第191話 揺れる水面の下で ②
体力増強目的の鍛錬において、身体が耐えられる限界点を探りながら強度を上げることは珍しくとも何ともない。ただし、怪我をして途中離脱することになれば元の木阿弥になるから、傭兵旅団において指導教官を担当するのは古参の熟練者に限られている。むろん彼らの眼力や経験を信用してのことだ。
また、彼らは訓練生の指導方針を決める会議を頻繁に持つ。これも新人や護身術講座の客から怪我人や死人を出さないための配慮である。
しかし、ラウルの超回復をリンが限定的に共有したことまでは教官たちの理解にない。したがって、ラウル主従が訓練に参加してから数日後の指導方針会議において、教官たちは額をつき合わせて相談することになった。
どうも勝手が違う、何だお前もか、と教官たちは言葉を交わす。
数ある議題の中でもラウル主従に関する事項は熱量が違ったことが旅団の議事録に残っている。最終的には、ラウル=ジーゲルとかいう小僧はともかくとして、リン=クラーフ女史を護身術講座の客扱いするのは適切ではない、当初の目利きを誤った要因は皆目不明だが、等々の意見が飛び出した。
「フライホルツさんもびっくりしたんじゃない?」
アレクシア=フライホルツは傭兵旅団を束ねる女丈夫だが、最近目立つようになってきた旅団内部の対立、具体的には、いかなる国家の戦争にも寄与しない基本方針を変更すべし、との旗印を掲げる一派との調整に燃え尽き気味であった。
「ええ。お忙しいのに、いろいろとお骨折りいただいて恐縮でした」
これはフライホルツが、クルトとハンナの息子とその連れ合いだから何が起きても不思議ではない、と言って不審がる教官連中を説得してくれたことを指している。その甲斐あって、ラウル主従の訓練内容は旅団の新規採用者と同じ訓練課程に変更されることになった。
「うん、まあ、こうして目の前にいるリンちゃんを見ると、適正限界ってことになるのかねえ」
「そう思います」
怪我をしない程度にぎりぎりまでしごき抜き、これ以上ないと言うぐらい鍛え上げられた状態を指してエルザは適正な限界と表現した。
戦乙女リン自身がそう言うのだから間違いない。
「ってことは、訓練所の卒業試験と同じように豚をしめるところまでやったの?」
「あ、はい。猪に変更されましたけど」
「猪!?」
フライホルツ傭兵旅団長の肝いりで王都郊外の害獣駆除を兼ねた巻き狩りが開催され、訓練の総仕上げとして、ラウルとリンは家畜を殺すのではなく野獣と対峙することになったのだ。二人とも勢子を使うような狩りは初めてだったのだが、首尾よく猪を一頭ずつ仕留めた、とリンはこともなげに答える。
「道具は?」
興奮気味のエルザは当時のリンが使用した装備について尋ねる。あまりにもすさまじい話に、つい先日まで民間人だった女の子に何をさせるのだ、と文句を言うのも忘れていた。
「投げ槍です。一本目は上手く刺さったんですけど猪の勢いが止まらなくて、二本目を投げる余裕がありませんでした」
「うまくささった……」(リンちゃんの口から出た言葉とは思えない)
まず、投げ槍は石ころをぶつけるのとはわけが違う。
投げ槍には格別長大な穂先が付いているわけでもなければ、矢のように軌道を安定させる装置が付いているわけでもない。突進してくる対象に第一投を命中させただけでも肝の据わった凄腕と言えた。
それだけではない。
鹿や猪のように高速で移動する野獣には投げ槍よりは弓矢のほうが適している。これは投射する飛翔体の速度が段違いだからだ。半端な腕では回避されてしまうことになる。
さらに、第二投はできなかった旨を告白してはいるが、それは近接戦闘で猪を仕留めたことの裏返しである。勢子に追われて藪から追い出された猪は猛り狂っていただろうから、傭兵たちの包囲を突破すべく、目前のリンに向かって必死の攻撃を試みたに違いないのだ。
「昔の私なら、文字通り飛んで逃げたと思います。えっと、あの場合なら樹の上へ避けて身をかわしてたかな?でも、迷宮や洞窟の中でどこへ逃げる、狭い屋内で翼が役に立つのか、と教官に言われ続けてましたから……」
「あえて翼を使わなかったんだ」
エルザの断定にリンが同意する。
確かに、冒険者や傭兵は後退が難しい状況で戦闘を強いられることは珍しくないし、それを嫌がっていては仕事にならない。
だからと言って、不退転の決意をもって戦う局面を想定して訓練する女性、わけても、つい先日まで商会職員だった良家の子女の変わりように、エルザは驚き以上の気持ちを隠し切れない。ラウルの冒険についていくため、というのは先般聞いて承知しているが、本当にそれだけなのだろうか。
「あれ?エルザさんも同じ気持ちだと思いましたけど?」
「同じ?」
「ラウルを守るんです」
エルザは頭を雷に打たれたようにしびれた。言葉に込められた決意と愛情に打たれた、と言い換えてもよい。
現状、エルザはラウルと恋仲ではないし、今後もその予定がないにしても、この時ばかりはなぜか強烈におか焼きがした。先を越された、と言うべきかもしれない。
どちらにしても、守る、という表現が妥当かどうかは別として、ラウルを想う気持ちを言葉だけでなく有言実行して見せたリンがまぶしく見えたのは間違いない。
思わずエルザはリンをからかってやりたくなった。
そうでもしないと自分でも意味不明な嫉妬とも羨望ともとれる気持ちの整理がつかなかったからだ。加えて言うなら、鋼鉄の心身を持つ健気な乙女をいじって、可愛らしい反応を見たい気分があったことは否めない。
「そう言えばさ、さっきラウル君が膝枕とかなんとか……」(聞いてやれ)
「わ、わ、何です?聞き逃してくれたと思ったのに!」
「そうはいかないね。どんな具合にやってるのか、様子をお姉さんに教えてちょうだい」
「うう、内緒ですよ」
「うんうん。ないしょ、ないしょ」
周りを見回して池の水面が静かに波立っているのを確認してから、リンは小声で白状し始めた。
「ちょっと、変なんです」
「ほほう」
「ふつう、膝枕って相手の人は仰向けか横向きじゃないですか?」
「そうだね」
リンは比較対象となる経験がないので一般論を語るにも自信がない。一方のエルザは膝枕を男性にしてさしあげた経験自体がないのだが、話の腰を折らないために柔らかい同意をして話の続きを促した。
「ラウル、うつ伏せなんです」
「うん?」
「その、顔を、こう、うずめるみたいにして……」
「それって、リンちゃんの股間とラウル君の鼻が」(近い)
「はわッ!い、言わなきゃよかった……」
リンが赤面して慌てる様を見てエルザは笑いをこらえきれず、ついには大爆笑する。ラウルの行動は少々一般的とは言い難いが、初々しい若夫婦に乾杯したい気分だった。
「あはは、仲の宜しいことで。これは、うん、お姉さんは約束を守るよ。うんうん。二人だけの秘密にしよう」
「やっぱり変ですよね?すぐに寝ちゃうから別にいいかな、とも思ったんですけどやっぱりスケベですよね?」
「い、いや、いいんじゃない?個性があってさ、ラウル君らしいよ」
「もう!エルザさん、目が笑ってますよ!」
照れ隠しを兼ねてリンが偵察飛行に出かけたのをきっかけに女子会はお開きとなる。
火の番に残ることになったエルザは焚火を見つめながら、若い二人の幸せにつながるのなら世界中を駆けずり回ることになったとしてもいいじゃないか、と改めて思うのだった。
一方、水面下のラウルは溺れることこそないが、慎重な歩みを強いられていることにいら立ちを隠せない。低温下の環境に身体がこわばっているせいだけではない。底面に堆積した沈殿物を巻き上げて視界が悪化することを避けながら、遺構の調査を実施しているのだ。オトヒメの支援がなかったら、暗闇と冷水に囲まれての調査はずいぶんと心細いものになっていただろう。
(なにやら水面上がにぎやかなご様子)
(二人してオレの悪口かな?)
(おや、主様には心当たりが?)
(ないけどさ、女の人が集まって盛り上がる話題って……)
(なるほど、配偶者や番に対する不満が多い……ご卓見です)
(いや、グスマンさんの受け売りだよ。ええと、女の人たちが盛り上がってるときは脇に避けてじっとしておけ、だったっけ)
(義理のお父様ですね)
(気が早いよ……)
とうとうオトヒメまでがリンの嫁入りを既成事実として扱うようになったことに辟易しながらラウルは歩を進める。
(オトヒメさん、なんでだろう、外の光が差し込んでいるはずなのに、この先は本当に見えないよ)
(残留魔素の影響かも知れません。竜眼を調節しますので少々お待ちください)
魔素が多量に含まれた土壌や水分に触れたところで魔族なら何の問題もないが、人や亜人には様々な悪影響をもたらす。摂取された魔素を体内で魔石に濃縮して魔力の源にすらできる魔族と違って、人や亜人は中毒や様々な疾病の原因になるのだ。したがって、魔石加工の際には粉塵を吸い込んで蓄積しないようにする覆面や換気装置が重要になる。
また、高濃度の魔素は人や亜人の感覚器官に様々な影響を与えることが確認されており、今回ラウルが直面している視界不良の問題はまさにその影響が懸念されている、ということだ。この問題は深刻で、常人なら目まいや吐き気で立ち上がれなくなり、最悪の場合死に至る。魔族以外は高濃度魔素地帯での生活が不可能になる理由だ。
つまり、ラウルとオトヒメの魔族要素が混ぜ物になった竜戦士形態ではじめて可能になった潜水調査なのであり、一時的な視界不良程度ですんでいるのは幸運だったのだ。
(お、お、視界が赤くなった!)
(魔眼と違って透視能力は竜眼にありませんから、微弱な魔力を定期的に放射することで地形をなぞっています。色の濃淡で凹凸を表現しましたが、いかがでしょう?)
(けっこう遠くまで見える……魔族の人っていつもこんな感じに見えてるの?)
(まさか、魔力を目に凝らした時だけです。普段は人や亜人とかわりませんよ)
やがてラウルは視界の端にいつぞやの秒読みが表示されているのに気付いた。
(ち、ちょっと、オトヒメさん、残り時間!)
(主様、落ち着いてください。あといくらも時間はかからないはずですから)
(う、うん)
(使い慣れない機能、それも本来備わっていない透視能力を一個しかない竜核の魔力でごり押しして再現すれば当然の結果……)
(わ、わかったって!)
説教は後で、とばかりにラウルはオトヒメの口を封じる。
調査がもたつくことになったら、待っているのは魔力切れを原因とする変身解除であり、暗い水底で高濃度の魔素に全裸のままさらされることになるのは確実だ。言わば冷製ラウルの魔素漬けができあがることになる。
(ご安心下さい。全身大やけどすることにはなりましょうが、息のある間に浮上して竜核さえ無事なら再生できます。そして、今度こそ存分に捕食なさればよろしいのです)
水の中で火傷と言うのも興味をそそられる話だが、ことあるごとに食人を勧めるオトヒメにラウルはもう返事をしなかった。そう言えば、彼女は人類に恨みを抱いていて、いまだに許せていないのだった、と彼は思い出す。人類が何人死のうが彼女は毛ほどの痛痒も感じない。だからこそ、捕食などと言う言葉が平然と出てくるし、溺れてしまったらそれまで、などという薄情な言い方ができるのだ。
目下、ラウルの足を動かしているのは、溺死よりも共食いを避けたい一心であった。
いつもご愛読ありがとうございます。
魔素が圧縮されて魔石という過程で何らかのケーシングがなされるので人や亜人が直接触れても問題ない、という設定をずいぶん前に入れ忘れていたので、高濃度魔素は体によくない、という設定と重ねてここで後付けさせてもらいました。
徃馬翻次郎でした。