第342話 脅威の評価 ①
ようやくルニングラードに数十年ぶりの春らしい春が到来した。龍脈の流れは旧態に復し、ただでさえ寒いグリノス地方がさらに寒冷化する最悪の事態はラウル=ジーゲルの冒険によって回避されたのである。
しかしながら、仮に怪異に因る異常気象を抜きにしても、グリノスの春が至極快適であるとはお世辞にも言えない。まずもって、アルメキアのような温暖な気候に恵まれている地域とは到底比較になるまい。例えば、春の訪れを報せる雪解け水が大部分の地域で道路事情を劣悪そのものにしてしまう。一部地域では泥濘と言い換えてもいい惨状である。ラウル=ジーゲルがグリノス入国したてのころ、ぬかるみに車輪を取られた馬車の復旧を手伝ったことがあったが、あの再現を帝国全土で実施するわけだ。それに、暦の上では春とは言っても、それはグリノスの厳しい冬が終わったと言うだけであり、実際、寒さに弱いリン=クラーフは衣替えに困る有様だった。
ところが、ラウルとリンはアルメキアに飛んで帰るどころか、以前にもまして精力的に視察を行なっている。
余談だが、後世の歴史学者はラウルが帰郷を急がなかった点に全くと言っていいほど食指を動かさなかった。例によって、ジーゲル卿は視察と称して帝都の歓楽街を熱心に見学したか、あるいはグリノス特有の道路事情で旅程の消化が芳しくなかったのであろう、とラウルにとっては不名誉極まりない大雑把な検証しか行なわなかったのである。さらに、冒険の相棒であるリン=クラーフが残した一連の絵画作品である手紙や日記の挿絵が非常に少ないことから、グリノスにおけるラウルの冒険はごく限られた範囲だった説までが唱えられるに至ったのだが、これは少々手厳しい。果して吹雪渦巻く世界が白黒の絵的に映えるものか、という考察が一切なされていないからである。事実、帝国図書館の様子やフレッチャー牧場の暮らしがいきいきと描かれていた小品が残っていることから考えて、グリノスにおける旅の後半では魅力的な写生の対象と気持ちの余裕が生まれていた、と考えるべきなのだ。
話がそれたが、粘着気味と評していいラウルの視察旅行は使命の旅を放棄したのかとリンが勘違いするほどの濃密さである。彼は手始めとして棚上げにしてきた面会の類から取り掛かることにし、目下のところは帝都の宿屋でリンに手紙の返事を代筆させはじめたところだった。
「こいつはどうも、ルオート山から生きて帰って来られるかわからない、と割りきったのが裏目に出たな」
ラウルは激戦地に向かう前夜につけで痛飲した兵士が生還した時のような苦笑いをする。一方のリンは課題をため込んだ学生を詰める指導教授の様相だ。
「まったく、次からはもう少し計画を立ててよね!」
グリノス上流階級の社交界においてにわかに注目されることになったアルメキアの騎士には招待状の類がいくつか届いている。竜族関連の事情を知らない者から見れば、外国人のラウルがなぜかグリノス皇帝に贔屓をされており、旧来の友人の度合いを超える親しさであった。これはラウルが所持する数種の許可証によって裏書きされている。物珍しさとも相まって、お近づきにならないまでも面識を得ておきたいと目論む者は少なからずいたのだ。
「は、気をつけます」
「素直でよろしい」
「それで、どんなのが来てるんだい?」
リンは招待状を受け取った順に並べて見せる。ラウルの側からリンが離れないためか、あからさまな秋波を寄せる女性からの付文は見当たらない。ただ、アルメキア貴族に比して万事が控えめなために彼女の負担はすくないものの、観劇や詩の朗読会など、ラウルが拒否反応を示しそうな催事の招待には何とかして礼儀に適った断りの文句をひねり出さねばならない、とリンは悩んでいる。
「ラウルが決めてくれたらいいけど、あまり肩がこりそうな場所は嫌だよね。あと、途中で眠くなりそうなやつも……」
「いや、ここは都合をつけて片端から受けよう」
予想外の方針決定にリンは目を丸くして驚く。主人の決定に否やはないが、好き嫌いを押し殺してまで受ける招待ではあるまい。
「断りの返事は私に任せて、興味のあるやつに限定したほうがよくないかな?」
「お気遣いどうも。けど、ちょっと思うところがあってね。人との縁はどこで繋がるかわからないしな。アルメキア人にも面白そうなやつがいる、って感じで顔を売るのも悪くないだろ?」
「そう言うことなら」
「夫婦同伴で出かけようぜ」
「う、うん」
リンはラウルの身を案じているのであり、彼が招待の選り好みをしない、と言うなら立派な紳士の振舞である。彼女が日程調整さえしくじらなければ、ジーゲル卿の人柄はグリノス社交界で広く知られることになろう。
「その前に、ムロックのお役人さんからだな」
件の人物はルオート山に出かける前からラウルに接触を図っていた。面会を求める手紙は実に丁寧な文体で書かれており、木っ端貴族のラウルが相手でも十分な敬意が込められていたので印象に残っていたのだ。
「ジル=アルベール」
リンはムロック連合のグリノス外交責任者の名前を淀みなく答える。グリノス皇子の誕生会で彼女と踊る相手になった人物でもあった。
「ここの酒場で良ければいつでも、って返事を出してくれるかい?」
ラウルたちが帝都の定宿にしている『極光』は快適で清潔だが、他国の外交使節と密談できる空間が客室以外にない。したがって、あえて酒場と指定したところにラウルの思惑があるらしい、とリンは考えた。
「了解。相手がこしらえた環境に呑まれない、ってことね?」
「そう。内緒話はいらん。過剰な接待は願い下げだ。のこのこ出かけて行って、リンが入って来れない場所だったら困る」
よそ行きに着替えるのが面倒くさい、というような答えが返ってくるかと思いきや、ラウルは交渉の前提や下準備について話す。この成り行きにはラウルとの付き合いが長いリンも不思議な思いがした。どうも今朝がたから、ラウルと話していると時折調子が狂うのだ。その違和感の出所を聞けば、
「オレなりに反省をした」
からではないか、と彼は言う。つい今しがたも、思うところがあって、との理由で世間への露出に関する方針を変更したばかりだ。
「ラウルは何か怒られるようなことをしたの?」
「それがわからないんだよ」
「え?」
「あ、そうだ、リンは怒ってないよな?ほら、この間の冒険でさ、格好つけて生き埋めになっちゃったろ」
「あれは仕方ないよ。咄嗟の判断だったし、気絶していた私が文句を言える立場じゃないもの」
からりとした性格のリンは過去を蒸し返す代わりにラウルを促し、未確認の案件について反省している、という意味不明の文言について説明させた。
「実は、氷の下で助けを待ってる時に竜王様と話し込む機会があってさ、その、昔語りついでに指導を受けたんだ」
「指導?」
「あの御方が仰るにはだよ、オレは既にいろいろと間違えてしまっているみたいで、それがよくわからないところなんだけど、いや、もうそのことはいいか。とにかく、脅威の評価を大きく失敗すると取り返しがつかないぞ、とお叱りを受けたのさ」
先日、ラウルは竜王の世界で数日を過ごしたが、ポレダの港町で発生した怪異に巻き込まれてから今日に至るまで、ラウルが冒険の日々で下した判断のみならず、領地の運営や一家の主として家族を守るための術策について、それらの根本となるラウルの状況把握と分析能力とを竜王は採点している。そこで問題とされる脅威とは潜在的なもの顕在しているもの含めてジーゲル家にとて害悪となりうるものを指し、卿の見積もりは総じて甘いのではないか、とはラウルの脅威評価を採点した竜王の言葉だ。
「甘いかな?」
「合格とは言わなかったから、落第なんじゃない?」
「アルベール氏からは悪意のようなものが感じられなかったけど、慎重になっているのはそういうことだったのね」
「自分でも警戒しすぎだとは思うよ。ただ、脅威の評価が適切でなかったせいで住むところが二回も無くなった、と竜王様は言われたんだ。これを話すと長いんだけど、もちろん、アルベールさんだっけ?彼の人物評価はリンを信じるけれども、それはそれとして対応はまた別ということさ」
「ラウルの言わんとするところは何となく分かったよ。それで、さっきの話だけど、ご招待を全部受けるのはどうなのかな?適度に出世して世渡りをする目論見からは少し外れるんじゃない?」
リンの言う目論見とはラウル英雄化計画のことである。貴族の身分は使命の旅を円滑に遂行するための道具なのであって、それに不随する社交界における知名度はさして重要ではないどころか、度が過ぎれば邪魔になったはずだ。
「接触しない限りは敵味方の判別すら付かない。ここはひとつ、アルメキアに戻った時の練習だと思ってくれ。また王宮に顔を出さなきゃならないからね」
「具体的には何を?」
「リンはオレの周囲で起こる人の言動を観察するんだ」
「ラウルは?」
「せいぜい愛想よく振舞って、笑わせてやるとするさ。オレが注意を引いている間にリンが接触中の人物を評価してくれ。頼めるか?」
やっとのことでリンはラウルのやりように得心がいった。とは言え、これでは彼は道化である。
「やってみるけど、ラウルはそれでいいの?」
「幸い、ぽっと出の貴族だから体面も地位も吹けば飛ぶようなものだしね。さてさて、この芝居が専門家に通用するかどうか、アルベールさんに感想を聞いてみるのもいいな」
ラウルは寝床に腰かけて靴を脱ぎ、もぞもぞと尻で後進してからあぐらをかいた。目を閉じて今後の旅程を思うに、いずれはムロック連合の地まで足を延ばすことが決まっている以上、彼の地の要人と渡りをつけておくことは必須ですらある。かつて、彼の両親はアイアン・ブリッジ時代の新婚旅行でムロックのごく一部を見て回ったが、あまり素敵な観光先ではなかったようだ。破局の原因になっていてもおかしくない旅行先選定の失敗だったのだが、クルトとハンナの恋愛熱の前には瞬時に蒸発する差し水だっただけである。ムロックの荒廃振りは両親が目の当たりにした事実だ。そのムロックがグリノスと親密な関係を構築できるだけの大国に復活を遂げているのだとしたら、これも大きな意味で脅威の評価を間違えている。少なくとも、没落した敵性国家というアルメキアにおける一般的な認識のうち、没落の部分だけは改めるべきだろう。
「なに、難しい顔しちゃって」
「本当、分からないことばっかりで難しい顔にもなるよ。こうなったら、リンに癒してもらうしかないだろ」
リンが寝床の縁に腰を下ろしたので、ラウルは布団を叩いて彼女の座るべき位置を指示する。そのまま彼女の腰をかき寄せるようにして膝枕を所望した。
「これで治るの?」
「治る!」
ラウルは勢いよく断言したが、その実は思考をスケベに集中するだけの治療術である。
「仕方ないなあ……そうだ、返事が簡単そうなのから先に手紙出しちゃおうか?」
「お、おう」
けっこうな早さで膝枕を外されたラウルは、優先順位を間違えている、とリンの仕事熱心さに口の中で注文を付けたが、この自分勝手な認識は間違いであったことが直ぐに判明する。なんと、その日の夕方には当のジル=アルベールから返信がきた。
いつもご愛読ありがとうございます。
主人公とヒロインには何時でもいちゃついていただいて結構なのですが、彼らは戦闘以外でも多忙な毎日を送っており、何かと邪魔が入りやすい状況となっております。
徃馬翻次郎でした。




