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第68話 在りし日の妹背あるいはその結縁 ⑫


 ようやく奴隷王墓所の掃討が完了した。支部長は旅団員を投入して直ちに埋め立てをしたかったのだが、アイアン・ブリッジ伯や当局関係者の検認を受けねばならない。埋め立てた後で、正式な討伐依頼が支部に届いていたら、改めて入口まで掘ることになる。そんな二度手間は御免だった。


 支部長は自分の首も繋がり、依頼も完了、死人も出ていない大逆転の完全勝利をおさめてご機嫌である。

 もちろん城塞都市に帰還したらやることは山ほどあるが、一番は部下と共に戦勝の杯を掲げることであろう。

 その前にここへ押しかけた旅団員と持ち込んだ物資を撤収する面倒な仕事が残っているが、その前に彼は大事な用件を思い出した。


 クルト、ハンナ、マッツ、ザーワを呼び出して整列させ、一か月の休暇と一時金の受領を命じたのだ。従卒に命じて簡単な命令書を作成する。支部に持って行って副長に渡せば、お休みとお小遣いがもらえるわけだ。


 四人ともこの命令には文句をいわず受領した。しかし、クルトはひとつ気になったことがあって支部長に質問する。


「休暇はいつからなんです?」

「今からだよ」


 ハンナ、ハンナと呼びながらクルトが振り向くと、彼女は回収していた指輪を彼に預け、支部長からもらった小剣を彼に放り投げるやいなや、銀狼に変化した。


 クルトを背に乗せた銀狼はつむじ風のように発掘現場から姿を消した。銀狼なら日のあるうちに城塞都市にたどり着くだろう。


 実は、マッツとザーワも後を追いたかったのだが、個人用の装備が多すぎて置いていくわけにはいかなかったのだ。

 二人は支部長と一緒にたちまち豆粒以下の大きさになるまで遠ざかった新婚夫婦を見送っていた。


「身ひとつ剣ひとつの旦那と姉御がうらやましいのう」

「すまん。万一を考えてあれこれ持たせたワシのせいじゃ」

「気にするなザーワよ。土壇場で手も足も出ないよりずっとええわい」

「そう言ってくれるかマッツよ。しかしな、ワシはひとつ不安があるんじゃ」

「なんじゃい、お前が不安とは珍しいのう」

「いや、旦那と姉御がめっぽう強いのはよくわかっとる」

「そんなことか。強かったらいかんのか?」

「強いのはええが、それって家庭向きなんか?特に姉御……」

「な、なんだか今までにない猛烈に悪い予感がしてきたのう」


 マッツとザーワの会話を聞いていた傭兵旅団支部長パトリック=クライバーは戦慄した。

新婚夫婦の前途を祝う気持ちばかりが先行して、夫婦喧嘩の可能性を忘れていたことに気付いたのだ。


(アイアン・ブリッジが破壊されるッ!)

 

 教会嫌いを公言してはばからない彼は思わず神に祈った。今まで部下の結婚式には何度も出たが、これほど真剣に夫婦円満を祈ったことはかつてない。


(頼む!仲良くやってくれ!)


 支部長や斥候たちの心配をよそに、巨人を乗せた銀狼は草原を駆けている。そこには若さあふれる躍動感のみがあった。



 アイアン・ブリッジにおけるクルトとハンナの休暇初日は夕方からになった。疲れ知らずの銀狼ゆえに成功した高速移動である。

 ただし、クルトが銀狼に乗るのも銀狼が誰かを乗せるのも初めてだった。したがって、彼女は揺れの少ない走行方法など念頭にない。彼は速度と揺れに目を回し、途中で一度胃の中を空にしている。

 ハンナは申し訳なく思って走行方法の改善を誓ったが、一朝一夕でなんとかなるものではなかった。気分転換と称して勝手気ままに好き放題走り回っていたつけが今になって回ってきたのだ。


(不覚!連れ合いと生きるとはこういうことか)


 前夫も前々夫も寝床のなかではさんざん乗ってきたが、変化した状態で背中に乗せたことは一度もなかった。一緒に狩りに出ることはあっても、勢子と猟犬を使った貴族の狩りで、自分の手足で野原を駆け巡ることに比べたら何の興奮もない。

 だからこそ変化疾走の気分転換を気に入っていたのだが、クルトを乗せるときは気をつけなければならない、と彼女なりに反省した。


 さて、傭兵師団支部で副長から休暇の許可と一時金を受け取った二人はそのままハンナ邸に直行した。何をするのもまず風呂から、という彼女の主張は強硬なものであり、クルトは仰せに従って、噴水広場下の高級住宅街へ足を向ける。

 

 ちなみに、風呂と言っても様々な種類がある。クルトの場合は酒場の主人に注文する湯桶二杯(銅貨二枚)である。これで顔と身体を洗い、熱いおしぼりで拭き清めることこそが彼の入浴である。正確には湯船に浸かってもいない。

 庶民でも中流以上になると大きな湯桶や陶製の湯船を用いるようになる。ちなみに湯沸かしは手動だ。大きな鍋やヤカンで湯を沸かし水で調温する。

 これが富裕層や貴族になると一気に格が変わる。火魔法を応用した自動式湯沸かし器を備えている家庭がほとんどなのだ。

 高位魔術師を除いて、水は自分で用意する必要がある。これは庶民とかわらないが、自分の手で汲むとは限らない。太い銅管に魔石が組み込んであり、弱い火魔法が一定時間持続するような術式が刻まれている。魔力を流せば発熱し、銅管に貯められた水を加熱する。そして蛇口をひねれば熱湯が出るという庶民にとっては夢のような道具だ。

 調温は庶民と同じく水で行うが、これも自分でするとは限らない。召使の仕事である。


 果してハンナ邸は自動式湯沸かし器が備え付けられていた。

 

 門があって玄関から離れている時点で、クルトはもう気後れしている。彼の生家では玄関など存在せず、土間という露出した地面が玄関と台所を兼ねていた。


「さ、入って入って。水汲みだけ手伝ってね!」

「任せろ」(これはエライところへ来てしまった)

「早く足を延ばしたい」

「同感だ」(落ち着かない)


 この家で唯一役に立てそうな力仕事が回ってきたクルトは発奮して井戸へ回った。裏手に回って手押しポンプを往復させてバケツを二杯満水にしたのはいいが、次が分からない。

 彼は勝手口から顔を突っ込んで彼女に指示を請うた。


「ハンナ、水の次は?」

「注ぎ口の蓋を開けて水を注いで」

「どれだ……これか」

「あと四杯お願いね」

 

 クルトは言われた通りに水を詰めて勝手口から台所に回った。ハンナは既に湯沸かし器に魔力を流し終わっていて、あちこちにある魔石式照明を点け出していた。

 彼は明るくなった室内を見回したが、改めて生活水準の違いに愕然としてしまう。


(何もかもしつらいが違う……)


 聞けば、家具のほとんどは賃貸物件の一部なので、本人の私物はそれほど多くないらしい。什器が目立たないのは、寝床と厠と風呂以外は使用することが少なく、外食で済ませることが多いうえに、洗濯は業者にまかせている徹底ぶりによるものだった。

 つまり、彼女は一方でお嬢様生活を拒絶しながらも、その一部を切り取って移植して暮らしていたのだ。


 ただし、その切り取り方は不完全である。本来は使用人や執事がこなす部分を魔法道具や外部発注によって補完しているため、はぎ合わせのような印象を受ける。


 クルトが感想をまとめているうちに、ハンナは部屋着と室内履きを持って戻ってきた。衝立を広げて大ぶりの綿布を二枚掛ける。これらは本来使用人の仕事だが、彼女が自分で代行することで様式を維持している感じだ。


「一番風呂は私!しまい湯でよかったらどう?」

「そりゃ有難いが……」

「何なら一緒に入る?」

「ヘッ?」

「同時は無理だよ。湯船が壊れる」

「そうだな」

「まず私を洗ってもらおう。クルトは私が洗ってやる」

「お、おう」

「洗う広さは私のほうがうんと狭いからな。お得だぞ」


 洗浄面積を彼我で比較した場合の労力のことを言って彼女は“お得”と表現したと思われるが、確かに、何がとは言わないがクルトの一方的な利得にしかならない。

 驚くべきことだが、この夫婦の入浴方法は二十年後のジーゲル家でも現役である。


 しかし、あいかわらず服の脱ぎ方は脱ぎ捨てると言ったほうが正しいくらいの乱暴なもので、ブーツにしても蹴飛ばすと言った方が正確な表現と思われる激しいものだったが、はぎ合わせの暮らしぶりを見た後で、やっとクルトは脱ぎ方の正体に気付いた。


 これは“拾って片づける係が常時控えている人の”正しい脱ぎ方なのだ。むろん、その係は居ないから自分で拾って片づけるのだが、いったん身に着いた習慣というものは恐ろしい。“お嬢様お待ち下さい”“そのような御格好では”と言いながらハンナの後を追いかける執事や使用人の姿がクルトには見えた。



 湯船に浸かったハンナから差し出された腕を洗い清める海綿と石鹸もクルトにとっては未知との遭遇である。乾燥サボ草粉末お徳用と手ぬぐいがぜいたくだった彼には目前の女体ほどではないが目を引かれる品物だった。

 ちなみに頭は一番に洗浄済み、彼女のなかでも優先順位が高い部位らしい。


「おくつろぎのところ申し訳ないが」

「なあに?」

「一緒に中層で暮らすとなるとこうはいかん」

「ふうん?」


 素早く反対側に回り込んで逆の手を洗うクルトは彼女お気に入りの従僕のようだ。一方、ハンナは具合が良いらしく、返事も間延びしたものになっている。


「平民とか貴族とか言いたくはないんだが……」

「いいわよ」

「おっ?」

「この生活は惰性で続けてたようなものだしね」

「そうなのか?」


 湯船から脚を放り出しながら彼女は続ける。脚側に移動したクルトは指の間も残すことなく念入りに海綿を通す。


「慣れるまではイライラするでしょうけど。んっ♡」


 指間か足裏が気持ちよかったのか、彼女は色っぽい声を出したが、彼はそれに気をやるより、安堵の気持ちがよほど大きかった。少なくとも生活水準を下方修正することに応じてくれる意思はあるわけで、そうなれば問題が何であれ話し合いの余地もあろうというものである。


「晩飯は酒場にしないか?」

「いいね……ひょっとして二階にクルトが住んでる酒場?」

「そうだ」


 庶民の暮らしを口で言うより彼女が自分で見聞きしたほうが早いだろう、というクルトの判断なのだが、ハンナは呑気に家庭訪問としゃれこんでいる。


「外泊かな?」

「お望みなら」


 勘違いをしているようだが仕方あるまい、とクルトは諦めた。勘違いとは外泊が彼女にとってあまり愉快なものにならない、というクルトの予想なのだが、その予想が正しいかどうかが判明するのは数時間後だ。

 

 攻守を変えてクルトを洗う順番になったが、単独でも湯船からはみ出してしまいそうになったので、床に座らせての行水に変更された。

 クルトにとって頭から暖かい湯をかぶるなぞという行為はぜいたく極まりないのだが、その高級感にひたる間もなくハンナのクルト磨きが開始された。


「アハハ、広い背中ね!これはたいへんだ」


 口では大仰に言うが、彼女は以前の結婚生活では決して味わえなかった幸福を端々に感じている。

 前々夫は、ヘルナー家と結婚したんだ、という態度がありありで、ことあるごとに小娘扱いしてくる鼻持ちならない男だった。前夫は嫁より持参金に興味深々だった。ついでに身体をもてあそぶという下衆。中古品呼ばわりされたことは消えない心の傷だ。


 ところがこの違いはどうだろう。目下洗浄中の大男は家柄でも金でもなく私にぞっこんなのだと思うと気分が良かった。前を洗ってやろうとすると小さくなって拒絶するさまは可愛くすらある。

 要するに、彼女は少々発情した。


 残り湯を流してしまう前に、二人は漆喰床にしいた綿布の上でまぐわった。寝床へ行くのも省略して風呂場での合戦となったのである。

 日没までに合戦は終了したが、余韻を楽しむどころかクルトは妙な事を言い出した。


「さんざんやっといて何だが」

「ご不満でも?」

「いや、正直なところハンナに溺れている」

「じゃあ問題ないじゃない」

「無理してないよな?」


 本当に妙なことを言う、と彼女は思ったが彼は真剣そのものだった。

 彼曰く、亜人の尻尾が補助的な感情表現であることは知っているが、あまりにも交尾中の動きが大人しいこと、もし恐ろしい思いをさせているなら言ってほしいこと、まぐわいの有無に関係なく長い時間を共に過ごしたいことを、風呂上がりにしても多すぎる汗をかきながら、訥々(とつとつ)と述べた。


 亜人の尻尾は自分の意思で動かすのが難しいから、一部の商人などはゆったりした衣服で隠す。客を見て商売をしてやがる、と思われる可能性を消すためだ。高級軍人なども犬系亜人の場合は注意が必要だ。必勝をうたいながら耳も尾も垂れ下がっている将軍の演説は信じてもらえない。

 それほど犬や狼系亜人の尻尾というものは世に知られてしまっている。


 ハンナは、無理も怖い思いもしていない、と言い返そうとして口ごもった。

 実は心当たりがある。

 強いオスを求めて実家を飛び出した彼女だが、その実、男が怖いのだ。主に前夫と前々夫が原因だが、特に寝床の中では怯えてすらいた。クルトとのまぐわいで主導権を握ろうとするのは過去の恐怖の裏返し、虚勢を張っていたと言って良い。

 乱暴な物言いや強気な態度もそうだ。舐められまいとして必死だったのである。世の男が全て敵というわけではないが、自分を守るための砦だったのだ。


 オスを探してオスが怖いとは矛盾しているようだが、とにかくそういうことなのだ。


「俺は味方だよ」


 不意を突いた一言にハンナは心を読まれた気がして慌てた。


「な、なによ突然……」

「家庭では頼りにならんが」

「……」(私だってできることのほうが少ない)

「少なくとも後ろから刺したりはしない」


 これは、文句があったら正面からぶつけるぞ、という信頼宣言であり、同時にもう少し警戒を解いて砦に入れてくれ、という要請でもあった。


 彼女は彼の真摯しんしな言葉に心を打たれ、不覚にも落涙してしまう。父にもかつての配偶者にも物扱いされてきた反動が一気にきて、堪えようがなかった。

 彼女はとっさに手で覆おうとするが間に合わない。


「なッ、バカ、見るなッ!」

「……」

「放っておいてよ!」

「……」(そうはいかんよ)


 彼女が涙を拭き終わるのを待って、彼は酒場への出発を促した。


「そろそろ出かける方がいいな」

「そんな気分じゃないよ」


 彼女は尻込みした。幾分傷つけられた目をしているのは過去の辛酸を思い出したからであろう。


「なおさら出かける方がいいな」


 ぐずる彼女をあやしながら外泊の準備と普段着への着替えをさせて、二人は外に出た。


 暮れなずむ夕日の残光が噴水を茜色に染めている絶景をクルトは堪能したが、ハンナはうつむき加減で心ここにあらずだ。

 彼が手を握ると微かに握り返してくるが、昨日までの熱の入れようには程遠い。

 彼女が再び熱くなるのは数時間後である。


いつもご愛読ありがとうございます。

休暇です。サブイベントどっさりの休暇なので実質休みなしです。

はぎ合わせとはパッチワークです。

徃馬翻次郎でした。


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