第189話 【こぼれ話】心の城【ドリス】
ドリスさんはウィリアムの奥さんでハリーの母親です。
ラウル一行がアルメキア北部へ旅立った後、エスト南領の留守居役を拝命したジーゲル夫妻は旧に倍する忙しさのおかげで目が回りそうだった。普段の生活を投げ出すわけにも鍛冶屋を休むわけにもいかず、その合間を縫ってラウルの家臣としての役割を果たすのだから、二人は留守居役を舐めていた、と素直に反省している。
しかし、この夫婦は忙しさを苦にしていない。
それどころか、心はアイアン・ブリッジ時代の同棲時代に戻って、何もかも手探りで手作りの生活を営んでいた頃を思い出している。
今しもクルトは鍛冶場から居間に引き上げて、ようやく今朝の煙草を一服つけようとしていたところだが、仕事の合間に暇を見つけては建材用の釘や金具を増産しており、移住希望者の要望に応えるべく準備をすすめている最中なのだ。
「やれやれ、こんなに釘を打ったことなんて記憶にねえな」
「でも楽しそうよ、あなた」
「ああ、まあな」
ハンナは持っていた手ぬぐいで夫の額や首筋に浮かぶ汗を拭きとった。
クルトがハンナの手を握れば、明るい時間でも気にせずに彼女は夫にしなだれかかる。二人のいちゃつきをとがめる者はここにはいない。ジーゲル家の居間には濃密な色気が充満しつつあった。
「ごめんください、ヘリオット製材です」
案内を請う女性の声がしなければジーゲル夫妻が醸し出す雰囲気がより濃密なものになったであろうことは疑いがない。
声の主は夫のウィリアムと共に林業と製材を営んでいるドリス=ヘリオットだった。ヘリオット製材は小規模な造作なら難なくやってのけるので、ラウルが荒れていた少年時代は修理業者として尽力していた過去がある。今ではエスト南領の御用業者第一号というわけだ。
彼女は国有林の伐採をした後に苗木を植える営林計画書をしたためて持参していた。国王の許可証があるからと言って、好き放題乱伐をしていたのでは数年を待たずしてエスト南東部の豊かな森林資源は枯渇してしまう。計画的な伐採と植林および保全事業の継続は林業に関わる者の義務であった。
「あら、ドリス。いらっしゃい、入って入って」
「お言葉に甘えまして、奥様。あら、休憩中のところをお邪魔します、ご主人」
ヘリオット夫妻はジーゲル夫妻がエストに引っ越して以来の友人なのだが、彼女はラウルのことを坊ちゃん、ハンナのことを奥様、クルトのことをご主人、と敬意を込めて呼ぶ。
別段へりくだっているわけではない。
ハンナの人品卑しからぬ挙措に心打たれ、自然と一歩下がる形の礼をとることになったのだ。実のところ、ラウルとクルトは家族ゆえにハンナに準じた扱いになっているだけである。最近になってようやくラウルを坊ちゃん呼ばわりすることを控えるようになったが、本人のいない場所では相変わらずなのは言うまでもない。
「素晴らしい計画だわ、ドリス。子や孫の代まで森を残さないとね」
「ええ、奥様。ウチの旦那も張り切ってます。坊ちゃんが今度は領主様になって村をつくろうだなんて、私は、私は……」
一生ついて行きます、と涙ながらに言ってドリスは盛大に鼻をかんだ。いら立つ感情を抑えきれずに物に当たって壊すばかりだったラウル少年を彼女は未だに忘れられないのだ。
クルトは、ごゆっくり、と言い置いて鍛冶場に戻る。ドリスに気圧されたせいもあるが、領地に関する頭脳労働をハンナに任せているためでもあった。クルト自身はもっぱら肉体労働を担当することになっている。
「こうなったらウチも技術水準を上げて砦でも城でも……」
「落ち着いて、ドリス。出来ることから一緒に頑張りましょう」
「もちろんです、奥様。ハリーの恩だって忘れてません。息子を助けるために坊ちゃんが何かに巻き込まれなさったことも存じてます、奥様」
「なッ……!」
鼻水をすすり上げたドリスの目が光る。突然の告白にハンナは絶句するが、すぐに冷静さを取り戻した。空とぼけるのは逆効果、それよりもドリスに全て喋らせた方が得策だと判断する。
「先だって私は、坊ちゃんが建設予定地の地固めをなさっているのを盗み見してしまったんです。坊ちゃんは大きな木槌を軽々と振り回して、それこそ太鼓でも叩くかのように休みなしで……」
「ええ……」(ラウルのバカ!)
「私が申し上げたいのは、ヘリオットは夫婦揃って何もかも承知でお仕え申し上げている、ということです。旦那を問い詰めはしましたけど、なにも喋りませんでした。ですが、私も人の親、奥様の様子を見ていれば坊ちゃんに異変があったことくらい察しがつきます」
いくらラウルが怪力の持ち主とは言え、人間離れした超常の業であることが明らかな振舞いだったのだ。これは正しくラウルの油断であろう。誰も見ている者がいないから、とばかりに強化された肉体の力を思う存分解き放ったに違いないのだ。
あるいは、ドリスが丸太を振回す女丈夫だからこそわかったことかもしれない。
もし、単に超常の力を得ただけだ、と言うなら夫であるウィリアムにラウルについて何を聞いても押し黙ったり、ジーゲル家の跡取りが昏睡から目覚めたのに祝い事のひとつもなかったりしたことの説明がつかない。
これは、彼女がハンナと同じく息子を愛する母親だからこそわかったことだ。
「領主様が帰ってきたら、もう少し慎重になるように言い聞かせるわ。本当にありがとう、ドリス」
「もったいないお言葉です、奥様」
言葉遣いこそ主従のようだが、二人は堅い友情で結ばれていた。
事実、ヘリオット製材はドリスの言葉通りに長らくジーゲル家を建築面で支え、金融や流通面から支えるクラーフ商会と併せてジーゲルの両輪と並び称されることになる。
「ええと、クラーフ商会から配管に使う陶製の建材や窓用硝子製品の提供がありました。製材小屋と資材置き場は完成間近ですので、注文さえ頂ければ見積もりにかかれます」
「ふむ、順調ね!」
「ですが奥様、一軒ずつ建てるならウチの建築部門で対応できますが、一度に建てられるだけ建てるとなると、建築業者を募集しなければなりません」
ドリスは大量生産による費用削減効果と人頭税の増収を見越して話しているのだが、ハンナは別の考えがあるらしく首を縦に振らなかった。
「その心配は無用よ、ドリス」
「奥様?」
「この件はゆっくりやるの。あせって安売りはしないで。初期移住者を信頼できる人間に絞るためにも、しっかりした造りの注文住宅のせいでエストを囲む石壁の外側にしては初期費用が割高、という評判を意図的に流す」
「奥様、それでは坊ちゃんの実入りが増えませんが?」
「今は収入より信頼よ、ドリス。いちどきに大量の移住は困るの。高いとわかってそれでも引っ越してきたい人は身内かよほどの事情がある人よね?数が少なければ事前に調べることができるもの」
実は、この件については既にミルイヒ=ヘーガーが取り掛かっている。
彼は尻を振りながら、ラウルちゃんの側に行けるならいくらでも出すわあ、と吹聴して回っていた。そのため、エスト南領は安定した生活より新しい環境を求めてちょっと変わった職人や芸術家が移り住むところなのだ、という空気が形成されつつある。値段に関する問い合わせが来ていない段階であるにもかかわらずだ。
「見て、ドリス。審査済みの移住希望者よ」
ハンナは戸棚の引き出しから二枚の紙片を取り出してドリスに示す。
「革と実用品の店ヘーガー、マリンの薬草園……どちらも店舗兼住宅ですね。奥様、ヘーガーって、あのヘーガーですか?」
「腕は確かよ」
「奥様……」
「言いたいことはわかるけど、もう身内なの。法律や常識の範囲内で気持ちの悪い要望に応えてあげて。判断に迷ったら私に聞いてちょうだい」
気持ちの悪い要望に沿った結果は、滑車の取り付けや妙てけれんな内装をする羽目になるだろう。ドリスとしては薬草園の主が常識人であることを祈るばかりだ。
「承知しました。ただ、店舗には金目の物も置くことになりますから、全くの無防備と言うのも心配です」
「防衛設備に関しては、そうね、軒数が数えるほどの間は不要。こう見通しのいい場所だと不審者の接近を察知するのは簡単よ。マリンちゃんは冒険者部隊に参加していたこともあるし、ヘーガーに捕まるのは……」
「男性なら死んだ方がましかもしれませんね、奥様」
「……ゴホン!ある程度村が大きくなった時点で隙間のない木柵。これで十分じゃないかしら?」
「石壁より心の城ですね、奥様」
「いいこと言うじゃない、ドリス。それこそラウルを守るのに必要なのよ」
打ち合わせを終えてドリスを送り出したハンナは主婦の顔に戻る。
他所はともかく、ここエスト南領ではハンナ=ジーゲル、ドリス=ヘリオット、そして、この場にはいないリン=クラーフのような女性たちが家事をこなしながらエスト南領の経営を回しつつあった。後々の隆盛を考えれば、出しゃばらずに妻や娘のすることを見守っていたクルトやウィリアム、グスマン=クラーフら男性陣の姿勢は英断だったのだろう。
彼女たちは歴史の表舞台に出ることこそ少なかったが、その功績とも言えるエスト南領繁栄の礎は着実にその強度を増していたのだ。
いつもご愛読ありがとうございます。
「人は城……」の例えがそのままタイトルに使えそうなお話でした。世界観に中世欧州を採用しているにもかかわらず要塞に対する信頼が低いのは大量破壊魔法の存在があるから、とお思い下さい。星を落としたりするような奴がいる世界なので。石壁で防げるのは野獣や野盗の類まで、という体でお願いします。
徃馬翻次郎でした。