のことを指して奴隷と呼ぶが本質的には皆同じようなものだ。
そのほとんどが経済的な理由から仕方なく持たざる者の身分に落ちている。他には戦争捕虜や犯罪に対する刑罰として強制労働を余儀なくされている者もいる。
古代には“生きている道具”と表現した者もいるが、おおよそ正しいと言えるだろう。所有、売買、譲渡が認められている国においてはまさしく道具という呼び方が相応しい。
何のための道具かと言われれば、基本的には自分の思い通りになる道具であり、使い方は持ち主次第である。
一番悲惨なのは戦奴隷であろう。これは弾除けに使われた挙句、敵前逃亡でもしようものなら味方に殺されることもある。大型船舶の漕ぎ手もなかなかにきつい仕事だ。監督役が持っているとげのついた鞭は飾りではない。一部の鉱山労働者も似たようなものだ。
これらは体力自慢の亜人奴隷が投入されることが多いが、使いつぶされるのが前提であり、途中で解放されたりすることはまずない。
商家や一般家庭に買われた奴隷は幾分恵まれている方であり、きちんと働けば鞭うたれることもない。なかには家庭教師のような役割を与えられた学のある奴隷もいる。長年忠義を尽くして所有者に気に入られた奴隷はその多くが解放される。
色街に引き取られた奴隷は見た目重視だが男女を問わない。少年少女の愛好家も実に多いから年齢も不問と言える。
東方諸島の色街では年季奉公といって決められた年限が経過すると解放される制度になっているが、他の国にはそのように希望を持たせる仕組みはない。基本的には身受けされることがない限り、色街から出ることはないのである。客が付かなくなったら配置転換で遣り手と呼ばれる監督係になるか、掃除係や雑用係として一生を終えることになる。
――中略――
このように各国の奴隷制度と特徴について述べてきたが、かくいう我々もある種の奴隷であることは否めない。
読者諸賢にはここまで言えばお察しいただけるだろう。
そう、私も一頁銀貨二枚の奴隷なのだ。
【 アーケイ・ボーノ ポール・ライン 共著 国別奴隷の歴史 】
◇
「奴隷の人には何か目印が?」
「わが国では手首に所有者の姓名を刻印した金属板を下げていますね」
ついでにハキムは、もしサーラーンの御大尽を訪問した際に奴隷の身なりが良かったり、元気よく働いている様子を見たら、その点を褒めることです、とラウルに助言した。
間接的に所有者の管理を称賛することになる、と言うのはラウルにもわかる理屈だ。
「サーラーンだからといって、特に厳しい優しいがあるわけではありません。北や東とほぼ同じです。奴隷市場が立つのはウルケシュではなくカスバですが」
「交易都市のウルケシュではなく?」
「裁判関係や登録の都合ですね。役所が全部カスバですから」
裁判という言葉が出たのでラウルは先ほど殺されそうになっていた従僕について聞く。
「もし彼を殺してしまった場合、護衛の人は罪に問われるんでしょうか?」
「お気を悪くされないといいのですが……他人の牛や馬を勝手に処分してしまった場合とほとんど変わりません。もちろん持ち主には謝罪して弁償しますが……奴隷がよほどのお気に入りでもない限り、それで終わりです」
「はぁ」(弁償って言い方……)
ハキムの言葉には悪気がないはずなのに、端々に引っかかるラウルである。その不満げな様子を見逃さなかったハキムは話のたたき台として、ひとつのたとえ話を出してきた。
「ラウルさん、奴隷になって初めてパンを食べた、という人をどう思いますか?」
「どうって……奴隷になる前はもっとひどかった、って話ですか?」
「そうです。草木を食べてひもじさをこらえ、雨露で喉の渇きをいやしていた人たちが、奴隷になることでパンを食べ、安全な水を飲むことができたとしたらどうでしょう?」
「……」(複雑だよ)
ラウルには答えることができない。
この世界には奴隷以下の暮らしというものが存在していることを知らなかった彼には難しい質問だっただろう。実はクルトが一時期食うや食わずの暮らしを経験していたのだが、その話はラウルにはしていなかった。
ラウルはあまりにも箱入りだったと自らを振り返っている。
この世界では奴隷が最底辺ではないのだ。それをわきまえずに、他国の社会制度に文句を言うなどとんでもないことであり、人によっては国に対する侮辱と捉えるだろう。
ハキムは冷静に語っているが、それも内心どう思っているか分かったものではない。
「サーラーンの法では、奴隷の衣食住は所有者が責任を持って供給することになっておりますから、飢えや寒さで死ぬことはありません」
「それと引き換えに簡単に殺されてしまうかもしれない、って言うのが……」
「納得いかないんですよね?ラウルさん、あなたは優しい人だ」
ラウルの性格とサーラーンの社会制度は相容れないだろう。しかし、命と引き換えに人間らしい暮らしを望む人たちが大勢いる、奴隷はそんな人たちの受け皿だったりするのです、と言ってハキムは若干遠い目をした。
「かく言う私もついこの間まで奴隷でしたがね」
「へっ?」
「三十年勤めあげたのを機に旦那様から解放していただきました」
「旦那様……ナジーブさんですか?」
「そうです。今でこそ番頭付きの手代頭にしていただいていますが、丁稚からはじまって荷運び、従僕、倉庫番、なんでもやりましたよ」
いや、手代頭に推薦するための解放でしたかな、とハキムは訂正した。解放の前後で仕事内容はほとんど変わらなかったし、給金で衣食住をやりくりするのもなかなかに難しい、と言って笑う彼は奴隷のままでも構わなかった、とでも言うのだろうか。
とにかく、奴隷でなくなった後も彼はナジーブに仕えたまま去らなかったのだ。
「役人や兵士以外の国民を養っていけるほどサーラーンは物持ちじゃありませんしね」
それはアルメキアとて同じであろう。
「アルメキアはどうですか?毎晩の寝床を探さねばならない人たちとか、明日食べるものがない暮らしとか、聞いたことはございませんか?」
「……ありません」
これはラウルの知っている世界が狭かったからであり、クルトとハンナがラウルを飢えさせなかったからである。実はクルトの両親が貧しい暮らしの苦労で命を縮めていたのだが、これもラウルの知らないことである。
「道徳的に言えばラウルさんのおっしゃる通り、奴隷なんて人の道に外れているんでしょうが、奴隷になって初めてパンを食べた人物がここにいる以上、それをどのように説明するかですね」
終始ハキムは冷静な語り口を崩すことがない。
奴隷制度には、ある種の失業対策や貧困救済事業の側面があることを指摘しているが、たとえ話の人物とは彼自身のことだったのだ。
「アルメキアでは奴隷予備軍と言いますか、貧しい人たちの世話を国がしている様子はないけれども奴隷はいない。これも不思議な事です」
ちょっとした凶作で大混乱が起きてもおかしくない、とハキムは言う。奴隷禁止とは素晴らしいお題目だが内容が伴っていない、という指摘である。
これもラウルには答えるのが難しい。急場の際には、国家を運営している指導層や王家が何らかの対策を用意していると信じるしかない。
「勉強になりました」
「こちらこそ、お客人に対してとんだお耳汚しです」
ハキムはよそ様の文化や習慣に対してうかつに口を挿むと危ない、という事を自分の過去を例えにして諭してくれたのだ、とラウルはようやく気付いた。
特にサーラーンでは宗教上の理由で命のやり取りに発展してしまうようなことが簡単に起こりうる。
客人を思いやるハキムの心にこそ感謝すべきだったのだ。
いつもご愛読ありがとうございます。
これでラウルは異国人と交流することの大変さに気付いたことでしょう。
異国の社会制度や習慣が間違っていようがおかしかろうが、指摘するときは喧嘩になる覚悟が必要で、場合によっては命懸けなのです。
ハキムの手助けはありましたが、これでまたひとつ成長したのではないでしょうか。
徃馬翻次郎でした。