第175話 接吻は主従の誓い ④
季節は移ろい、アルメキアの秋も終わろうとしている。
その王都内にある王宮の中心部分、入念に整備された庭園の一角で、新しい主従かつ恋人たちの絆が芽生えつつあった。
恋人たちの片割れ、騎士ラウル=ジーゲルは形こそ人のようだが人外の化生であり、竜王に命じられた使命と引き換えに仮初の命を長らえている。
もうひとり、リン=クラーフは商会大手幹部の娘であり、ラウルの従騎士に己を売り込んでいる最中であった。
二人は幼時から互いを見知っており、憎からず思い合っている仲でもあったのだが、ラウルがエスト村誘拐事件の捜査に参加し、いったん落命したことで二人の関係は断絶したかに見えた。
ところが、リンはラウルを諦めてはいなかったのである。このことはラウル英雄化計画に参加している者が皆承知していることなのだが、もはや監視の為でも恋慕の情に引きずられた為でもない気持ちが彼女のなかに生まれていた。
確かに、竜王の力で復活なったラウルはこの世に有り得べからざる存在なのであろう。彼が見せたがらない竜戦士という変化の姿も怪物そのものなのであろう。
だが、それがどうした、という心境にリンは到達している。
使命の旅の行く末を彼の側で見届けて、しくじった時には骨の一本でも拾ってやる者がひとりぐらい存在してもいいのではないか。
そこに色恋や愛情が絡んだところで何の不都合があろうか。
これは理屈ではないし、そう思う彼女の心に嘘はない。
その心が接吻の際にラウルの心へと流入して、結果、彼の涙となってあふれ出した、と解釈するなら、大の男が涙を流していたとしても惰弱と決めつけることはできまい。
また、色恋事においては万事男性が主導せねばならぬ、という法もアルメキアにはないのだから、リンの行為を破廉恥と断ずることも不当である。ジーゲル家はクルト、ラウルと二代続いて女性に先導されてしまったわけだが、これは因縁と言うほかない。
むろん、接吻中の二人にそのような複雑な思考は存在しない。
二人が前に進むために必要な儀式を本能的に実施した、とでも言うべき長い接吻の後、ようやく口唇を離したリンは自分の取った大胆極まりない行動に今さらながら赤面し、ラウルの襟首から手を離してうつむいてしまった。
「し、失礼しました。ラウル様」
もうこれはラウルに、興奮するな、と言うほうが無理難題であろう。息のかかる距離にいる思い人は明らかに彼の言葉なり行動なり次の一手を待っている。
しかし、なおもリンと離れがたい誘惑に駆られて悶えている彼の脳裏に警告音が鳴り響いた。かつて精神世界で何度も聞いたラッパと豚の鳴き声がまざったようなあの音だ。
(主様、緊急)
(何?今、忙しいんだけど!)
(お邪魔の段は平に、平に。主様が只今摂取された標本を今一度……)
(な、なんだよッ、唐突に)
(標本不足の為しかとは申せませぬが、おそらく最高の相性であろうことは間違いなく、合体後は竜変化に変異をもたらす可能性すらございます)
(合体!?)
(ささ、今一度濃厚な口吸いをば)
オトヒメの言うところの標本とは口腔内の粘膜を指すと思われるが、形のいいリンのあごに手をやって再度の接吻をせがむ甲斐性がラウルにはなかった。
(ま、また今度ッ)
ラウルはオトヒメを強制終了させて意識の外へ追い出す。後で意気地なしだの滅入る苦情を多様な語彙で連呼されることは間違いないが、背に腹は代えられない。
繰り返すが、ここは宿屋の一室ではないのだ。
ラウルは足元に落ちていたおしぼりを拾うと、再度噴水にくぐらせてからリンに返却する。今度は彼女がおしぼりを必要としていたからだ。
「オレたち、いいのかな、そういう意味で」
有体に言って、この人に愛の告白をさせるのは骨だ、とリンは火照った首元の肌をぬぐいながら感じていた。
鈍感なのはさておき、肝心な局面でスケベ心が全く役に立たない。いつもの気色悪い視線やのぞき込もうとする努力はどこへやら、これではリンが獰猛な肉食獣で、草食動物のラウルを襲っているようにしか見えない。
そもそも、女になけなしの勇気を総動員させておきながら連れ合いになる許可を求めてくるとは何事か、とも思う。
「意味はラウル次第、何もかもこれからでしょ?」
「う、うん」
「愛想をつかすとしたら私を残して勝手に死んじゃったとき、使命の旅を途中で放っぽり出して貴族様に収まっちゃったとき、それまではずっと一緒よ」
いよいよもって、これではどちらが男かわからない。
流石商人の娘と言うべきか、関係解消の線引きもおさおさ怠りなかった。惰性で関係を続けたりはしない、と宣言するあたりの胆力は見事の一語に尽きる。
彼女の真剣な想いにラウルはどう答えるべきか。
美辞麗句は必要ない、と彼は判断した。
「見捨てられないように頑張るよ」
甚だ威厳に乏しい返答ではあるが、部下や領民にも主人を選ぶ権利はある。ご機嫌取りをする必要はないが、失望させないことが領主の義務であった。はたして、ラウルの回答はリンを満足させ、
「それでこそ仕え甲斐のある騎士様だね」
と満面の笑みを彼女から引き出すことに成功する。
二人は仲良く話し合い、いったん荷物をまとめて臥竜亭へ引き上げることに決めた。荷物で両手が塞がっていなければ手をつなぐ程度のことはしたかも知れないが、すでにリンが三歩下がった従者の位置で臣下の礼を示していた。
「帰ろうか」
「はい、ラウル様」
こうしてラウルの従騎士選任はリンの勢いあふれる行動によってほぼ確定したわけだが、実のところ、ラウルは従士と従騎士の違いがよくわかっていない。
アルメキアにおいては、騎士の財政状況が許せば制限なしに雇用できるのが従士であり、家臣団として兵力の中核を成すものだ。逆に、どれだけ金銭的余裕があったとしても、騎士の副官たる従騎士は後にも先にも一人しか任命できない。
つまり、主従関係においてラウルとリンは互いに唯一無二の存在になったのだ。
これをリンの作戦勝ちと評するかどうかについては意見が分かれるところだが、以後のラウルの冒険は彼女の献身的な支援なしでは到底なしえなかったであろう、という点は使命の旅に関わった全員が証言するところではあった。
蛇足だが、後世の歴史家による、例えば『アルメキア王国におけるエスト南領いわゆるジーゲルラントの確立』のような研究においては、創立者であるラウルの業績を羅列する際に、非公式の謁見のあたりからはじまる著述が大勢を占める。それまで無名の鍛冶見習いだった彼が突如として歴史の表舞台に現れたので、どうしてもそのような書き方にならざるを得ないのだ。
しかし、ラウルの人生におけるリンの役割を知る人なら、謁見の直後に発生した接吻の事実を知っていれば、その瞬間にこそ着目するだろう。
それは、ラウルとリンはいつから付き合い始めたのか、という問いに対する解のひとつでもあるのだが、彼がやけを起こして使命の旅を放り出すこともなく、最終的にはエスト南を隆盛に導くことになる壮大な物語における影の立役者として彼女が運命づけられた日、その瞬間であった。
いつもご愛読ありがとうございます。
ラウルとリンがチューをしました、というお話なのでした。美女と魔獣とでもいいましょうか、リンがえらく男前という雰囲気は上手くお伝えできたでしょうか。ことラウルに関しては彼女はずっとこの調子です。
負けるなラウル!一生尻に敷かれる予感しかしないぞ!
徃馬翻次郎でした。