第84話 黒豹は眠れない ③
やがてエルザが浴室から姿を現したが、寝間着を着用せずに元の服を着直していた。
「いやー、あんまり気持ちよくって長湯しちゃった」
「それじゃあ、オレも……エルザさん、寝間着は?」
「そう、それよ!ちょっと見て!」
憤りながら彼女が広げた寝間着は明らかに布が少なかった。いわゆる極度の“つんつるてん”なのだ。これで先ほど聞こえた悲鳴の原因がわかった。彼女は一応寝間着を広げてみたに違いない。
「これは……いろいろ……隠しきれませんね」
「たぶん、さっさと脱がしちゃうためのものなんだろうけど」
「……」(なぜ着用をやめた)
「ラウル君?」
「いえ、これはお互い遠慮しておきましょうか」
「そ、そうだね。そうしよう」
この時点では、嫁でも恋人でもない人間にスケベ衣装の着用を強いるほどラウルは自制心を失ってはいなかった。
我を失ったのは彼女が発した次の一言である。
「そうそう、頭洗ったらさ、湯船のお湯がほとんどなく……」
もうそこから先はラウルの脳が音声認識を拒否した。
湯船内の湯がほとんどなくなったため、足し湯ではなく適温の湯を張り直したというエルザの親切だったのだが、エルザ液の濃度が皆無になったことで今やラウルの胸は湯船の湯以上に悲しみであふれている。
「ラウル君、聞いてる?」
「……」(なぜだッ!一度ならず二度までも!)
「おーい」
「はっ!な、なんでしたっけ?」
「お風呂の順番でしょ」
「そ、そうでした」
「この本見てていいかな?」
「どうぞ……」
すっかり意気消沈したラウルは肩を落として風呂に入ったが、めったに使うことのない石鹸を堪能したことと、入浴による血行促進効果で邪念が薄れ、正気を取り戻した。
そうなると周辺観察にも意識がいく。ながら、湯船と称する大きなタライで足を延ばしながら、彼はこの部屋に対する考察を再開した。
(本当に女給さんと遊ぶための部屋なのかな?)
経験がないくせに一端の評論家ぶった分析をするものだが、彼の感覚で言えば部屋のしつらいや備品と目的がどうも一致しないのである。
一言で表現するなら“女給さんにスケベ寝間着を着せる必要性”である。
お風呂に入れてやるのはいい。一緒に入るのはもっといいだろう。しかし、女給の制服という圧倒的興奮材料を放棄する必要性をラウルは感じないのだ。
完全に考えをまとめようとするとのぼせてしまうので、身体を乾かして湯船の湯を落とす。自宅なら終い湯の義務として清掃しなければならないが、宿屋に任せることにした。
(これぞ外泊のぜいたくだな!)
寝るときは下着一丁派のラウルだったが、エルザに合わせて下着以外は来ていた服を着直す。耳をすませば酒場の喧騒はまだ止んでいない。最後の一杯を名残惜しく愛でているといったところであろうか、ラウルも風呂上がりの一杯に少々ぬるくなっていたエールを流し込む。
「ぷはぁ」
「おっ、楽しんでるなあ」
「へへへ、家で出来ないことはやっておかないと」
エルザは、よくわかるよ、とうなずきながら、めくっていた本を閉じてラウルに返した。
お互い寝るにはまだ早いので、寝台に腰かけながら明朝以降の打ち合わせをしておく。
二人は朝一番でマグスの古道具屋を訪ねた後に解散、ラウルは厩舎でエスト行きの馬車に乗る。エルザは他の酒場にも顔を出しながら依頼をいくつかこなすという。
「依頼というのは?」
「冒険者のメシのタネ。傭兵を雇うほどでもないけど代わってほしい用事」
彼女の要約は的を得ている。
もう少し詳しく説明するなら、用事の規模や内容によって依頼する相手が変わる、といったほうが正確だろう。商隊の護衛や迷宮探索のお供を頼むなら傭兵旅団、素材調達やこまごまとした用事は酒場の店主に依頼書を預けたり、村長に頼んで掲示を出してもらったりする住み分けができているのだ。
「例えばさ、ジーゲルさんのところでクルトさんがしばらく家を空けなければならない用事ができたとしても、ハンナさんがいるから問題はないよね。でも、奥さんや娘さんを置いて出かけるのが心配って人も多いのよ」
「留守番ですか」
「そうそう。場合によっては店番もね。その程度で傭兵を頼むのは……」
「ちょっと大げさですね」
「そういうこと」
そうは言うが、ラウルには疑問が浮かんだ。友人でも親戚でもない他人を家や店の中に入れてしまって大丈夫なのか、ということである。
「そりゃ信頼関係ってやつね。向こうもこっちを観察してるし、お商売の人は特にそう。私も受け入れてもらえるまで、おつかい、雑用、材料探し、とにかくなんでもやったわよ」
「信頼……」
「そう、安い仕事だからって馬鹿にしてたらお客はつかない。校長先生の依頼にしても、素材納入業者としての実績あってこそよ」
「勉強になります」
小さな仕事の積み重ねが信頼と儲け話へ繋がる点はあらゆる仕事に共通していることであろう。彼は真剣に酒場以来のあれこれを彼女から聞いた。
いつしか酒場の喧騒も静かになり、夜の闇もいよいよ深い。
二人は話し合いの結果、広い寝台の両端で横になってみたはいいが眠れない。ラウルの興奮が部屋に充満してエルザを寝かせないのだ。
特に彼の呼吸が荒くなっているわけではないのだが、彼女は近距離のスケベ気配を敏感に察知する女性だった、ということになるだろう。
ちなみに彼女は寝酒を一杯やっているのだが、効果は薄かったようだ。
「やっぱりダメだ」
ラウルはつぶやくと寝台から下りて寝袋を広げ始めた。
「……ラウル君?」
「すいません、エルザさん」
ラウルは詫びて、くどくどと言い訳を始めた。
姉と弟のようなものだし、家族がひとつ寝床はよくある話なのだから意識しないようにしていたのだが、かえって余計に興奮してしまったこと、別してエルザの匂いを嗅いでいるだけで、自身の聞かん棒に問題が発生しそうなことを正直に告げた。
若いオスを発情させることは亜人のメスにとってはある種のいさおしなのであろうが、なにしろ二人は師弟であるし、エルザには簡単にラウルを受け入れられない理由があった。
その大半は、男は当分勘弁、と彼女が思っていることだが、それだけではない。
「私はともかく、リンちゃんに悪いよね」(泥棒猫とか言われそう……豹なのに)
「ど、どうしてリンの名前が出るんです?」
「はい?あれ?君たち番じゃなかったの?」
「そう見えるんですか?」
「まさか今時、結婚まで清いお付き合いとか……」
「何の約束もしてもらってません」
エスト第四番坑道の掃討作戦終了後に酒場で開かれた簡素な慰労会はまだ記憶に新しい。ロッテからラウルの恋人か妻かと問われて喜んでいるリンは幻だったのか、そうだとしても、人と亜人の組み合わせにしては近すぎる距離感は気のせいではない。
「お姉さんの眼鏡違い?」
「ええ。小さい時からまともに相手をしてくれた数少ない友人ですけど」
数少ない友人どころかリンがいなければ同年代では全滅である。
「それだけ?」
「はい。なんと言ってもクラーフ一族ですからね。リンの両親、グスマンさんとローザさんは良い人ですけど、結婚相手となるともう私以外で決まっているんじゃないですかね」
最後の一言はラウルの自虐的推測とでも言うべきものだが、この時点では全くの見当違いである。リンは寄せられる求婚や秋波を全てはねつけ、余った時間をラウルの魔法不能を治すための研究に費やしている。これらは全て彼の関知しないところで行われているので、彼が知る由もなかった。
「それっきり?」
「時々差し入れに来てくれますけど……まあ、それっきりです」
いよいよエルザは、私の勘もさび付いてしまった、と思った。エスト村の宴会で見る限りは鍛冶屋の若夫婦と言っても通用しそうな雰囲気だったと記憶している。
なによりロッテの精神操作をフォークで阻止した早業、あの動きは夫を守る妻の動きそのものではなかったか。
その前後でエルザは“ラウルを見るリンを見ていた”ので、自信を持って番だと思い込んで疑わなかったのだ。
彼女の勘は最終的には大正解なのだが、現時点では合格点をあげられない。
ラウルとリンが引っ付いたと聞いた時には、それ見たことか、私の目は節穴ではなかった、とエルザは胸を張るのだが、それはかなり後日のことなのである。
「参ったな。勘違いで迷惑かけるのは今日二度目だよ」
気の毒にエルザは平謝りだ。それよりラウルは気になることができてしまった。傍目には自分とリンが番に映るのか、という点だ。
「てっきり爽やか系かと……ごめん」
「はぁ」(それを言うならウチの両親はこってり系だな」
謝ってはいるエルザだが、いまだに自分の勘が外れたことに納得がいっていない。ひょっとしてラウルが気付いていないだけで、リンはそのつもりということも考えられる。
彼も下半身事情が原因で眠るどころではないらしいし、この件で話を広げることが気散じになるかもしれない。
そう考えた彼女は、
「なんかもう目が冴えちゃったし、リンちゃんとの馴れ初めでも話してよ」
という無茶な要求をラウルに振った。
「は、はい!?なんで?」
「おねがーい♡お姉さんが眠るまでの子守歌代わりだと思ってさ」
「可愛い声出してもだめですよ。寝かしつけてほしいのはこっちです」
「うまいこと言うね」
しかしながら、極々短い時間でラウルは師匠命令をにおわせたエルザに根負けする。彼は、あまり面白くないと思いますよ、と断ったうえで昔話をすることにした。
話は八年前にさかのぼる。
いつもご愛読ありがとうございます。
やっとタイトルに相応しい話になって参りました。
修学旅行の宿で恋話とかされた経験はおありですか?寝間着は着ていないけどパジャマ・トークです。
ラウルのよそ見にイラつかれる方もあろうかと思いますが、明日をも知れぬこの世界ではお相手探しは急務、亜人が相手の場合は条件さえクリアすれば案外なんとかなる、という体でお願いします。
徃馬翻次郎でした。