第72話 在りし日の妹背あるいはその結縁 ⑯
《二か月後》
シンカイの店における鍛冶修行は厳しく、師匠自らの剣術指南はさらに厳しく、底なしのはずのクルトの体力を容赦なく削り取っていた。
早朝に起床、朝食もそこそこに出かけてシンカイの訓練場を掃除する。シンカイが起きてくれば早朝稽古、そのあと鍛冶場で修行、日暮れに帰るともう眠気が襲ってくるという健康的な毎日を過ごしている。
一方、ハンナの花嫁修業は安定期と言って差し支えない。青果店に勤務したての頃は旅団員が入れ替わり立ち替わりおしかけてフランプトン青果店過去最高の売上を記録したほどだが、現在は落ち着きを取り戻し、若奥様ぶりも板についてきている。
当初、ハンナの大変身を目撃したクルトは自分の目が信じられなかった。帰宅すると家の中に見知らぬ町娘がいて、帰る家を間違えたと思ったほどだ。
その日は二人で新しい寝床の使用感を心ゆくまで確かめ、翌日は傭兵旅団に旅団員証を返納しに行った。支部長に袖を引っ張るようにして遺留されたので、現在の身分は“名誉旅団員”という聞いたことのないものであり、都合がつくときにだけ助っ人として任務参加する、という特別扱いになっている。
夜は必ず定刻に帰宅する夫、青果店の看板娘である妻の組み合わせには、何の問題もなく思われ、周囲もうらやむ夫婦仲であったが、一度だけ大騒ぎを起こしたことがあった。
鍛冶と剣術の修行がこたえて、クルトが帰ってくるなり寝床に突っ伏す状況が何日も続いた日のことだ。ハンナは朝食に果物を増やして食べやすくしたり、マッサージをしたり甲斐甲斐しく世話をしていたが、つもりつもった不満がついに限界を超えたのだ。
いつものようにシンカイの店で帰り支度をしているクルトの元へ灰色熊の店主が駆け込んできた。顔色が悪く、エスト産の高級ハチミツが手に入ったから一緒に食べよう、という誘いには到底見えない。これほど慌てている店主を見るのは珍しい。
「ジーゲルさん、ちょっと来てくれ!」
「なんだ?」
「お宅の嫁さんが、その、アレだ」
「怪我でもしたのか?」
「違うよッ、キツい酒次々開けてさ。いや、お金の話じゃない、身体が心配だよ」
「そんなにか」
二人は灰色熊に駆け付けたが、カウンターには蒸留酒のビンが並んでいる。水やエールの入ったコップには一切手を付けていない。つまみも食べていない。
ハンナは二人を見たがすぐに視線を手の中の酒に戻した。危険な兆候だ。
「いくら飲んでも酔わないって言ってもこりゃマズいよ」
「そうだな」
「もう止めときなって言っても聞かないんだよ」
「何か壊したか」
「コップをふたつほど。喧嘩もしていないし静かに飲んでる」
「話してみる」
「頼むよ」
話してみる、とは言ったが、クルトはハンナの席の隣に座ったまま何も喋らない。彼女の方に向かって身体を開き気味に頬杖をついているだけだ。
一方、店内の様子はグリノスの冬よりは暖かい程度に凍り付いている。
女給たちはお色気を自粛してボタンをきちんと留め、料理人たちは蒸し暑い厨房で冷や汗をかいている。
客の中には労働後の一杯を楽しんでいた旅芸人一座もいたのだが、余計な芸を披露してしらけさせたら生命の危険が及ぶと思ったのか、小さく固まってちびちび飲んでいた。
他に傭兵旅団の仲間たちもいたので、クルトが視線を送ると手信号で返してきた。手信号とは静粛が必要とされる状況で情報伝達を可能にする合図のようなもので、身振り手振りを組み合わせれば数字や記号だけでなく単語を並べた短文まで伝えることができる。
“停止、失敗、任せた”
どうやら彼らもハンナを止めようとしてくれたらしい。クルトは、
“よくやった、任せろ、待機せよ”
と同じく手信号で旅団員たちに返して彼女のほうへ向き直った。
彼は彼女の深酒の原因が自分だと分かっている。今の彼女にとってクルトだけが不確定要素であり、精神をかき乱す原因になっているはずなのだ。
その原因があれこれさえずっても逆効果、彼女が何か言いだすまでじっと待ち、言い終わるまで辛抱して聞く。これしかない。
「ずっと一緒に居たいって言ったじゃない……」
そこからは彼女の不満が堰を切ったように流れ出した。
曰く、まだ見ぬ子供の為ならいくらでもがんばるのに私の相手はどうなってる、木石でもあるまいし私に悩みがないとでも思っているのか、他の女にうつつを抜かすならまだしも浮気相手が剣術と鍛冶なんて私の立場はどうなる、抱いてもらえないのなら居ないのも同じだ、寂しいなら他の男に抱かれろとでも言うつもりか、とまで一気にまくしたてると、カウンターに顔を伏せて泣き始めた。
クルトはハンナの嗚咽が小さくなるまで彼女の背中をさすっていた。この手がはねのけられる様なら完全に見込みなしの破局なのだが、されるがままにしているということは打開策がある、ということだ。
やがて、しゃくりあげながらも彼女は自制を若干回復していた。
「こんなに泣いて恥ずかしい……もう日中は外に出られない……」
クルトはこの機会を逃さず、
「すぐ戻る」
と言い残して灰色熊を飛び出した。驚愕したのは店主である。この状態を放置して一体クルトは何処へ行くつもりだ、と文句を言いたかった。
そのクルトは自宅へ戻っていた。預かっていた銀の指輪をタンスから取り出し、あるだけの金貨銀貨を財布に詰めた。灰色熊に取って返すと店主と交渉する。
「やっと帰ってきてくれた!」
「待たせた。ところで店主、一晩貸切るといくらかな?」
「な、なんだって?」
「飲み物、食べ物、店にあるもの全部」
「ジーゲルさん、ちゃんと宴会用の料理もあるから予約してくれれば……」
「悪いが、今じゃないとだめなんだ」
とうとう店主は折れて料理はおまかせ、飲み物は実費、金貨四枚の預かり金で手を打った。余れば返してくれる約束だが、いまからやることを考えたら余りそうにないことがクルトには分かっている。
次は旅芸人一座に銀貨を十枚渡し、宴会に参加ついでに一曲頼む、と依頼した。飲み代がただになって小遣いまでもらえるとあっては、彼らは二つ返事だ。
そして、女給の連中にも銀貨を数枚ずつ渡して今夜は客を取らずに接客に集中するように頼んだ。これは営業時間中でも素早く行為をすませて小遣い稼ぎをする女給もいるからだ。実はこの中にクルトの馴染みもいたわけだが、ハンナが気付かないことを彼は祈るばかりだ。さらに、料理人や助手たちにも小遣いをやると彼の財布はほぼ空になった。
最後に、心配そうに見ていた傭兵旅団の面々を呼んで伝令を要請する。
今夜、クルトとハンナ主催でちょっとした宴会をする。招待する客には手ぶら、平服で結構ということは念押しして欲しい。
最優先で火急的速やかに支部長に来てもらうが、お言葉を頂戴したい旨を忘れずに。旅団で参加してくれそうな者は誰でも大歓迎、ただし、副長と相談して全くの留守にならないように注意すること。
フランプトン夫妻と商店街の人たちにも声をかけてほしい。シンカイには鬼と祝言をあげることにあいなった、と言えばわかってもらえる。
乱闘防止のため振る舞い酒はエールに限定するように。
指示を受領した旅団員たちは喜色満面で灰色熊を飛び出して行った。
これだけの指示を出すと、ようやくクルトはカウンタ―にもどり一息ついた。店内を見回すとようやく普段の落ち着きを取り戻し、旅芸人一座が楽器の弦を調整したり、演奏する曲目を相談しているのが目に入った。
ハンナは布巾で顔をふき終わってクルトに尋ねる。
「何が始まるの?」
「祭りだよ」
「何の?」
「もちろん俺たちのだよ」
店主は、やれやれえらいことになった、と大きく息をついたが、心の中ではクルトの並外れた度量に感服していた。
女給や下働きの者たちにまで祝儀を出すのはなかなかできることではない。身分に似合わない金離れの良さもさることながら、あっという間に宴会の御膳立てまでこなしているではないか。
次々に到着する招待客が嫌々でも仕方なくでもないことは、その顔を見ればわかる。
男惚れとはこういうことか、と思いながら店主はエールの在庫を確認しに走った。
ハンナはクルトに引っ張られてカウンターから店の最奥にしつらえられた特別席によろよろと移動し、クルトと並んで座る形で椅子に据えられた。
そこへようやく支部長が到着したのだが、旅団の招待客から何やら要求されている。
「演説!演説!」
もうすでに灰色熊は満席状態だ。招待客に加えてただ酒に誘われた関係のない連中まで押しかけている。
つまり、何を言うにしても簡潔にしなければ暴動の原因になるだろう。
「ご列席の皆さん!傭兵旅団支部長として、有望株を二名も民間に流出させ痛恨の極みであります!この心の痛みを和らげてくれるのはクルトとハンナご両人の幸せのみであり、その幸せがいやまさんことを願うものであります!乾杯!」
乾杯の音頭と同時に旅芸人一座の演奏が開始され、爆発的な賑わいが酒場に充満した。
これでやっとハンナは“祭り”がクルトとの結婚式なのだとわかった。
司教のかわりに支部長、聖歌隊のかわりに旅芸人一座がいる手作り感あふれる結婚式だが、彼女は三回目にしてようやく心浮き立つような式を挙げることができたのだ。
式典なれしている支部長は難なく演説を乗り切り、エールを一杯だけ付き合うと丁寧に一礼して留守番している副長と交代しに旅団へ戻る許可を新郎新婦から得て退出した。
さて、灰色熊の店内はいまだかつてない賑わいを見せ、通りがかった通行人も思わずのぞき込むほどである。さらにエールが無料で飲ませてもらえるとあっては、新郎新婦を知るものも知らぬ者も、誰もが祝杯をかかげて飛び入り参加した。
従業員はそれこそ目の回る忙しさであり、料金計算や回収を気にしないで良いことのみが救いだった。支部長に代わってかけつけた副長が、皿洗いを手伝った方がいいのかしら、と思うぐらいのごった返しである。
続いては指輪交換の儀式だが、これまた指輪を運んでくる司教や助祭もいない簡略式もいいところで、指輪はなんと新郎のポケットから飛び出した。
新郎新婦はこの指輪が聖槍が残した聖遺物であると承知していたが、指輪をはめた瞬間に大きさ調整が発動するのを見ていた全員が魔法道具と勘違いする一幕もあった。
指輪をはめた後の式次第を案内したのは酔っぱらいどもである。
「接吻!接吻!接吻!」
悪ノリ寸前の招待客に催促されるまでもない。
(焼けるように酒臭い……)
クルトは長々と接吻をしたあと、やや興奮気味の招待客から盛大な拍手喝采を浴びた。
これぞ万人の祝福というものであろう。ハンナの実家のことはいったん置くとして、これが今受けられる最大限の祝福だ。
(ありがとう……あなた)
ハンナは本当の妻になった気がした。子供こそ生まれてはいないが、精神的なつながりにおいて、である。
あとはもう深夜過ぎまで飲めや歌えの豪勢な宴になり、シンカイとフランプトン夫妻からは、明日は休んでいい、との結婚祝いを頂戴した。さらに、この三人は勝手に意気投合して媒酌人を買って出る始末だ。
おまけにフランプトン夫人が“後は若い二人にお任せして私たちは退散しましょう”と紋切り型の台詞で招待客の笑いをかっさらっている。
しかし、フランプトン夫人は場を盛り上げただけではなく、おひらきのきっかけを作りたかったようでもあった。
そのきっかけに素早く反応したのは傭兵旅団副長である。
彼女は一計を案じて号令をかけた。
「帯剣している傭兵旅団員、玄関に、せぇいれぇーつッ!(整列)」
時ならぬ裂帛の号令に旅団員たちは驚き、酒場の外に転がるようにして飛び出した。何人かは酒のせいで本当に足元が怪しい。
招待客は何事かと様子を見守る中で、副長は次々に号令をかけて酒場の入り口から往来へと続く二列縦隊をつくり、通路の真ん中を向かせる。
ここまでされると誰もが隊列の意図に気付く。
少々物々しいが、これは花道である。
クルトは店主をチラリと見たが、彼は口パクだけで“今度でいい”と精算を後日に伸ばし、後片付けを引き受けてくれた。
旅芸人一座が気をきかせて、精一杯行進曲調の楽曲を奏でる。
となればジーゲル夫妻のすることは一つである。
その二人を促すように副長の号令がかかった。
「ばっけぇーん(抜剣)!」
見送りの拍手と声援を受けながらジーゲル夫妻は歩を進める。
「かかーげぇー(掲げ)剣!」
旅団員の武装が統一されていないせいで、できあがった花道の天井はでこぼこだったが、
二人は気にならなかった。騎士団の幹部に相当するような栄誉礼がこそばゆかったほどだ。
そこへ彩を添えたのが例のハンナの妹たちである。宴会前に花売りを雇ったか自分たちで摘みに行ったのかは不明だが、花かごを用意していたらしい。
彼女たちが花道を文字通りのものに変身させた。ごくまれに食べられる野草が飛んでくるところを見ると、後者のものも混ざっているようだ。
「おさーめぇー(納め)剣!」
ジーゲル夫妻が花道を渡り終えると、副長の号令一下、一斉に剣を鞘に納める音が鳴り響き、同時に旅芸人一座の即製行進曲も終わった。
宴の終焉である。
「解散!」
副長は隊列を解散して新郎新婦と握手をする。同時に、手が足らない時は手伝ってね、と耳打ちすることも忘れなかった。支部長の祝辞はお世辞ではなかったのである。
いつもご愛読ありがとうございます。
結婚式です。
それだけです。冒頭の狼が酒を飲んで虎になっていたことは忘れましょう。
おめでとうクルト!ハンナ!
徃馬翻次郎でした。