第179話 うごめく毒蛇の巣 ①
このお話は第一章の謎解き要素が多分に含まれておりますので、前もって第一章を読んでいただければ幸いです。
王都の地下には下水道として使用されている旧市街地が存在する。このことを記憶している王都民は数少なく、城壁内にある地下への入口がほぼ全て封鎖されるに及んで、もはや王都の地下街は都市伝説になりつつある。
かつて、魔族侵攻が頂点に達した時期のアルメキアにおいて人や亜人が呼吸できる場所は現在の王都周辺のみであったことは先に述べたが、アルメキア人の生き残りが難を逃れて集結した一地方都市は急激な人口流入によって住環境が著しく悪化することになった。生活排水や糞尿の処理が追いつかず、水源が汚染される恐れまでがあったのだ。地下深く掘られた井戸は汚染から持ちこたえていたが、それとていつまで続くかわかったものではない。
時を同じくして、避難民に割り当てられた仮住まいも飽和状態を超えて街路に仮設住宅を並べる始末、元々から住んでいた人々は凄まじい速度で悪化する居住環境に色を失った。彼らは塀の内で魔族の包囲攻撃におびえながら、汚水だまりから逃れるように高台を求めるものの、非常時に都合のいい物件が適正価格で入手できるはずもない。
窮した住民は一計を案じて実力行使に出た。
屋上屋を架す、とは無益なふるまいを重ねることの例えだが、その文字通りに屋根を改造して居住部分を建て増ししたのだ。
当初、近隣の住民からは、貴重な建材の浪費ではないか、と批難の声が上がったが、出来上がった建て増し部分の効果は絶大だった。
建物の強度は怪しいかぎりだが、日当たりと水はけがいいのはもちろん、汚水だまりの悪臭から顔を離すことができるとあって、生活の質が比べ物にならない。無益なふるまいどころか、この工法を目にした住民が先を争って真似をする結果になった。なかには階下にあたる部分を限界まで取り壊して建材に再利用する者も出現、にわか高層建築を実施した隣同士で橋板を渡して通行を確保する発想は、建物の強度を互いに補うことができる恒久的な連結へと進化する。さらに、隣家までの距離がある場所は空中の所有権が売りに出される、という徹底ぶりによって住宅不足は解決した。一方で、陽が射さなくなった旧市街は暗渠のように蓋をされ、一部の点検口を除いて悪臭が漏れ出さないように封鎖されることになる。
この無茶苦茶な再開発は魔族との和平が実現した後も続けられ、現在の王都を構成する基礎になったわけだが、ラウルが王都を初めて目にした時の“下手くそな積み木のような街並み”という感想は、統一感や美的感覚を考慮する余裕が無かった当時の開発計画が今なお根強く尾を引いている、という根拠のあるものだったということになる。
足元に流れる下水は王都南側のどぶ川へと繋がり、最終的には海へと流れ込むわけだが、崩落事故や大規模な停滞でも発生しない限り、垂れ流した汚水の経路を気にする王都民は少数派であろう。
ただし、下水道の点検や修繕を担当する役人だけは違う。彼の任務は職人や役夫を率いておっかなびっくり地下探検をすることだけではない。有事の際には高貴な方々を旧市街を経由して城壁の外へ逃がすための誘導係たる秘密任務が付与されているのだ。必然、下水道地図は持ち出し不可の機密書類であり、点検や修繕の場合を除いて鍵付きの金庫に収納されている。長年の勤務で彼の頭の中にも地図が出来上がりつつあるが、それでも把握しきれない通路や空間はまだまだ多く、非合法組織の隠れ家に使用されている、という噂は噂でも何でもなかった。
それだけではない。
役所が管理している下水道地図にはいくつかの行き止まりに印がつけられている。旧市街地は上層部の下水道と何か所かで連絡しており、照明と鼻覆いさえあれば徒歩で行き来が可能になっているのだ。とはいえ、大聖堂の地下納骨堂や聖騎士団本部の地下牢は命令がない限り、近づきたくない場所には違いないし、王宮の真下は非常口として確認しておかねばならない地点だが、その場所には古代遺跡があったはず、という古老の証言があるからできることなら遠慮したい。どれも死体や骸骨があふれていそうな場所なのだ。
また、クラーフの大金庫のように下水道と接続していない地下室が存在するのだが、正確な位置と数は誰も把握していない。地下に何かある、あるいは何かの上に建てられているのは市街地だけではないのだ、と気付いた水道担当の役人は多いが、日々の役務に追われて好奇心を膨らますどころではなかったからだ。厄介この上ないことに、納税の義務を果たしているからには安全な水と衛生的な環境は当然の権利として享受できるもの、と思っている住人は実に多いのだ。
その地下室のうちのひとつで秘密の集会が行なわれていたとしても、水道担当の役人はおろか、他の誰も察知することは叶わない。
ましてや参加者は頭巾や覆面で顔を隠し、互いを通称やあだ名のようなもので呼び交わしている。正体の暴露を警戒した措置であることは明白であった。
数人が円卓を囲み、議長か主催者と目される人物が厳かに開会を宣言する。
「皆集まったようだな」
「ははァッ、宰相閣下にはご健勝のほどお慶び申し上げます」
追従が臭う挨拶に使用された“宰相”とは不穏な言葉である。
なぜなら、現在のアルメキア王国には宰相が存在しないからだ。仮に、一座を取り仕切る議長の意味だとしても、王妃殿下が摂政として政務を総覧しており、直属の大臣に下達することで万事事無きを得ている現状を考えれば、王族でなくとも聞き捨てならない文言である。
つまり“宰相”は、次の政権における指導者的立場を夢見る社会変革集団の頭目ないし幹部なのだろう。
「うむ。我々の悲願は着実に実現へと近づいておる。これもすべて皆の献身的な奉仕によるものだ。我らの主も喜んでおられる」
「それはそれは」
「有難きお言葉」
「だが、ここ何か月かは思わぬ失態が続いているようだな?」
称揚から叱責への急降下に誰もが口をつぐむ。
皆が黙りこくったのは叱責への恐縮だけが原因ではない。粛清の対象となって旧市街でネズミの餌にされるのは御免だし、下水道はすぐ足元を流れているのだ。
「そう固くなるな。不甲斐ないことに、私も神輿候補を逃がしてしまった。失態の罪と言うなら私とて同罪、我らが主にひれ伏して寛恕を願わねばならぬところよ」
一同はほっと息をつく。
議長役の男性が力関係をかさにきて滅多やたらと処分や粛清を口にする人物ではないことに安堵したのだ。
「神輿は汚辱にまみれ絶望をその身に湛えて居らねばならぬ。時間をたっぷりかけて染めあげるつもりが裏目に出たわ」
「猊下……いえ、宰相閣下、時として事態は思わぬ方向へ転がるもの。我らが主も必ずや事情をお汲み取り下さることでしょう」
「そのことを願うばかりだ、教授。貴殿の研究も難航しているようだな」
「全体を察知される恐れが無いように計画を細分化し、課題と称して学生たちに手伝わせているが管理がどうも面倒でして。それに、手落ちと言うなら、貴重な研究体の娘をクラウス校長に押さえられたことは痛恨の極みです。なに、研究は概ね完了しているし、もうろくジジイめが我々の計画に気付いた様子もありませんがね」
明らかにタイモールの神とは異なる邪神崇拝にくわえて謀反が臭う会話が飛び交うが、ここで謎の人物の正体が明らかになった。
“宰相”こと議長役を務めていた人物はフォイヒトヴァンガー大司教その人であり、彼の言うところの神輿とは、かつて大聖堂史上最高の癒してとうたわれたコリン=ブライトリングに他ならない。エルザ=プーマによる救出がなければ何らかの計画が早晩成就していたことになる。
ただし、大司教の男色は大勢の知るところだ。神輿にかこつけて趣味と実益をかねようとしたのではないか、と言いたいところを会議の出席者はこらえている。
一方、大司教と会話中の、魔法学院の最高責任者をもうろく呼ばわりする“教授”を学院関係者が見れば、オクタヴィアン=シュペルヴィエルではないか、と直ちにわかったことだろう。彼が喪失を嘆いている“研究体”は最近クラウス学院長が秘書として庇護下に置くことになったロッテ=コルネリウスである。
他の顔ぶれも貴族や資産家など王都では名を知られている人々が揃っていたが、本来、邪教や異端を取り締まるべき立場の聖騎士団長ゾーム=バプティストまで列席しているのはあり得ぬことだ。
やがて彼らは手のひらを上にして深々と頭を下げ、至高の存在に謝罪を捧げる身振りをしたが、同時に彼が口にした言葉は邪悪な響きを放つ呪文だった。タイモールの神に向けられた祈りでは絶対にない。
「イモォタァル」
一拍遅れて会話に加わっていなかった面々も同じ言葉を和したが、これで何らかの反省なり懺悔が実って許されることになったらしい。
いつもご愛読ありがとうございます。
悪党と言えば幹部会議。しくじってから「もう一度チャンスを!」と言った奴は最終回の二話手前ぐらいで爆散するフラグになるアレです。このお話はもう少し前に挟むはずだったのですが、翻次郎のつたない編集技術と記憶力のせいで最後になってしまいました。この機会に皆さんも一章を読み返してみてください!
徃馬翻次郎でした。