第75話 在りし日の妹背あるいはその結縁 ⑲
ジーゲル夫妻は寄り添いながら、フリッツ閣下とイルメラ夫人が見えなくなるまで見送っているが、ギルベルトとロスヴィータはまだ家の中から出てこない。それに、包みを持った護衛も居残っている。
「お祖父さんとお祖母さんはどうした?」
「まだ話があるそうよ」
「昼食会とやらはいいのか」
「すぐ済むから大丈夫らしいわ」
二人が室内に戻ると、老人たちがそろって謝罪を口にした。
「ジーゲル殿、朝からお騒がせして申し訳ない」
「まったく、不肖の息子でな。堪忍しておくれ」
「頭を上げて下さい、嫁も指輪も無事ですから」
老人二人は謝罪を受け入れられて大いに喜び、結婚祝いの品がある、と言って残っていた護衛を呼び入れた。
彼が持っていた包みを開くと、姿を現したのはもう一本の聖槍だった。
「これは!?」
「聖者様の槍では……」
ロスヴィータによれば、二か月ほど前にヘルナー邸の武器庫に保管してあった聖槍が鳴動して、ちょっとした騒ぎを起こしたのだという。
最終的に、聖槍は自ら飾り棚を外れて飛翔し、武器庫と屋敷の内装を貫通してようやく止まったとのことだ。
これはこれで奇跡であり、壁の穴は聖痕なのだが、ロスヴィータの主張は違った。
もう一本の聖槍と持ち主に何かあったのでは、飛翔した方角を捜索すべき、という彼女の言い分がすったもんだの末に受け入れられ、一か月以上かけた捜索によって、掃討の終わった奴隷王墓所へとたどり着いた、というわけだ。
そこには既に城塞都市騎士団の拠点が構築されていたが、壁画の間は一般公開されていたので捜索隊員は見学し、ここで大規模なアンデッド掃討作戦があったと聞かされる。詳しいことはアイアン・ブリッジで聞いてみるといい、と教えられてハンナの居所に繋がるとっかかりを得たとのことだ。
ここを探し当てた事情はよくわかったが、問題は国宝と呼んでも過言ではない、この大層な結婚祝いの扱いである。
「いただいても?」
「かまわんよ。また家に穴を開けられても困るしな」
ギルベルトは呵々(かか)と笑って遠慮は無用と言う。
「それより、婆にもう一度指輪を見せとくれ」
「おばあちゃま、なにか?」
「うむ、瑞兆じゃとは思うんじゃが……」
「ズイチョー」(って何?)
クルトには聞きなれない言葉だったようだが、瑞兆とは良いことが起こる兆しであり、神に守られているという証である。
いつしか話は老人同士の質疑応答になってしまっているが、ジーゲル夫妻は黙って聞いておく。
「良いことなんだろう?」
「基本的には、そうじゃ」
「基本?」
「行き過ぎると神様に目をつけられる、ということじゃ」
「例えば?」
「聖者様を助けたウチのご先祖じゃ」
「……そういうことか」
ハンナはもちろんクルトもヘルナー家の伝説は知っていた。神様に選ばれて危ない目にあうのだとしたら、聖槍だ、瑞兆だと単純に喜んではいられない。
「まあ、二人はすでに危ない目に遭ったからな。もう安全じゃないのかい?」
「分からんぞ。子や孫の代に一波乱あるかも知れんぞい」
老人たちは若夫婦の不安をあおるつもりはないのだが、結果としてジーゲル夫妻を委縮させてしまった。自分たちなら何が起ころうとかまわないが、子供や孫となるとどうだろうか、守ってやれるほど腕が長ければいいが、とクルトは思う。
「波乱がどの程度かにもよるが、我が一族は長寿の者が多いぞ?」
「そうじゃな、瑞兆の効果で簡単に死なんようになっている可能性はある」
老人たちの話をまとめるとこうなる。指輪は瑞兆、強力な神の加護の証である。しかし、それが原因で神様から面倒事を頼まれたり、あるいは頼まれやすくなるような目印がついてしまう可能性がある。効果と影響は自分たちだけでなく子孫に及ぶ可能性もあるから注意しろ、ということだ。
老人たちは、そろそろお暇するか、と腰をあげ、護衛を伴って外に出る。ジーゲル夫妻も見送るために玄関に出るが、
「もうひとつだけ、よろしいですか」
とクルトは老人たちを引き留めた。彼は聖槍の白昼夢について質問するのを思い出したのだ。鳥系亜人の姿をした半透明の不思議な存在のことだ。
ギルベルトは思い出したように語る。
「大昔の言い伝えに有った気もするが、今はどこもかしこもタイモール教一色だろ?」
「ええ」(また教会か……)
「他の昔話も微妙に変化してきていてな、長生きしてる連中以外は気付かんだろうが」
「そんなことも……」
そもそも“神”という言葉の定義すらあやふやになっており、原初は全知全能の存在ではなく、タイモール大陸の管理者という立ち位置だったと思う、と彼は付け加えた。
「あるいは、鳥系亜人がお主らの救いの神ということもありうる。忘れん事じゃ」
ロスヴィータは夫の解説に一言付け足したが、夢判断というものは難しく、直接関連するような場合もあれば、間接的な比喩表現の場合もあり、どれも一概には言えないそうだ。
最後にもう一度、四人で別れを惜しむ。
フリッツ閣下にハンナの勘当を解いてもらったわけではなく忘れてもらっただけだから、今度こそこれが永遠の別れになりかねないからだ。
この時は本当に泣いて別れたのだが、ハンナはクルトに内緒で秘密の連絡網を形成していたことがはるか後年になって判明する。
詳細は後日にとっておきたいが、母親はいつも娘の味方、とだけ言っておこう。
さて、ジーゲル夫妻は今のソファーでようやく一息ついた。
「やれやれエライさわぎだったな」
「あなた……」
「お前が気にすることじゃねぇよ」
「ありがとう。本当に幸せよ……」
仲良し夫婦のチュッチュチュッチュが始まるかと思われたが、言葉とは裏腹にハンナが乗ってこない。むしろ気がそぞろと言い換えても良い。
妻の異変を察したクルトは優しく問いかけた。
「どうした?」
「ええ……神様の頼み事の話……」
「ああ」(そりゃ気になるよな)
「奴隷王みたいな奴がそうそう居るとも思えないけど」
「そうだな。命を助けてもらって指輪ももらって、断りにくいわな」
そう答えながらも、クルトは傭兵を止めて結果的に正解だったと思う。巨大迷宮の主の中には奴隷王並みの奴がいるかもしれないのだ。そうなれば、聖槍や指輪の力に頼る機会が増え、どうかすれば神の注意を引いてしまうことにもなるだろう。
「正直不安なの。その日がいつ来るか……」
「タイモール大陸の管理者ならウチの大家みたいなもんだろ?」
「はい?大家さん?そ、そうかしらね?」
「用事があるって言ってきても、ちょっと待ってください、って言えばいいよな?」
それで待ってもらえるのは家賃だけであろう。
「もし聖者様に選ばれたりしたら……」
「今忙しくて手一杯なんです、ってことにするか」
「なにで?」
「これだよ」
言うなりクルトはハンナをお姫様抱っこで担ぎ上げて、いそいそと寝室に向かった。クルトにとって、妻とのまぐわいを邪魔する奴は聖者様でも何でもないのだ。ましてや神様なら空気を読んで出直すくらいのことは何でもないだろう、という謎理論である。
「ちょっと、あなた!お昼の支度もまだなのに……」(脱がすのが早い♡)
「なんだ、ちゃんと聞いていなかったのか?」
手荒く服をむかれて息を荒げながらも彼女は首を横に振った。神様の話だったような気もするが、彼の手や舌への対応に追われてそれどころではなかった。
そんな彼女の気持ちはお構いなしに、彼は彼女の耳元で小さく囁く。
「俺は忙しいんだ」
結局、昼過ぎまで続いたジーゲル夫妻のまぐわいを逐一描写する必要はもうなかろう。
心身名実ともに夫婦となった二人のそれは、激しさや濃密さとはまた別種の温かみを帯びたものへと変化しており、寝床のなかでクルトと彼の胸に顔をうずめながら尻尾を揺らしていたハンナは、安心感とでも表現すべき柔らかな空気に包まれていた。
「そう言えば……」
「なあに?あなた」
「聖者様の槍にはどんな聖句が彫ってあるんだ?」
その聖槍は布に包まれたまま台所の机に置きっぱなしにされるという、国宝級の希少品にあるまじき野菜のような扱いを受けている。
「えーと、確かこうよ……」
「……」(聖者様だからな、祝福とか愛とか癒しだろ、常識的に考えて)
「『義にかないし者が裁きを下す。直ちに。』」
「うへッ?」
「どうしたの、あなた?」
「いや、その、格好いいな。強そうで」
「そうでしょ!ウフフ♡」
ハンナに接吻されながらクルトは気が気ではなかった。他の女に目移りしようものなら聖槍が飛んできて尻に刺さるのではないか。浮気するつもりはさらさらないが、誤解されるようなことも避けるように気をつけよう、と誓う彼であった。
台所で野菜扱いを受けていた聖槍がかすかに鳴動する。
そして、クルトが発した心の声に答えるかのように、一瞬だけ淡い光を放った。
二十年前の在りし日から現在に至るまで、とある夫婦が結んだ運命の縁の輝きが全く色あせることない理由とは、斯様に長い長い話の結果なのであった。
いつもご愛読ありがとうございます。
いかがでしたか。閑話改め長編をお送りしましたが、最終話ではどうしてラウル君が主人公なのかを書いたつもりなのですが、うまく伝わっていれば幸いです。
皆さんがお感じになったこと、心に残ったことをぜひぜひご感想としてお寄せください。
徃馬翻次郎でした。