第89話 垂れこめる暗雲 ③
さて、運賃の銀貨はあるか、食べ物は持ったか、と最後まで世話を焼くエルザはまことの母か姉のようだったので、一人旅になったラウルは急に心細くなる。
とはいえ、大通りに出てしまえば人の流れに乗っているだけで正門にたどり着くのが救いだった。
王都の賑わいともさらば、と思うと寂しいかぎりだが、いつの日かまた来ようと決意を固めたラウルである。もちろん、自分で働いた獲得した金で臥竜亭の特別室を予約するためだ。目的は言うまでもなくスケベだが、今のところ決まった相手がいない、という課題もある。
彼の脳内備忘録は生れてはじめてやるべき仕事と課題で一杯になったが、兎にも角にもエストに帰り着くまでは何も始まらない。
ラウルは正門脇の詰所にいた衛兵に鑑札を返却し、厩舎へと向かおうとする。
「おや、もうお帰りかい?」
「エストへのおつかいを頼まれまして、一足先に」
「ご苦労なことだな」
荷物持ちなんぞしなくとも、ジーゲルの仕事だけでも何不自由ない暮らしができるだろうに、という衛兵のつぶやきをラウルは不思議な思いで聞いている。
クルトから大きな買い物をする客はそう頻繁にあるものではないが、言われてみれば確かに稼ぎに比して生活が地味なのではないかと言う感覚が出てきた。
ラウルのけいこ道具を整えるにあたって金に糸目をつけなかった当たり、両親は相当ため込んでいるのだ。にもかかわらず、村はずれで満ち足りてはいるが地味な生活を営んでいる理由とはいかなるものであろうか。
考え込んでいたラウルは衛兵の視線に気づく。話の接ぎ穂に何か言わねばならないが、ここは苦労を買って出ている体にして、その理由を述べることにした。
「ええ、まあ、社会勉強ですから」
「うちのガキにも聞かせてやりたいよ。はい、通っていいよ。またの御来訪を!」
ついにラウルは王都の門を出た。
解放感と寂しさが混ざった奇妙な感情は今までにないものだ。
人ごみが苦手な彼だから解放感を味わったのだが、同時に離れがたい思いから寂しくなってしまう複雑な気持ちの根源こそが王都の魅力なのである。
不完全燃焼気味のスケベがそれに一役買っていることは言うまでもない。
川にかかった小さな橋を渡り、城外の集落を抜けて厩舎に到着したラウルだが、どうしたことか、出発にはまだ時間があるはずの駅馬車が見当たらない。
厩舎前でニンジンを洗っている職員がいたので声を掛けてみると、昨日の暴走駅馬車で世話になった御者だった。
「これは神の子の坊ちゃん、もうお帰りですかい?」
「うん。おじさん、今朝の馬車は休み?」(神の子?)
「それがですねえ……」
御者曰く、朝の早い時間に巡礼と称する一団が現れ、駅馬車を半ば貸し切りのような形で出発させたとのことだ。増発する予定ではあるが、ラウル一人を運ぶわけにはいかないので、もう何人か連れ合いができるまで待ってほしい、とも付け加えた。
「待つ?どこで?」
「すぐそこに酒場がありますから、一杯やっててくれたら迎えに行きますよ」
自宅ではさせてもらえそうにない朝酒に否やはないが、あまり長居はしたくない店構えと周辺環境にラウルは二の足を踏んだが、よく見れば厩舎から馬を引き出したり、幌付きの荷馬車を準備している連中が目立つ。
「おじさん、あの人たちは?」
「サーラーンから来た隊商ですねえ」
「交渉できるかな?」
「エストまで乗っけてくれ、てことですかい?」
「うん。ダメかな?」
「どうですかねえ、いや!神の子の坊ちゃんなら大丈夫ですよ。不可能はない!」
「はぁ」(いつから神の子に……あれかな、神のお導きを信じちゃったかな?)
「ちょいと聞いてきますんで、お待ちを」
神のお導きとは、疲労しきっていた馬に喝を入れて復活させた鞭が実はエスト最強の変態ヘーガーの製品であることを隠すため、ラウルが変態の仲間であると思われないようにするために使用された方便、早い話が嘘である。
御者は荷物の積み込みを監督している亜人と二言三言話していたが、すぐにラウルを手招きしてきたので、折り合いをつけてくれたとわかる。
何やら向こうにも相乗りを歓迎する事情があるらしい。
「坊ちゃん、隊商長さんですよ」
「はじめまして、ラウルと申します」
相手は岩ネズミ系のため、ラウルより背が低い。彼は礼を失しないように深く腰を追って一礼した。
「ウルケシュ・アーメド・ナジーブだ」
隊商長は鷹揚に答える。
「……高貴なお方ですか?」
これは三つの名前を王族と誤解したラウルの勘違いなのだが、御者と隊商長は顔を見合わせて笑い、ナジーブは、サーラーンでは出身地と父親の名前の後に自分の名前が続くのだ、と仕組みを丁寧に説明する。
彼の場合は名乗るだけで“生まれはウルケシュ、アーメドの息子、ナジーブです”という丁寧な自己紹介と同義になるわけだ。
最後に、サーラーンでは大手であるハディード商会の番頭ではあるが王族ではない、と言ってラウルを安心させた。
ちなみにアルメキア王家の場合は、本人の名前に家族名が続いて最後に国名が付される。
「これは失礼しました」(はずかしい!)
「いや、かまわんよ。客車は無理だが、荷馬車の空いたところに乗りなさい」
「ありがとうございます」
「なんのなんの。娘がどうしてもアルメキア王都を見たいと言ってな。この辺りは治安も良いと聞いていたので同行を許したが、どうやら勝手が違うようだ」
つまり、客車はナジーブ専用車両であり、サーラーンの習慣によれば、たとえ客人であっても親族でない男性は娘と一緒の車に乗せるわけにはいかない点を説明しているのだ。
一方、ラウルのスケベ耳は娘という一語に集中していたのだが、その集中を突破するほど深刻な情報が飛び込んできた。
治安に問題があるとは聞き捨てならない。
エスト周辺は犬神様のおかげで安全、王都からエストまでは途中に騎士団の駐屯地がある。その何が隊商長を不安にさせるのだろうか。
彼は首をひねりながら御者に聞いてみた。
「おじさん、どういうこと?」
「いえ、あっしも昨日聞いたばかりなんですがね」
重要な情報なので、隊商長も含めた三人で立ち会議が始まる。
要点を言えば、王都と騎士団駐屯地がある集落の間で野盗の襲撃があり、貴族の馬車と護衛含めて数人が一人残らず殺され、何もかも奪われて火をつけられたのだ。
生存者も目撃者もなし。
それも一昨日のことなのである。
「王都のそばで?ありえないよ!」
「そう思うでやんしょう?」
「信じられない……」(外の世界ってコワイ)
「あっしもですよ」
往路のラウルは、ヘーガー鞭のおかげで駅馬車にあるまじき速度を出すことに成功し、予定よりはるかに早く到着することができた。
そのかわりに景色を楽しめなかったのだが、襲撃後の惨劇や焼け焦げを一切見ずに済んだ。正確に言えば荷物を押さえるのに必死でそれどころではなかったのだ。
しかし、考えようによっては、その超高速が野盗の襲撃を断念させていたかも知れないのだ。
とにかく、現状では詳しい被害状況や野盗団の規模を知るすべはないが、娘連れの隊商長が抱える不安はラウルにも理解できた。
「そこでだ。異国の青年よ。ひとつ臨時の護衛として一肌脱いでくれんかね」
「私ですか?」
「うむ。見れば相当鍛えた身体つき。鍛冶屋と聞いたが扱える得物も多いだろう?」
「ええ、まあ」
「運賃を取ろうなどとは言わん。もし襲撃を追い払うのを手伝ってくれたら褒美も出そう。それまでは我々の客人だ。どうかね?」
野盗の襲撃という不安はあったが、いち早くエストに帰ることができる申し出をラウルは承知する。武装はヘーガー鞭とお手製の短剣がある。しかも魔力不能のラウルが鞭を振るえば回復魔法の効果は発動されないから、十分な殺傷能力をもった武器になるのだ。
さて、客人として扱うとは言われたが、ただ見るだけで待っているのも悪い気がしたラウルは荷物の積み込みを手伝う。
最後に馬車に引っ張り上げてもらったラウルは荷馬車の客になり、引っ張り上げてくれた隊商員ともあいさつをかわす。
色黒で小太りの整えられた口ひげが特徴的な彼はウルケシュ・ユスフ・ハキムと名乗り、異国の客人をもてなす栄誉を口にした。
ラウルも丁寧に名乗って握手し、座る場所に落ち着いたところで出発の号令が掛かる。
隊列は客車一両と荷馬車四両に加えて、護衛の騎兵が隊列の左右を固めていた。
(護衛は全部で六騎か……オレいらないんじゃね?)
ラウルはそう思ったが、見張りの目は多ければ多いほどいいのだ。異変に気付くのが早ければ対処する時間的余裕が生まれるからである。
とはいえ、ラウルの乗車した荷馬車は隊列の中ほど、客車のすぐ後ろを走行しているので、見張るものもほとんどない。退屈な旅になるかと思われたが、その時間を有意義にしてくれたのはハキムだった。
「お客人に手伝わせてしまって申し訳ない、ラウルさん」
「ハキムさん、どうぞお気遣いなく。私も早くエストに帰りたいですから」
どうやら親子ほど年齢が離れているようにも思えたが、ほどなく打ち解けてお互いの商売について情報交換するようになる。
ハキムはジーゲルの名を知っていた。武器防具の目利きは専門外だが、それでも名前は聞いたことがある、とのことだ。
(父さんの名前は隣国まで聞こえているのか……)
ラウルは誇らしげに思う一方、身が引き締まる思いがした。父親は名工なのに息子はスケベのろくでなしだ、と言われては立つ瀬がない。
いよいよ気を入れて鍛冶修行をする理由が増えた。
いつもご愛読ありがとうございます。
とうとう南国人が出てきました。これでアルメキアを囲む国々に少しずつ触れた感じになりますかね。
西はまだまだ謎なんです。鉄のカーテンの向こう側みたいな体でお願いします。
ちなみに、本格的に国境を越えたりするのはずっと先の予定です。
徃馬翻次郎でした。