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第352話 春嵐 ③


 少し話がそれるが、ラウルたちが逗留している臥竜亭の特別室がいかに画期的な発明であったかについては再三述べてきた。ただ、悲しいかな、同様の企画はすぐに真似をされて独自性が失われ、特別室は臥竜亭だけのものではなくなっている。同業者が真似をしようと思えば宿泊客を装って一泊すればすむ話なので、秘密保持などは最初から論外ではあった。

 しかし、仕掛け人の店主としてはいかにも悔しい。したがって、臥竜亭を切り回すカウフマン夫妻は日常業務の傍ら特別室の新しい展開を考えており、まれに鋭い批評を聞かせてくれるラウルの滞在を心待ちにしている節があった。


 当のラウルはリンの背中を流すので忙しい。自分が宿の経営者から妙な期待を勝手にされているとは露知らず、細やかな気遣いが増えた特別室を大いに堪能していた。


「石鹸の匂いが違う。良い匂いがする」

「そ、そうかな?」


 ひっくり返した湯桶に半ば無理やり座らされたリンは目をつぶったまま返事をする。せめて前くらい隠したらどうか、という彼女の弱々しい抗議は、恥ずかしいことなどあるものか、とラウルに先刻一蹴されたばかりだ。吹雪のルオート山でさんざん身体をまさぐられ、グリノス滞在中に慣れ親しんだ全裸式の睡眠を何度も試したせいで、お互いが裸体をみただけでどぎまぎすることは少なくなっていたが、ラウルのきかん棒までをまじまじと直視する度胸がリンには足りない。


「ほい、次は右腕を水平に上げてくれ」

「う、うん」


 王侯貴族でもあるまいし風呂は一人で入れる、とも言ってみたがラウルは聞かない。何を思い出したのか、新しくシュミット卿となったディーター叔父を引き合いに出して悲しそうな顔をした。


「叔父貴が誰と結婚するかわからないけど、貴族様は夫婦で風呂に入ったりしないだろ?」

「それは、そうだね」


 風呂を沸かす係だけでなく主人の身体を洗う係もいるのが富裕層や貴族の入浴事情だ。さらには、洗い係の男女が主人のお手付きになる話も珍しくない。そんな場所に主人の配偶者がいるはずはなかった。


「だいたいさ、誰それと結婚する、みたいな話し方を叔父貴はしないんだよ。私の結婚は北方諸侯の団結を強めるために使用されると思います、ときたもんだ。文法おかしくないか?おまけに、そこに好きとか惚れたとか無いんだ。これは不幸だよ」

「ラウル……」

「それが貴族の義務だってんだろ。あ、次は左腕を上げて」


 熟練の召使よろしく、ラウルは器用に石鹸を泡立てる。大きな背中をまるめて甲斐甲斐しくリンに奉仕する様子は一見滑稽だが真心がこもっていた。


「そんなこと考えてたの?」

「幸せを噛みしめている、って言おうか?叔父貴も自分の好きな人と結ばれればいいけど、難しいだろうな。ウチの母さんもそんなことを言ってた気がする」


 ハンナはクルトと結婚するまでに二度の離婚歴がある。名門貴族の子女として課された義務を果たした結果、幸せになるまでずいぶんと遠回りをした格好だ。

 

「そんなことが……」

「知らなかった?母さんと仲良さそうだから何でも共有してるかと思ったけど。ああ、翼の生え際はどうやるんだ?」

「自分で洗うから!」

「そう?とにかく、オレが平民上がりでよかったと思えるくらいだからね。幸せとはそれだよ。あー、泡を落としましょうかね、奥様」


 ラウルはすすぎ残しがないように気をつけながら、手桶から満遍なくリンの身体に湯を注ぐ。彼が注目したのは彼女の身体にうっすら残るいくつかの傷跡だ。傭兵旅団での訓練以降、ラウルとリンには回復薬や治癒魔法を使うほどではない負傷は山のようにあって、ラウルはご自慢の再生能力で綺麗に治せたが、リンはそう上手く行かなかった。その結果、目立ちはしないもののうっすらと傷跡が残ったままでいる。


(ばあさんが怒るわけだ。まったくオレはどこを見ていたんだ)


 今さらながら辺境伯夫人イルメラの忠言が身に染みた。旅の相棒をおろそかにしてはいまいかと、と詰められて反射的に否定したはいいが、その実情はこの有様である。目を節穴とそしられても仕方がない。肩口には浅いが長い刀傷の跡がある。ノルトラントで巨大骸骨と戦った時に羽毛を散らした“かすり傷”だ。彼女の翼にばかり気を取られていたが、派手に出血しないだけで手傷を負っていたのである。


「ひゃッ!」


 リンの悲鳴はラウルが傷跡めがけて接吻をしたことに因るものだ。彼としては名誉の負傷に礼を言うべきなのか謝罪をするべきなのか大いに迷い、そのどちらも相応しくないと判断した。


「わ、悪い。びっくりさせるつもりはなかったんだ」


 ラウルは固まってしまったリンを抱えて湯船に漬けると床に座り込んで自分を洗い始める。リンとは重量が違うので木桶の椅子は使えない。我ながら格好をつけすぎたとの反省もあって、しばらく湯船のリンをまともに見れなかった。


「ラウル」

「だから、悪かったよ。忘れてくれ」

「それはダメだよ。忘れない、忘れられないわ」


 リンは水音を立てて湯船から上がる。ラウルから手ぬぐいをひったくると無闇に広い背中を洗いにかかった。


「お、お世話になります」


 ラウルは背中を丸めて縮こまる。


「何よ、もう。平民ならではの幸せなんでしょ?堂々としてなさい」

「まあ、そうだ」


 縮こまろうが背筋を伸ばそうが巨漢は洗う場所が多い。リンはほとんど汗みずくになって手ぬぐいを振り回した。


「はあ、洗いっこだとしたら面積比で損した気分だわ」

「似た話を聞いた気がする」

「ご両親かな?」

「きっとそうだ。あいつら、まだオレが起きてる時間から夜な夜な……」

「あいつらは止しなさい」

「はい」


 重労働のラウル磨きで心地よい疲労状態になった彼女は先に風呂から出て寝床に倒れこむ。しばらく後になって出てきたラウルはカナスタの水風呂を点検した。


「どうする?もう空にしたほうがいいかい?」

「お手数ですが、このままにしておいて下さい。念のため、蹴とばさないように風呂場に持って行ってくださいますか?」

「蹴とばす?」

「念のためです」


 ラウルは言われたとおりにカナスタの入った水桶を移動させる。


「よくわからないけど、無理はいけないよ」

「このようなことは過去にないことでした……言い訳になってませんね。只今より回復に集中します」

「それがいいね」


 カナスタは明日もラウルの肩に乗って出かける予定だ。歩くのはラウルだが、精神を集中して同族の気配を探る役目を果たさねばならない。リンはと見れば、夜具を被ってうとうとしかけていた。


「早くもお休みかい?」

「うーん、ちょっと眠いかも。飲み物がいるならもらってくるけど?」

「いや、用事ってほどじゃないんだ。ファラーシャの風呂はどうしてるのか、聞いておこうと思って」


 リンはサーラーンの浴場をファラーシャと楽しんだ経験がある。足に問題を抱える彼女は装具を外した状態での移動が非常に厳しい。そのため、故郷の大浴場では家族か女性の召使による介助が必須だった。装具をつけたまま入浴はできないので、移動の際だけ他人の助けが必要になるということだ。


「ハンナさんの手は借りていなかったと思うから、洗い場で装具を付けたり外したりしているのね」

「いい加減足を延ばして風呂に入りたい頃じゃないのか?」

「そう思う。足を温めると具合が良いって言ってたし。エストに帰り着いた時が楽しみね。ファラーシャのことだから、ラウルを驚かせようとして立派なお風呂をこしらえてるわよ」

「そうだ、宿屋の営業についてブラウン男爵に話を通しておかなきゃな」

「子爵様でしょ。もうブラウン姓じゃないかもね」

「そうだった。失礼のないように、紋章と正確な家名を調べておこう」

「明日の朝一番で紋章官様にお会いできるか、まずはそこからね」


 段取りよく明朝の予定を詰めたラウル主従は上機嫌のまま眠りにつく。竜王や祖父のフリッツからは騒乱の予兆を警告されていたのに、あえて目をそむけてしまった。そのことに気づいたのは、ハーゲン=ユーベルヴェーク紋章官との面会が終わった後だ。諸々の情報収集を終え、いつもの伝で国王陛下との非公式謁見を仕立ててもらおうと丁重に頼むも不首尾に終わった時のことである。


「修行と冒険の成果報告ぢゃな?謁見の日取りは追って報せる。自領に戻って沙汰を待て」

「ははあッ」(おっと、状況が変わったらしいな)

「何も言わんのぢゃな?」

「今までが陛下に対して気楽すぎましたからね。このほうが正しいのだと思います」

「うむ。その心持ちが肝要ぢゃ。其方が分別ある者で助かる。見事な上奏文をそらんじたのは伊達ではないな」


 ラウルの脳内でオトヒメが自慢げな咳ばらいをした気がし、思わず彼は照れくさい表情を見せたが、紋章官はそれを謙遜と取った。そして、贔屓している忠義の騎士が身分をわきまえて王室への敬意を示しているのだから、もう少し事情を明かすべきだと決める。


「実はな、同じ手が使えなくなった貴族連中から苦情が殺到しておってのう」

「それほどまでに陛下はお忙しいのですか?それとも御病気ですか?」

「確かに、何やらふさぎ込んであらせられる。ジーゲル卿との謁見はよい気晴らしになると思うのぢゃが、其方だけ特別扱いするわけにもいかぬ。許せよ」


 ラウルは礼を言って紋章官の居室から退出し、リンを伴って騎士団本部に顔を出す。ただ外国旅行を楽しんでいるのではありませんよ、とばかりに報告書を提出しておけばよかったのだが、ここでも事情が違った。騎士団長のベルント=レーヴェ伯爵は報告書を受領しながらもう片方の手で手招きをする。耳を貸せ、という合図に気付いたラウルが顔を寄せると、珍しいことに低く小さな声で語りかけた。


「抜き打ちの監査があった」

「ここにですか?」

「それぞれの騎士領にだ」

「そのうちウチにも?」

「うむ。貴公はおさおさ怠りないとは思うが、所領に見合った軍役を果たせるか否か、という問題は騎士が騎士たる所以だ。お茶を濁して贅沢をさせるために領地を与えているのでないからな」


 巡察吏は予告なしに現れるゆえ念入りに備えることだ、と騎士団長は言う。エスト南領は発足して間もないから目こぼしがあるとは思うが当てにしてはいけない、とも付け加えた。親切かつ筋の通った警告である。

 思うに、クルトのおかげでエスト南の武器庫はかなり充実しているはずだが、まとまった数の戦力を提供できるかと問われれば答えは否だ。なにしろそれだけの人がいない。防衛力はエスト衛兵隊の存在が前提になっている。ラウルは早々に軍隊が湧きだす魔法の壺をこしらえる必要に迫られた。


いつもご愛読ありがとうございます。

あれだけ嫌がっていた仲良し夫婦への階段を確実に登っているラウル君です。一気に動き出した感のある周辺状況の変化を乗り越えて、彼らは幸せになれるでしょうか。

徃馬翻次郎でした。


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