第35話 王都への道 ②
「おーい!その馬車、待ったー!」
「へいへい、今出るところですよ、旦那さん」
声のした方向を見れば子供を抱っこした男性とカバンを抱えた女性の三人だ。身なりは立派で裕福そうだが、急いで出てきたのか整った旅装とは言えない。ラウルとエルザは座席の奥に詰めて座り、出口付近は親子連れの座席というわけだ。
ラウルは男性が馬車に乗り込むのを手伝って、ひっぱり上げてやった。乗り込んだ男性は妻らしき女性と息子らしき子供が乗り込むのを支えていた。
女性は軽く目礼を送って感謝の意をしめす。男性は礼でも言おうとしたのか口を開きかけたが、どうやらラウルに見覚えがあったらしく、発する言葉を変えたようだ。
「君はひょっとして……」
「ラウル=ジーゲルです」
「ジーゲル……ああ、ジーゲルね……」
「?」(なんだよッ)
妙なことに会話はそこで停止し、男性は意識して無視したように黙りこくってしまった。
何だ貴様その態度は、とエルザが席を立とうとしたが、男性が示した態度の理由に気付いたラウルは小さな声で囁きながら彼女を抑えた。
「これが普通なんです」(悲しいけどね)
「ラウル君……」
おそらく聖タイモール教会の熱心な信者なのだろう。彼らの信ずるところによれば、ジーゲル一家はいくら人望が高かろうが世に聞こえた名工だろうが罪にまみれた背信者に間違いないのだ。乗り合わせてしまった以上しかたないが、できることなら同乗はお断りしたいぐらいだ、と男性の顔に書いてある。
もう慣れきってしまっていた過去の苦い記憶がよみがえってきた。石こそなげられはしないが、視線や態度だけでも心は痛む。オレがいったい貴方になにかしましたか、とラウルは言いたかった。
しかし、暴言なら言い返すこともできるが、無視はなかなかに陰湿な大人のいじめだ。それだけに効果は抜群で、装甲の薄いラウルの心をあっさりと貫通して血を流した。
おさまりがつかないのはエルザだ。いくらラウルが止めようが、ウチの弟に何かご不満でも、とばかりに目が吊り上がっている。険悪になりかけた空気を御者の掛け声がかろうじて薄めたが、彼女の怒りは当分収まりそうにない。
「ほいじゃ、行きますぜ!」
新たに三枚の銀貨を手に入れた御者は元気よく出発を宣言して、鞭を鳴らした。ラウルは忘れないうちに小銭入れに背嚢の隠しポケットから銀貨を二枚補充し、ズボンにしまった。確か途中で昼休みをはさむから運賃以外にも入用があるはずだ、と思い出す。
それにしても、つい先ほどまで少し浮かれるほどの旅行気分だったはずだが、一気に暗い雰囲気に落ち込んでしまった。ラウルに非がないのは明らかだが、男性も自分の信念を曲げるつもりはないらしい。ラウルは静かに怒っているエルザの気を散らすために話かけようとするが、男性の態度にイラついているのか、なかなか乗ってこない。
そのエルザはイライラしながらも周囲に気を配っていたらしく、あることに気付いて御者台に声をかけた。
「おじさん、ちょっと進むの遅くない?」
「やや、エルザ嬢もそう思うよなァ」
「車輪の故障?車軸?」
「うんにゃ、こいつは馬っこのほうでさァ」
手綱を握ってないほうの御者が説明してくれた。本来、駅馬車は到着した厩舎で替え馬をする手はずになっている。ところが、魔獣騒ぎの影響でエストでの替え馬ができなかった、というのだ。
「馬っこは繊細な獣だァ。大きな音でビックリして腹壊す奴もいるぐらいでさァ」
「聞いたことあるわ」
「二頭ほど厩飛び出して走り回ったとか、壁に身体ぶつけたとかさァ」
「それは……なんというか……」
「一番はアレだヨ、おかしくなって今朝は馬具をつけさせてくれんかったのヨ」
魔獣騒ぎでつらい思いをしたのは人間だけではなかったのだ。噛まれて死ぬような被害はなかったらしいが、身動きのとれぬ厩舎の中で死ぬ思いをしたに違いない。
今駅馬車を引っ張っている馬たちにしても、村人の血や魔獣の残した臭いを嗅いで不安な気持ちになったはずだ。それでも御者は馬たちに職務を遂行させなければならない。
「それでさ、馬っこどもには悪いけどもヨ……」
「この子たち、往復なんだね」
駅馬車の速度が出ない理由が判明した。
心身疲労の蓄積は誰でもつらいものだ。人間と違って窮状を言葉で訴えられないのだから、余計に馬たちを気の毒に思うエルザだった。
昨日は魔術師の師弟と戦士兄弟が同じく駅馬車を利用したはずだ。同様に馬具をつけるのに苦労したり、運行速度が出ないことに難儀したに違いない。
兄弟が変化して熊馬車にでもしたか、あるいは校長先生がちちんぷいぷいでなんとかして解決したのかも知れないが、どちらにしても、今の状況ではどうしようもない。
動物にも回復魔法は効くかもしれないが、司教も治癒師もいない現状では御者の経験を信じて身を任せるほかない。
「なんとか日没までには間に合わせるからヨ」
「わかった。無理しないで」
一番困るのは途中でへばられることだ。動きの止まった駅馬車など野盗団にとっては襲ってくださいと言わんばかりのカモでしかない。間に合わせると言っても、馬の様子を見ながらだましだまし進めるといったほうが正確だろう。その証拠に、王都までの中間地点にある集落がまだ見えていないにもかかわらず、王都発の駅馬車とすれ違ってしまった。
仮に両駅馬車の発車時刻が同じだとすると、エスト発の馬車は相当遅れていることになる。正確な時刻はわからないが、もうお昼過ぎなのだろう。
ラウルはかすかに空腹を覚えたが、それは車中の面々も全員同じくであるとみえて、子供が母親に訴えかけていた。
「お母さん、お腹すいたよ」
「もう少しで何か食べれるところに着くから我慢してね」
「いつ?」
「も、もう少しよ」
「……」
相変わらず男性は押し黙ったままだ。オレを無視するのは勝手だけど子供の相手はしてやれよ、とラウルは男性を情けなく思ったが、同時に自分がハンナ製携帯食料を持っていたことを思い出した。ビスケットの袋は背嚢の上部に入っているのですぐに取り出すことができ、水筒と組み合わせればとりあえずの虫養いになるはずだった。
ラウルは男性を無視して奥さんらしき女性に話しかける。偉そうに恵んでやるという感じを出さないように、つとめて平坦なやわらかい口調で彼は提案した。
「もしよかったらビスケットと水がありますがいかがですか」
「いえ、あの……」
「わー!お兄ちゃん、ありがとう!」
女性が返事をする前に子供が食いついてしまった。そんな汚いもの返しなさい、と男性が言えるはずもなく、結果としてハンナ・ビスケットが聖タイモール教徒の心の垣根を一発で突き崩してしまったのだ。
ラウルが大ぶりのビスケットを三枚取り出して子供に渡すと、子供は食べる前に親子三人で一枚ずつわけようとした。母親に似たのかなんとも優しい子で、見ていたエルザの眉間からしわがようやく消える。
結局のところ、私たちはいいから全部坊やがお食べ、ということになったのだが、ここにきて男性もとうとう折れて詫びを入れ、自己紹介からやり直すことになった。
「無礼を謝罪する。私はマルコ=クレマー。妻のカミラに息子のエミールだ」
「本当に助かりました、ラウルさん」
「ありがとう、お兄ちゃん!」
「はじめまして。“羊のクレマー”さんなら存じてます」
「そ、そうかね。そちらは?」
「エルザ。探検家」
ようやく人間らしい付き合いを開始することができた。あいさつまでに数時間を要するとは宗教の力恐るべしである。クレマー家はエスト中心部の住宅街に居を構えるが、羊を飼育している牧場や草原地帯のような職場はジーゲル家の隣近所に位置しているので、直接の付き合いはなくとも、牧童や管理人とは面識があった。
“羊のクレマー”とは羊毛と食肉業者のクレマー家という意味で、商売も順調であり、エストの中ではかなり余裕のある経済状況であると言えるだろう。
問題はエルザだ。怒りも警戒も解いていない。ラウルが怒らないので代理でキレている感すらある。なんとラウルがなだめてはいるが、暴発しないことを祈るのみである。
さて、二日前の救出作戦に参加した冒険者だとわかると、クレマー夫妻の態度はさらに改まったものとなった。作戦にはジーゲル家も参加していたはずだが、マルコは聞かなかったことにしていたか、意識的に記憶から削除していたらしい。背信者一家など物の数には入らなかったのだろう。
今となっては、マルコは逆に矛盾を抱え込むことになってしまった。目の前にいるのは神罰こそが相応しい悪魔の申し子で、同時に身体を張って村人を助けた救世主である。
それに、神経質なエミールがラウルになついている。すきっ腹で食べ物につられただけではあるまい。ラウル青年に慈愛の心があったことは明らかである。
(なにかがおかしい。間違っている。まさか教会が……)
マルコはもう少しで神を疑うところだった。
とりあえず、彼はジーゲル家への再評価をいったん保留することにした。
巧妙に人を騙す悪魔という可能性もある。今はエミールに免じて普通につきあってやるが、化けの皮がはがれ次第火あぶりだ、というマルコの狂信とでも表現すべき信仰の篤さに基づく人物評価は簡単に覆るものではなかったようだ。
いつもご愛読ありがとうございます。
このようにラウル君への風当たりは急に好転したりしません。
負けるなラウル!もう少しの辛抱だラウル!
徃馬翻次郎でした。