第58話 在りし日の妹背あるいはその結縁 ②
聖槍の結界から始まった一連の出来事は、命の危険を別にすれば猛烈なお祭り騒ぎのようなものだった。思い返してみても、まるで駆け足で結婚式場から飛び出して、気が付けば初夜まで済ませていたかのような激流に飲み込まれた感はぬぐえない。
ところが、実はハンナの故郷に伝わる伝説に沿った、聖槍の結界を発動させるための条件だと知って、クルトは小さな感動のようなものまで覚えていたのだが、その感動も束の間、最後は粉々になるだろう、という彼女の話は彼を落ち込ませてしまった。
「……」(俺の命と引き換えか)
「なに?まだ気にしてるの?」
「ああ」(そりゃそうだろ)
「大丈夫。もう一本あるから」
「どういうことだ?」
「聖者様の槍。あそこに刺さってるのは夫婦の槍」
「同じものなのか?」
「見た目は同じ。刻まれている聖句は違う。別物ね」
ハンナ曰く、実家の武器庫にある飾り棚は均衡を失ったままかもしれない、という。いったい何の話なのかとクルトは思ったが、彼女的には実家、特に当主のやりように一矢報いてやった痛快な出来事ということになるのだから、最後まで聞いてくれと頼まれた。
件の飾り棚は一族の紋章を交差する形で二本の槍が支えるという配置だったから、聖槍を一本失敬すれば、人間でいうなら間違って口ひげを片側そり落とした無様な状態と同じだ、これは可笑しい、と言って彼女は笑うのである。
上流階級用の冗談か皮肉らしいが、クルトは笑うところが分からなかった。それどころか、勝手に借りてきたものを壊してしまったら大問題ではないかとさえ思っている。
それにしても、
(武器庫、紋章、聖槍が二本……)
などとクルトが考えるまでもなく、普通の家にそもそも聖槍は置いていないし、武器庫もない。
やんごとなき身分のお生まれらしい、という彼女の噂は先刻承知だが、聞きなれない祖母の呼称と併せて考えると噂はどうやら本当らしい。
花嫁修業で傭兵旅団に参加する者はいない。強いオスを探していると公言していたから駆け落ちも違う。考えられる状況としては離縁、出奔、勘当だが、結婚と離婚の状況については既に聞いている。
つまりハンナは強制か自主的かは別にして家出お嬢様という事になる。
「立ち入ったことを聞いていいか」
「なに?」
「嫌なら答えなくても構わん」
「とりあえず聞いてみたら?」
「実家とはどうなってる」
「……」
果たしてハンナが沈黙した。聞いてみれば良い、とまで言っていたのに彼女は不機嫌だ。思っていた以上に聞かれたくなかったことなのかもしれない、と察したクルトは言葉を付け足すことにして彼女の対応を待った。
「俺の家族はハンナだけだ」
「……」
これは惚気ではなく事実である。彼の両親は文字通りアイアン・ブリッジの肥やしになって亡くなっている。探せば遠い親戚が見つかるかもしれないが、鋳掛屋の放浪生活をしているうちに縁が切れていた。
彼女は違う。祖母がいて他にも家族がいるらしい。“私たち結婚しました”ではないが、何らかのあいさつなり接触なりが必要ではないか、もし彼女の故郷特有のしきたりがあるならそれを尊重したい、と彼は考えている。
「私も……クルトだけでいい」
「……」(要不要の話ではないんだがな)
今度はクルトが黙ってしまった。出奔でも勘当でも何らかの騒動を起こしてから家出をしたことは確実なわけで、二度の離婚歴を併せて考えると彼女にはどうしても言いたくない過去がある、ということだ。
それに、庶民にはわかりっこない上流階級特有の悩みというものがあるのかも知れない、と彼はひとりでに納得した。彼にしても、上等のおしきせを着せられて毎晩舞踏会に出る羽目になったら、と思うと考えるだけでぞっとする。舞踏会は極端な偏見だとしても、いろいろな取り決めや息苦しさが嫌で、彼女は家を飛び出したかもしれないのだ。
これ以上問い詰める前に余暇の間にヘルナー家だけでなく亜人一般の伝統や慣習について調べておくべきかも知れない、マッツとザーワが役に立ってくれそうだ、と彼は脳内備忘録に宿題をひとつ追加した。
(また用事が増えちまった)
熊みたいな見た目をしている巨人の頭の中をのぞき見る術があったら、見た人は備忘録の長さに卒倒するだろう。この男が自分の勉強不足を認めて知識を吸収する素直さに長けているせいでもある。
したがって、彼はこの件でこれ以上彼女に質問するのを止めた。ただし、現時点では、という保留付きだ。なぜなら、こちらが彼女の実家を無視しても何かの拍子に鉢合わせすることは十分考えられるからだ。
(剣呑な始末にならないといいが今はここまでだな)
あいさつや義理にうるさい人は多い。上流階級の人間ならなおさらだ。子供が生まれてからが本当の夫婦なら、その時に改めてハンナの実家訪問を相談することになるだろう、とクルトは思考を打ち切った。
なにより、単純に言いたくないだけではない、というのは彼女の目を見ればわかる。詳しい理由は不明だが、きっと出奔に関わることだ。何かが彼女の心を傷つけたのだ。
それで心の傷が癒せるわけではないと知りつつも、彼は彼女の肩を抱き寄せた。
一方のハンナも体重を彼にあずけてもたれかかったが、クルトが質問を途中で打ち切ったことは何となくわかった。その優しさを恩に着るとともに、いつか本当のことを洗いざらい白状する日がくることも覚悟している。
生まれ故郷では聖槍を盗んだお尋ね者になっている可能性まであることは、それとなく笑い話にかこつけて夫に告げたが、これ以上善人の夫を騙し続けるのは気が進まない。
ではいつ打ち明けるのだ、と問われればやはり子供が生まれた時であろう。混血の結果、人の子が生まれた場合は問題ない。その子は単純にクルトとハンナの息子あるいは娘だ。
問題は亜人の子が生まれた場合である。今のところハンナはフリッツとイルメラの間に生まれた一人娘である。したがって、身分の差をかさに着てクルトを婿扱いにし、孫を一門に加えようとするだろう。
その結果、もし息子が生まれた場合はノルトラント辺境伯の世継ぎとなる属性を帯びてしまう。本人の意思とは全く無関係に、である。
娘だった場合は自分と同じだ。籠の鳥、若いうちに婚約、歳の差婚と言うのもおぞましい年嵩の男性との婚礼、処女を散らされた挙句いいように身体をなぶられた記憶は思い出すだけでも吐き気がする。
実家の権力と人手の多さを考えれば、亜人の子を産んだら確実に知られる。捨てて逃げたはずの過去に追いつかれる。
新しい番のことはまだしも、現在位置とたつきは既に把握されている可能性すらあるのだ。一生隠れているわけにもいかないから、実家、特に現当主であり父親でもあるノルトラント辺境伯フリッツ卿との対峙は避けられない運命だ。
彼女は子供を奪い去られるという事態だけは御免被りたかったが、その気になった父親の権力をもってすれば、難なく片づけられてしまうであろうことは想像がつく。
唯一の朗報は父親以外の身内は全員ハンナの味方、という一点のみである。
もし亜人の子が生まれたたら実家の件をクルトに打ち明けよう、と彼女は思っている。逆に言えば、何らかの不都合が発生するまでは彼とのことだけを考えたい、という自分本位な思考も彼女は並行して行っていた。
自分にとって都合の悪いことに目をつぶるこの手の思考は、彼女だけでなく世間全般で普通に見られることではある。
“そのような話、余は聞きとうない”とは古今東西を問わず使い古されたダメ君主のセリフだが、ハンナの場合は少し違う。“今は聞きたくないけど、一応ちゃんと考えてます”といったところだ。
この詰めの甘さが後々問題となるのだが、意外や意外、この件を前もって考えていたクルトによって事無きを得るのはもう少し後のことだ。
いつもご愛読ありがとうございます。
「そのような話余は聞きとうない」ってリアルで使っても「じゃあ勝手にしろよ」って返事しか返ってこないんでしょうねえ、私の場合。この言葉は権力とセットなのです。掃除係や始末屋がまわりにいてこそ使える君主のセリフなのです。
何の話かと言うと「部屋掃除したら?」って言われた時の対応についてです。
徃馬翻次郎でした。