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第86話 【こぼれ話】乙女日記【リン】


 ラウルとエルザが王都で眠れぬ夜を過ごしていたころ、エスト村の自宅で就寝前のリン=クラーフもまた心中穏やかでなかった。 


 クラーフ商会エスト支店の職員として働きながら、空いた時間で居候中の治癒師コリン=ブライトリングから回復魔法を習う。できればラウル研究と資料集めもすすめたいのだが、あいにくと時間が足りない。

 健康と肌のために最低でも五時間は寝たいと彼女は思っている。なにしろ乙女なのだ。


 乙女の日課、というわけではないが彼女はできるだけ日記をつけるようにしている。続けてみるとなかなかに面白いもので、昨年の今頃は何をしていたっけ、という遊びもできるのだ。

 それなりに根気のいることだが、日記は彼女の楽しみのひとつであり、備忘録としても使える実用品でもあった。


 保安措置とでも言うべき暗号化は最低限だが実施されている。例えば、王都に出かけてマグスの骨董品店を訪ねた時には“M訪問”と頭文字で記入する。本店の人間やジーゲル家の面々ならその措置は必要ない、といった程度である。

 

 彼女の日記は短文が多く、走り書きや後日の書き込みもあって、同世代の女性がつけているものと比べれば、見た目も内容もいくぶん華やかさや潤いに欠ける。

 しかし、余分な装飾や誇張された表現が少ないため、後世に残せば第一級の歴史的資料として評価されるであろう。

 では、ここ数日ぶんの乙女日記を拝見してみるとしよう。



◎月〇日


熱心なお客様 父に対応一任 疲れた 

昼休みにジーゲル家訪問 ラウルと昼食 楽しい!



 熱心なお客様、とは彼女に懸想して求愛した男性のことだ。最終的に支店長室に通してグスマンに相手をさせたことがわかる。

 昼食を差し入れた際には、ラウルのねぶるような目つきで全身くまなく調査されたはずだが、それでも下線付きで楽しいと書き切れるあたり、彼女はラウルにとって一番の理解者であろう。

 

 この直後にエスト第四番坑道で魔獣騒ぎが発生する。掃討作戦開始後は、坑道入り口とクラーフ商会エスト支店を往復して指揮所を救護所に作り替える任務に奔走していたから、その旨の記述が数行続く。

 注目すべきは、要救助者の搬送作業を終えたラウルが再び坑道に入ろうとして衛兵に制止された後の様子だ。何しろ彼女が彼の顔をのぞき込むようにしていても気づかれなかったのだから、彼女なりに彼の異変を察知した様子が書かれている。



ラウルが何か企んでいる いつものスケベ顔とは違う

危ないことをする?冒険? 付き合うなら私も回復魔法を鍛え直すか

あと、久しぶりに彼と手をつないだ ちょっと意識しちゃう 

彼は……いつも通りだ



 実は彼女はときめいていたのである。

 彼女がラウルに対して淡い恋心を抱いていて、彼もそれを憎からず思っていることは先にも述べたが、手をつなぐことひとつにしても少年少女の頃とはちがう何かを感じて文章に残していたのだ。

 コリンに回復魔法を習うことになった動機も記されている。彼が戦場の入り口で思い詰めていたから、直感的に冒険者にでもなるつもりなのか、と間違った推測をしたようだ。

 青春である。



エルザさんたちと飲み会 蜜蜂亭にて 

魔法使いの子がラウルに精神操作を使う 信じられない

彼は見事に抵抗失敗 スケベなせいだ 魔力のせいじゃない



 “魔法使いの子”のところには行間にロッテの名前が書きこまれていた。

 後には慌ててしまって原始的な精神操作解除方法になってしまったことの反省文がつづられているのだが、 紙面がごくわずかにたわんでいるのは涙でふやけた痕跡である。

 ラウルは大丈夫だ、次はフォーク以外で頼む、などとふざけていたが、リンは好きな男を後先考えずに刺してしまったことで心を痛めており、書いている途中で思い出してしまったのだ。

 次にはロッテとの仲直り、ラウルに送ってもらったこと、コリンの採用を父親に働きかけたことが続いている。

 ちなみに、エルザによるラウルの進路指導は立ち聞きすまいと耳を塞いでいたので、断片的にしか拾えていない。

 どちらかと言うとコリンとの会話に関する内容のほうが多い。彼に回復魔法の進捗状況を聞かれて正直に答えた結果、一からやり直しですね、とはっぱをかけられてしょげているが、それでも前向きに“何かが始まる予感!”とこの日の記述を締めくくっているのは実に彼女らしい。



◎月□日


 始業前 コリンを臨時職員マリンとして紹介 カワイイと評判

 ラウル訪問 ハンナさんからお持たせ マリンの件で昼食に誘った

 デマエ コリン君同席 ラウルは本当によく食べる……けど疲れてる?



 なんと昼食会は彼女の独断だったのだ。グスマンが昼食に付き合ったのは偶然ではなく、リンに頼まれて支店長室を提供したのが真相である。 

 “疲れてる”のは言わずもがな、ヘーガーに身体中まさぐられていたからに他ならない。

 後には、ラウルが自分の訓練にクラーフ商会の支援を取り付けたこと、グスマンと難しい話をしているラウルがまぶしく見えた記述が続く。


 他には、ラウルが帰った後にエルザの訪問があって、彼女から大量の小粒魔石と魔法素材の入荷があったが引き取り切れなかったことが書いてある。

 単純に供給過多だったこともあるが、エスト支店の現金が底をついてしまうような勢いだったらしい。引き取りの限界は荷運びラウルが活躍するエルザのクラーフ本店行きの原因となったが、この時点の彼女が知るところではなかった。

 応接間を兼ねる支店長室でコリンとエルザが話し込んでいたらしい様子も短く書かれているものの、持ち込み品の査定でそれどころではなかったらしい。


 他にもいろいろあったが、ラウルの訓練に一枚かむことになったので、この日の最後は“回復魔法を役立てる日が来た”という言葉で終わっている。ラウルのために、という記述こそないが、そこは行間を読む必要がある。

 当のラウルが木剣磨きで疲れ切っていたころ、彼女は静かにやる気の炎を燃やしていたのだ。



 さて、リンは本日分の日記を目下執筆中である。

 書き出しからは慌ただしさのうちに一日が過ぎたことがわかる。


 コリン先生の指導は意外と厳しく、なんと朝食前の練習があった。外傷の手当て以外に回復魔法を使うことがなかったリンは解毒や麻痺解除の詠唱を思い出すだけで手間取り、コリン先生を少々困らせてしまった。

 始業前にコリンの宿屋からクラーフ邸への引っ越しを行ったのだが、これはすぐに終わった。私物と呼べるようなものがほとんどなかったからだ。彼は当分の間クラーフ邸の客間を使用するのだが、落ち着いたら賃貸を探す予定、と彼の希望を書き留めておく。

 

 この日も彼女は昼休みを利用してラウルに会いに行く予定を入れていた。あまりにも自分の回復魔法がさび付いていたので、ラウルの刺し傷に施した治療が十分か気になったからだ。彼が足でも引きずっていたら洒落にならないので、本気で心配していたのだ。

 昼休みは職員が交代で取るから早い遅いがある。彼女が遅い昼休みを取ったころには、すでにラウルはエストと王都の中間地点まで馬車で移動していたわけだが、彼女はこのことを知らない。

 


昼休み ジーゲル家訪問 クルトさんの唸り声が聞こえてびっくりした 

“客が邪魔”とか聞こえたけどきっと気のせい 

ラウルは留守だった エルザさんと王都へ 帰宅は明日の晩以降 



 ハンナとのお楽しみを邪魔されて飛び出したクルトの言葉はちゃんとリンの耳に届いていたのだが、それ以上にラウルとエルザが一緒に一泊二日の旅に出かけたのには彼女は少なからぬ衝撃を受けた。

 “先を越された”といったん書いたのだが、恥ずかしくなって二重線で訂正し、“大丈夫かな”と書き直した上からさらに訂正して彼の帰宅予定を書き入れた。

 

今日の後半は仕事とコリン先生による訓練で忙しかったのだで、それが逆に彼女の精神安定に一役買ったのだが、日記をつける段になると色々思い出してしまう。嫉妬というわけではないが、文面だけでなく行間まで複雑な心情で埋めてしまった理由は、心中穏やかでない理由と同じ、ラウルが心配だからである。


 ここ数日の文面を見ればわかることだが、ラウルが出てくる比率が非常に高い。言わばラウルの観察記録である。

 ずっと彼を見ているようなものなのに、彼女が自分の気持ちに素直になるのはまだ先のこと、想いを遂げるのはずっと後のことなのだ。


 とまれ、リンが日記の締めくくりと就寝前の祈りに用いた言葉は同じものであった。


「ラウルが無事帰ってきますように」


 “無事”には文字通りの意味だけでなく、とても一言では言い切れない思いや願いが詰まっている。


 


 

いつもご愛読ありがとうございます。

他人の日記を見るなんてとんでもない!しかし作者の視点は神の視点。その気になれば家でも財布でも心でも中をのぞけてしまうのです。フハハハハ!

本当のところはそんな大層な話ではなく、ここまでのダイジェストを兼ねた閑話です。

徃馬翻次郎でした。

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