第165話 一歩下がって二歩進むはずが百歩進んだ件 ①
書店より洗練され、クラウス魔法学院長の部屋より格段に整頓されている本棚の品ぞろえにラウルは圧倒された。執務机と椅子の背後に据えられた巨大な棚には紋章関連と思われる書籍が大量に並んでいる。
応接椅子に浅く腰かけながら紋章官の仕事部屋を観察していた彼は、重々しい装飾つきの調度品や使うのに気後れしそうな什器が少ないのに気が付く。これは紋章官の性格か、それとも職務上必要に迫られてのことなのかは判断がつきかねるが、巨大な本棚と併せて部屋の訪問者を荘重な空気で押し包んだ。
(厳しい人なのかもしれない)
エストのブラウン男爵から聞き込んだ紋章官の評判通りだな、ともラウルは思う。美々しく着飾るのが貴族の常なのだとしたら、紋章官は貴族の風習など薬にもしたくない精神の持ち主、あるいは仕事場には持ち込まない主義である可能性が高い。
お近づきのしるしに、と高官に面談を希望して大枚はたく出世希望者は多いだろうが、ラウルはハンナの勧めに従ってエスト名産である蜂蜜の小瓶を持参しただけだ。本当にこれで大丈夫なのか、と彼は貧弱極まりない手土産を危惧していたのだが、彼女はそのような心配を意に介することなく、謎のような口上を授けて王都へ送り出していた。
(うう、緊張してきた……)
彼は椅子から立ち上がって今一度身だしなみを確認する。
あつらえたばかりのよそ行き一張羅にはしわひとつなかったが、彼の精神状態はいささか波立っている。
リンの手配りと助言に従って、紋章官との面談を昨日中に詰めようとせず、今朝に予約し直したのだ。相手の身になって考え、“一歩下がって二歩進む”作戦はさすが商会幹部の娘だ、と彼は感じ入っていた。
しかし、頼りにしている彼女が同席せずに部屋の外で待機していたから、今日の口上は全てラウルが引き受ける必要がある。心が大荒れにならずに波立つ程度で収まっているのはオトヒメが陰ながら支援しているからにほかならない。今日は立ち聞きと口出しを許可しておいたので、早速注目を促す強調表示が竜眼に映った。
(主様、気になる書籍名がいくつかございます)
(うん?本棚か……勝手に触るのはダメだから、機会があったら頼んでみるよ)
(御意……主様、足音、後背)
従僕が開けた扉から入ってきたのは長い白髭をたくわえた老翁で、顔面に刻まれた深いしわのせいで表情はよく見えない。かなりの高齢なのかと思いきや、その動作は想像以上に素早く、あっと言う間に執務椅子におさまった。
(主様、ご挨拶)
「初めて御意を得ます、エストのラウル=ジーゲルと申します」
貴族然とした軟体動物を思わせるお辞儀ではなく、ラウルは胸に片手を置いて斜めに背を曲げる簡潔な所作をする。紋章官からは、ほう、という小声が漏れたが、これは田舎の鍛冶屋と聞いていた青年が見せた爽やかな武人の礼に意外の感を隠せなかったのだ。
「王国紋章官ハーゲン=ユーベルヴェークぢゃ。まずは新しい騎士の誕生と王国に万歳を言わせてくれ。新年にはちと早いが良いかな?栄あれ!」
「ありがとうございます」
「うむ。ブラウン男爵からの紹介でもあることぢゃし、なるだけ希望に沿うてやりたいが……その前に、聞いておきたいのはこれぢゃ」
ハーゲンは執務机の引き出しを探って小瓶を取り出した。もちろん、これはハンナがラウルに持たせた手土産の蜂蜜である。その旨をラウルが告げると紋章官は腕組みをして考え出した。
「ふむふむ、これには何か含むところがあるのぢゃな?」
「はい。きっと紋章官様が声をお嗄らしになるだろう、とのことです」
「確かに、蜂蜜は声嗄れや喉の痛みによく効く良薬ぢゃが、なぜワシが喉を傷めることになるのぢゃ?」
「出来の悪い弟子を指導するのはさぞお骨折りでございましょう、と申し上げるように言付かりました」
最後まで聞き終えたハーゲン紋章官は数瞬身体を震わせていたが、とうとうこらえきれずに笑い声をあげた。時ならぬ哄笑に控えていた従僕が思わず部屋の主を凝視したほどの高笑いだった。
「ふ、ふ、これは失敬。久々に出来の良い冗談を聞いた。かわった束脩ぢゃが、よかろう。喜んで騎士ラウル、こう呼んでもかまわんな、そなたの導師となろう」
束脩とは入門料や入学金に相当する言葉である。
ラウルには王宮や貴族社会に出入りする時の後ろ盾が一切ない。ブラウン男爵の支援もエストの外にいては及ばないので誰かしら王宮内での庇護者を見つける必要があった。
それに、たとえラウル英雄化計画が練りに練られていたとしても、礼儀作法や挨拶の段階で門前払いになっては意味がない。
ブラウン男爵から紹介された時点で、紋章官は計画の重要な部品であると同時に貴族社会におけるラウルの師匠になりうる、と目されていたのだ。
ハーゲンは上機嫌で従僕にラウルの接遇を命じた。先刻来、茶の一杯も出ないことに気づいていたのだが、貴族が平民を扱う際の一般的な対応だと思って彼は気にしなかった。ところが、紋章官が男爵の紹介に値する客たるかラウルを値踏みをしていたとなれば話は変わってくる。
やや遅れて面談に現れたことも含めて、ラウルの対応と人柄を品定めしていた、と考えれば相当に老獪な人物である。
どうやらオレは試しに合格したらしい、とラウルが安堵したのも束の間、ハーゲンは執務椅子から立ち上がりつつ問いかけを発した。
「そなたの父君は世に隠れもなき名工ぢゃが、母君はどのような方かな?王宮勤めの経験がおありなのかな?それとも名門のお生まれなのかのう、珍しいことぢゃが」
貴族受けする頓智を思いつく者は貴族であろう、という紋章官の推測は明快だが、名門貴族の娘が平民の鍛冶屋と所帯を持つのは異例のことだ。この点が彼にとっては不審であり、興味を引かれたのである。
応接椅子に向かい合って座った彼はラウルの顔をしげしげと見つめた。
「母はノルトラントの出です」
「ふむ。立ち入るようだが何か家紋の入った品をお持ちではなかったかな?手鏡の裏、装飾品の箱、銀食器」
この質問は想定済みである。
何しろ相手は王国紋章官であり、出自を根掘り葉掘り聞くよりも簡易で確実な身元調査をするだろう、という予想は図に当たった。
ハーゲンが並べた物品の名称は嫁入り道具として紋章が刻まれていることが一般的なものであり、ラウルが思い出すきっかけになれば、とのつもりで提供したのだが、その手の品はジーゲル家にはなかった。
一方、ラウルはハンナの胸当てに彫られていた紋章を覚えており、昨日オトヒメが取り込んだ紋章関連の書籍で確認済みである。うっすら目を閉じると脳裏にヘルナー家の紋章が浮かび上がったが、細部までハーゲンに伝えるのは避けた。紋章官に答えを出させた方が彼の性格に沿うのではないか、と考えてのことだ。
「兜と盾を支えて後ろ脚で立つ狼、反対側にも狼。“いと誉れ高き王国の牙”の文言」
「ノルトラント辺境伯ヘルナー家……ぢゃな」
紋章官は何ら資料を参照することなく家紋の特徴から持ち主を言い当てた。
「お見事です」
「仕事ぢゃからな。追従は無用ぢゃ」
ご機嫌取りはよせ、とラウルを叱ったものの、ハーゲンはいよいよ分からなくなる。身分の垣根を越えた縁組も謎だが、それなら何故この若者は母親と同席していないのか。名門貴族らしく居丈高に、息子をよしなに、と慇懃に告げればよいのだ。いや、そもそも押しも押されもせぬ名門の出なら伝統やしきたりに詳しいだけの老翁に師事をさせる必要すら無いはずであろう。
「大口を叩くようですが、いい歳をした男の挨拶回りや習い事に母親が顔や口を出すのがあまり美しい景色とも思えません、紋章官様」
「景色とな?」
紋章官はラウルの歳に似合わぬ洒脱な言い方にまたもや吹き出しそうになったが、発言の内容は重大である。母親の出自を出世の足掛かりにすることはない、宣言したのだ。
実際、貴公子の挨拶回りに母親が顔も口も出してくることは多い。幼児ならまだしも、そろそろ髭が生えようかという男子が母に連れられて参内する景色は確かに醜いものだが、貴族社会における親の氏素性は何にもまして尊いのだ。
すると、この若者には出世願望とは遠い魂胆があって会いに来たのでは、と察した紋章官は茶の給仕を終えた従僕に、呼び出すまで下がっておれ、と退室を命じる。
「人払いはしたぞ」
「感謝します。指導をいただく前にぜひお伺いしたいことがあったのです」
「ふむ。ワシに答えられることかな?」
「任命後の段取り、予定されている任地、新年の行事……」
紋章官は含み笑いでラウルに応えた。
「くっふっふ、なぜかのう、そなたは全部聞いたうえで片端からひっくり返すような気がするのぢゃが」
「まさに、ひっくり返す相談に参りました」
ハーゲン紋章官は自分の役割を理解しかけている。
エストから出てきた青年は一風変わった騎士を目指しており、その誕生に力を貸しつつ伝統やしきたりを傷つけない助言を期待されているのだ、と明確に意識した。
一方、部屋の外で待機中のリンはラウルがなかなか出てこないことに安堵している。
彼が出てこないこと自体が良い兆候なのだ。
なぜなら、会談が終わらないのは挨拶以上の話ができていると考えてよいからだ。実は、次に会う約束を取り付けることができるだけでも上首尾なのだが、ラウルが彼女の想像以上に話を進めていることまでは思案の外である。
しかし、現状の彼女は室内の様子をうかがい知れない。待つ以外にすることがないし、助けにも行けない。それこそ祈るような気持ちで彼が出てくるのを待ち続けた。
いつもご愛読ありがとうございます。
騎士=ほぼ平民の最下級貴族で世襲ありの領主という体でやってます。
徃馬翻次郎でした。