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第85話 黒豹は眠れない ④


 《八年前 エスト村 学校》


 子供のいじめは時として容赦なく残酷なものである。

 例えば、農村や田園地帯では、何かの拍子に馬糞や牛糞を踏んづけることはよくある。子供の場合、学友に目撃されようものなら翌日の学校で排泄物を冠したあだ名がついてしまうであろうことは想像に難くない。

 しかし、靴に着いた排泄物は洗えば落ちる。なすりつける真似をしてあだ名をつけたいじめっ子に反撃することもできる。


 ところが、ラウルの魔法不能はどんなことをしても消えない呪いであり、他人に転嫁することのできない汚れだった。

 学校における魔法教育の時間は彼にとって耐え難い苦痛そのものである。失笑や嘲笑にはもう慣れきっていたが、我慢できなかったのは両親の悪口だ。

 今日のいじめネタは“夫婦でサーラーンの遺跡でも荒らして呪われたんだろ”という言い返しようのないもので、ラウルの出来損ないはその祟り、というオチである。

 先生は、静かに、と言っただけで下品で礼節に欠けた悪口雑言をたしなめようともしなかったが、彼は怒りを抑えて震えながら授業が終わるのを待った。

 

 授業が終わるやいなやラウルは席を立ちあがったが、ラウルの殺気を感じた件のいじめっ子はもう駆け出していた。しかも、周りの生徒を突き飛ばして障害物にしたてている。巻き添え被害を無視するなら、実に優れた逃走方法であった。

 追いかけるラウルも両親の名誉にかけて、せめて一発だけでも殴ってラウルいじめが高くつくことを教えてやりたかったのだが、それどころではない非常事態が発生していた。


 鳥系亜人の少女が突き飛ばされた際に翼を使う暇もなく転倒して膝に怪我を負ったのだ。さらに、いつも彼女が大事そうに抱えている絵かき帳も衝突によって閉じ金具が外れてしまい、ばらばらになってしまっている。

 ラウルは直接の加害者ではないから追跡を続行しようか迷ったが、事故の責任を感じて助け起こしにかかって椅子に座らせた。

 

 その時、少女の白い膝小僧のすり傷から一筋の鮮血が垂れる。


 ラウルは一瞬目を奪われた。心奪われて目を離せないと言ったほうが正確かも知れない。色彩の対比だけではない何かがラウル少年の心を捕まえて放さなかった。至近距離にあるスカートの中身も気にならなかったほどだ。


 後に彼はこれが初めての性的興奮であったと思い返すことになる。少なくとも美しいと思い、つばを飲み込んだのは確かだ。


 魔法下手のラウル少年はとっさに圧迫止血をせねばと思い手を伸ばしかけたが、少女の返答はにべもないものだった。


「汚い手で触らないで」

「ご、ごめん。クラーフさん」


 結局こいつも他の連中と同じか、とラウルは思いながらも口答えを許さない冷徹な彼女の声音にぞくぞくしてしまった。

 何もせずに突っ立っているわけにもいかないので、散ってしまった絵かき帳の断片を集めにかかったが、先生や他の子供も拾うのを手伝うものの、誰も加害者であるいじめっ子を追いかけようとしないのには正直理解に苦しむ思いだった。

 絵自体はありふれた動植物や昆虫が多かった、と彼は記憶している。ただし、何枚かは対象までの距離が近く、腹ばいになって花を模写していたとしか思えないものもあった。


 もちろん、この少女はリンである。“汚い”とは純粋に衛生的な意味であり、“触らないで”とは自分の回復魔法でなんとかなるから治療の邪魔をしないで、という意味だったのだが、当時のラウルにはそのように聞こえなかった。


 後に彼はこれがいじめや暴言ではなく、初めての言葉責めであったと気づく。後年、ヘーガー店長から速成変態講座を受講した時のことだ。


 さて、絵かき帳の頁は全て集まった。幸運なことに破れも汚れも少ないが原状回復には程遠い。一方でリンは治療を完了している。たいしたもので傷も残っていない。


「手伝ってくれてどうもありがとう」


 リンは先生や生徒に礼儀正しく頭を下げているが、ラウルは気が気でない。

 なぜなら彼女の宝物を破壊してしまった気がしてならないからだ。絵かき帳には、自分の宝物である東方武人の置き土産と同じものを感じる。

 むろん画材も描き方も題材も全く別物なのだが、黒一色で色鮮やかな世界を想像させる点では通ずるものが有った。

 何とかして彼女に詫びの気持ちを見せねばならない、と彼は決めた。


「先生、キリを借してくれませんか」

「何に使うの?ジーゲル君」

「危ないことには使いません。綴じひもか木綿糸もあれば……」


 ああ、そういう事なら、と先生は道具を探しに倉庫へと向かった。他の生徒も徐々に下校していく。


「クラーフさん、ごめんよ」

「大丈夫よ。絵かき帳は……うん。ひどいね」


 怪我より絵かき帳を破壊されたことのほうがラウルには辛そうに見える。すると絵かき帳は彼女の宝物らしいという彼の推測は正鵠せいこくを得ていたのだ。


「よ、良かったら修理させてくれないかな」

「できるの!?」

「全く元通りってわけにはいかないけど」

「本当!?ありがとう!」


 まだ直る見込みもないし、出来上がりを見てがっかりしなければいいが、と彼は思うが彼女の喜びようを見てそれも言えなくなった。


「これ、順番あるんでしょ?」

「わかるの?」

「なんとなく。季節かな?虫とか動物はわかんないけど」

「並べ直したらいいのね?」

「うん」


 彼女はいそいそと頁を整列させて表紙で挟む。先生は物資捜索中らしく戻ってこない。  

 まだ何人か生徒は残っていたのだが、彼女はこう言い放った。


「あんなやつら、ほっときなよ」


 この言葉をラウルは今でも覚えている。


「えっ?」

「ジーゲル君が暴れるから余計に喜ぶんだよ」


 彼女はいじめっ子連中の話をしているのだ、とラウルは気付いた。しかし、親の悪口は別だろうが、と言う線は譲れない。

 彼が言い返そうとしているところに先生が帰ってきた。綴じ紐を数本提供してくれるらしく、ラウルは工数が減るのを素直に喜んだ。糸巻だと強度を出すのに往復する回数が増えるし、綴じ紐のほうが見栄えがして表紙にも合う。

 リンが押さえて保持している表紙にラウルが穴を六ケ所開け終わると、彼は錐を先生に返す。受け取った先生は再び倉庫へと戻った。


 綴じ紐を三本使って復活した絵かき帳を見たリンは大満足だった。


「ジーゲル君器用!あっという間だよ!」

「ど、どうも。これで許してくれる?」

「許す?何を?」

「いや、怪我させちゃったし宝物はこわしちゃうしさ……」

「いいよ、そんなの……でも、どうして宝物ってわかったの?」

「実はそれとよく似た宝物……オレも持ってるんだ」


 描いたのはオレじゃないし、東方の人だけど、と付け足すのをラウルは忘れなかった。


「見たい見たい!」

「持ってくるのはちょっと……」(いじめっ子に破られても困る)

「じゃあ見に行くね」

「うん。えっと、まあ、そのうち」

「何?秘密?」

「そうじゃないよ。ただ……」


 ウチに来て呪いにかかったらエライことだし、と言いかけた時点で彼女は笑い出した。


「あんな奴の言うこと信じてるの?」

「そんなに笑うなよ」

「だって、それが本当なら冒険者の人たちみーんな呪われてるじゃない」


 ああおかしい、そんなの迷信よ、とまでリンは言い切った。

 メーシンってなんだよ、と聞き返すラウルだが彼女が、悪口なんか気にするな、と言ってくれているのはなんとなくわかる。

 

 いわれなき差別と理不尽だらけの学校生活だったが、そのなかで少なくとも一人は味方と言える存在ができた瞬間だった。



《現在 王都 臥竜亭 特別室》


 ラウルの語り口は流暢りゅうちょうではなかったが、エルザは興味深く拝聴した。 


 ちなみに、今では汚い手云々の誤解は解けている、とのことだ。彼女からは傷口を凝視していたことに言及されたが、彼は正直に見とれていたことを謝罪して許してもらったという。ただし、毒のある生物を見るような彼女の目はしばらく続いたそうだ。

 

(言葉責めはともかく、血を見て性的興奮はちょっとスゴイな……)


 ラウルは既に少年時代において特殊な方向へ性癖の舵を切りつつあったと言えよう。

 仮にこのまま彼とわりない仲になってしまったら、きっと耳や尻尾の付け根を入念にまさぐられてしまうのだろう、と彼女は思わず想像してしまう。


 しかし、話の後半部分である宝物の修理と見せ合いっこは普通に良い話だった。これなら亜人の娘が人間の青年に懐いているのもわかる。

 子供らしい心のふれあいであり、今も絆が続いていることに納得がいく。


「どうです?つまらなかったでしょう?」

「いやいや、いい話だったよ。特に宝物のくだりとかね」

 

 いい話どころか非常に興味深い、とエルザは思っている。

 話の内容はもちろんだが、ラウルのなかにいじめられっ子、乱暴者、変態気味のスケベ、繊細な心の持ち主が何人も同居していて、順番に出てきたようにも聞こえたからだ。

 別段、多重人格とまでは言えないが、彼女が気になっているのはロッテとの対比においてである。

 同時代の同年代に魔力異常が二人。一人は多すぎ、もう一人はすっからかん。そして、多面的性格をうかがわせる話を今聞いたところなのだ。

 

 何やら作為的なものを感じるエルザだが、ラウルとロッテは接点どころか数日前まで面識すらなかった。調査するにしても共通項が見つからない。


(この調査は校長先生にお任せするしかないな) 


 彼女がそのように思案をまとめ終えたが、ラウルが何か思い出したようだ。


「そう言えば、エスト村の宴会で番の申し込みがどうとか言ってましたよね?」

「ん?言ったかな?言った……ね」


 当時、明らかに彼女は酔っていたが記憶は残っている。戦闘後の高揚したところへキツイ酒を数杯やることで出た傭兵時代の冗談だったのだが、目前の青年は真面目に受付の可否を問い合わせてきていた。


「あれって本気だったんですか?」


 エルザは困った。

 

 普遍的な亜人感覚で言えば番を申し込んできた相手を気に入った結果、関係を持ったとしてもふしだらでも何でもないし、一般人は貴族や富裕層の令嬢のように縛りがないだけ自由な恋愛ができる。

 とはいえ、現在は彼女自身が男性を求めていない。 

 さらには、ラウルは確かに可愛い弟子だが、一個体のオスとして見ればあまりにもか弱く頼りない。採点をするならば評価基準外の落第である。 

 おまけに、ジーゲル夫妻に彼の王都案内を頼まれて引き受けた身だ。


 断るしかないのだが、彼女は言い方に気を配った。 


「そこはやっぱり私と戦って勝つぐらいじゃないと……」

「……」(ですよね)


 ラウルは亜人の常、というものを自分なりに理解した。


 娼館の女性や酒場の女給はむしろ金銭を介した一時的な例外であり、生涯の伴侶となるかも知れない相手なら話は別、条件や審査のようなものがあって当然なのだ。

 特に、エルザのように元傭兵ともなれば、番の基準も厳しくなって当然であろう。

 

 現状、木剣で立ち会ったとしても、土台今のラウルには元傭兵の彼女から一本も取らせてもらえないのは確実である。

 勝ったら考えても良い、というのは彼女なりの優しさだったのだが、遠回しに言うならおあずけ、身もふたもない言い方をすればフラれたことに間違いはない。

 

 しかし、これでラウルに強くならねばならない理由がまた一つ増えた。オスは強くあらねばモテもしないし当然その先のスケベもないのだ。

 したがって今夜のスケベもない、となればラウルの身体からは興奮が去り、よこしまなスケベ心も雲散霧消する。

 同じ寝床で横になったからというだけで、スケベの機会到来とばかりにがっついた自分が猛烈に恥ずかしかったが、その恥ずかしさを除けば心は晴れやかであった。


「……もう寝ましょうか」

「大丈夫?寝られそう?」


 エルザは心配そうに問いかけるが、ラウルは寝袋をたたんで寝台の端に横になり、就寝のあいさつを告げた。気が付けば部屋に充満していたスケベ気配も薄くなっている。

 彼が寝息を立てるまではほんの数分だった。


 夜明けまでは数時間有り、起床時刻まではまとまった睡眠時間が取れそうである。エルザも寝台の反対側で横になった。


 ラウルの期待に沿えなかったのは申し訳ないが、学校の先生に憧れるお決まりの恋のようなものかもしれない以上、いちいち相手をしていられない。

 なにより、わりない仲より木剣や鞭を打ち込む師弟関係のほうが気に入っていたのだ。


 強くなったうえで是が非でも番になりたいと言うのなら、ぜひ自分が老婆になる前に来てほしいものだとも彼女は思っている。

 客観的に見てラウルとエルザの実力差はそれほどのものが有ったのだ。


 当初、徹夜を覚悟していたエルザが数度の寝返りの後、ようやく眠りに落ちた。


 外の世界には夜通し灯りの消えない歓楽街もあるのだが、臥竜亭の特別室は静寂そのもの、この部屋で本来行なわれるべき作業を断念した男女が眠りこけている。

 もったいないとしか言いようのない部屋の使い方だが、スケベ無しで仲良く眠る二人はまさしく姉と弟のようであった。


いつもご愛読ありがとうございます。

ラウルとリンの馴れ初めは文芸部だったというお話は、ジーゲル夫妻が体育会系の出会いだったこととの対比を意識して書きました。

草食系主人公とヒロインでもいいじゃない、と思うのは私だけでしょうか。

私だけでしょうね。

あと、ラウル君がスケベ欲旺盛なのには理由があります。判明するのはずいぶん先ですが。

徃馬翻次郎でした。

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