第152話 漆黒の猟犬 ②
鹿の解体を終え、水筒の水で手を洗うことで蘇る気持ちになったラウルは、誰も聞くものが居ない今ならウィリアムの過去に触れさせてもらえる予感がしている。
彼がかつては兵士だったからこそ聞きたいことがラウルにはあった。
この何週間か、兵士や傭兵は殺人の後ろめたさや精神的苦痛をどのようにして乗り越えているのか気になってはいたが、両親に聞くのははばかれたのだ。
「ウィリアムさん、さっきは自分のことポンコツだなんて……」
「あれかい?お恥ずかしいことに、間違いなくポンコツなのさ」
「何でも屋さんの師匠が失敗することなんてありますかね?」
「お褒めにあずかり光栄だが、何を隠そう、簡単な任務をしくじって爆発四散、報告に戻ることすらなかった無様な猟犬の最後は言い訳できないね」
「爆発?猟犬?」
「グリノスではそういうことになってるのさ……私、いや自分は……長い話だから野営地に戻って飲み物をこしらえてからにしようか」
獲物をかついで野営地に戻った二人は鹿肉の仕分けもそこそこに、焚火を囲んで湯を沸かし、向かい合って座り込んだ。だんだんと肌寒い季節になっているから、温かい飲み物が身体にしみわたる。
「この話は、そうだな、怖いもの知らずの若造がグリノス軍に採用された後、特殊部隊に引き抜かれたところから始まる、と思ってくれ」
「はぁ」(ウィリアムさんのことだよな)
ウィリアムは遠い目をして語りだす。
彼の心はノルトラントを越えてはるかグリノス帝国の地に飛んでいた。
◇
《 グリノス帝国 某日某所 》
自分が物心ついた時にはもう弓矢を握っていた、と思う。
もちろん子供用の可愛らしい弓だが、これは親父が帝国の狩猟官だった影響が大きい。狩猟官というのは国家の狩人として害獣を間引く任務を与えられた者のことだ。当時は鹿より狼を相手にする事が多かった。帝国臣民や旅人に危害を加えることがないように、毎日せっせと狼を狩るわけだ。
そんな家系だから、自分が帝国軍に入ると言い出した時も反対はされないものと思い込んでいたのだが、両親ともに泡を食って止めに入ったのには意外だった。
「何を考えている」
「射的の訓練で給金がもらえて、民を守る仕事という意味なら親父と一緒じゃないか?おまけに腹いっぱい食べられるんだから」
「いけないわ、ウィリアム。考え直して」
「母上まで……」
「お前は間違えている。軍隊では獲物の選り好みなぞ許されんのだ。何を吹き込まれたがしらんが、軍隊生活の理不尽に耐えられたとしても、その本質がいつかお前の心をむしばむぞ。悪いことは言わん。狩猟官見習いとして届け出を出すんだ」
「もういいよ!徴募官の人と会う約束があるから、お小言は後で!」
「待て!待たんか!」
今思えば、一から十まで親父の言う通りだったんだ。
軍人は命令が下ればどんな危ないことでも嫌な事でも二つ返事で直ちに取り掛からなければならない。否も応もない。それができないやつは営倉行きか軍を追い出されることになる。作戦中なら反抗の罪で処刑されても文句は言えない。
その程度のこともわからないほど舞い上がっていた、と言っても言い訳にはならないだろうな。なにしろ、風景画を描くのに茶色と白しかいらないような田舎から帝都へ出られる、というだけで心が浮き立ってしまっていたとしても、もう少し親の言うことを聞くべきだったんだ。
幸いなことに、軍隊生活における理不尽というやつには短期間で順応することができた。理由は簡単、ド田舎の寒村生活における厳しさとは比べ物にならないからだ。三食と暖房用の燃料を心配せずに暮らせる。言われた通りに身体を動かしてさえいれば怒鳴られたり殴られることも少ない(皆無ではない)わけで、いつの間にか“新入りのくせになかなか骨のある奴”ということになった。
そこへもたらされるちょっとした昇進や優秀な射手に与えられる徽章はますます軍隊生活を快適なものにして、ある意味では自分を勘違いさせた。なんだ、軍とはこんなものか、と今にして思えば思い上がりも甚だしいが、とにかく若気の至りとはこのことだ。
ある日のこと、上長に命じられて出頭した兵団長室では見慣れない客人が応接椅子に腰かけて自分を待っていた。
「ウィリアム、君もかけて楽にしたまえ」
「自分はこのままで結構です、兵団長」
命令されたわけでもないのに応接椅子に座ろうなどとは考えるほうがどうかしている。これも軍隊生活で身に着けた理不尽のひとつだ。例外は父親が軍人同士で同期とか、ごく親しい場合。これなら兵団長を小父さん呼ばわりしても誰も見ていなければ問題ない。残念ながら、軍に何の伝手もない自分にとっては兵団長は雲の上の人物なのだ。
「そうか。こちらはジェームズ=ブルック殿……」
自分には聞き覚えのある名前だったが、えらいところから引き抜きがかかった、とうんざりした気持ちになったのを覚えている。
彼が率いる『漆黒の猟犬』は部隊名と隊長の名前以外が謎に包まれている隠密部隊だからだ。
しかも、その好意的とは言えない気持ちが自分の顔にも出てしまっていたらしい。
「おや、彼は私の名前を聞いて身構えてしまったが、それは私の仕事を一端でも理解している、と考えていいのかな?」
「それは何とも。どうぞ直接お尋ねください」
兵団長があっさりと部下を差し出したのには驚いたよ。
ブルックの所属は表向き偵察部隊の監督官ということになってはいるが、その実は将軍以上の権限と兵力を持っているとの噂だ。実のところ、指揮系統は皇帝直属であり、兵力が噂の域を出ないのも秘密に包まれた覆面部隊の為だ。
権限に関して言えば、
「国璽の入った命令書もあるけど、できたら志願してもらえると有難いな」
と庶民が見れば即座に平伏する紙片をひらひらさせて転属を強要するのだから、これも逆らってはいけない軍隊の理不尽に間違いなく、その理不尽を振り回せる側にブルックが存在しているという証拠だ。
「発令の日付を伺いたくあります」
何日か猶予をもらって身辺整理もしなければならないし、兵隊仲間にもお別れを言わなければならない。家を飛び出す過程で疎遠になった両親にも転勤の知らせぐらいは書いて然るべき、その時はそう思っていたんだ。
「今からだよ」
「!?」
「さあ、城外で馬車が待っている。質問はあるだろうが、歩きながら話そう。兵団長閣下、事後処理をよろしく頼みます」
言葉遣いこそ丁寧な要請だが、その実は皇帝陛下のハンコにものを言わせる命令以外の何物でもない。兵団長は自分に向かって軽く敬礼した後、急いで手紙を書きにかかった。階級に沿った敬礼と答礼の順序を考えればあべこべである。何のことはない、この瞬間に自分は訓練中の事故で死んだことになったのだ。
兵団長室を後にしながら、ブルック氏は心底申し訳なさそうに説明してくれた。
「こんなことになってすまないが、何事も秘密厳守のためでね。兵舎の私物は馬車に積ませたが、いったん没収させてもらうよ。これは君の親御さんや友人を守る為でもあるんだ。死人には守るべき家族も友も存在しない、というわけでね。おっと、この黒頭巾を被ってくれるかい?」
ブルック麾下の兵力が全くの覆面部隊である原因がやっと自分にもわかった。
気付いた時には自分が名無しになってしまった点については間抜けと言うしかない。まさか、自分のようなちょっと射的が上手いだけの若造にお鉢が回ってくるとは想定外だったのさ。
「悪いが、この門を出れば君は名無しだ。部隊では管理番号で呼ばれることになる。私は六番。副長が五番。君はおそらく四百番台だろうな」
「あの、親には……」
「それはもう気の毒と言う以外に言葉がみつからない。極低温環境における行軍訓練中に消息を絶ったことになっているのだが、何か死因に希望はあるかね?焼け焦げた死体を用意することもできるがお勧めはしない。余計な証拠を与えて話の辻褄をあわせられなくなるのがオチだ」
死因を選べるだとか、死体を用意、という物騒な文言に震え上がったよ。
乗り込んだ馬車も途中から街道筋をどんどん外れて行くものだから、不安で一杯だった。俗世間との縁を斬られて無縁になった心細さもあっただろうな。この時からブルック……六号が親で、部隊が家族になったんだ。他に頼る者もいないからね。
「一番から四番は?」
「皇帝陛下、皇后陛下、第一皇子、第二皇子だな。それが部隊の命令権者であり、秘密関与資格を持つ者ということだ。一応、覚えておくといい」
一番の命令が優先される、とのことだが、もともと帝国軍の最高司令官は皇帝なのに、直属の隠密部隊を持つことにどんな意味があるのだろう、という疑問はあった。けれども、ずんずん山の中に入っていく馬車に気を取られて、これ以上質問する気にならなかった、というのが正直なところだったよ。
やがて到着した場所は秘密基地の雰囲気は全然感じられない、とある城塞都市の一部を間借りしている新兵訓練場にしか見えなかった。民間人の往来も少なくないのには驚きだったな。都市の熱気を閉じ込めて吹雪を通さないための壁は高くそびえたっているが、それでは秘密も何も出入り自由だからね。
「ブルックさ……六号、秘密部隊だったはずでは?」
「その通り。君には全くの別人になる訓練をしてもらう」
「別人?」
「うん、それから、部隊外ではブルックでかまわんよ。君も名無しでは困るだろうから名前をつけてやろう」
ジェームズ=ブルックという名前も本名ではないのだ、とわかったよ。
その日から自分はジャック=ブライアンという落ちこぼれの見習い兵士となって城塞都市で訓練に励むことになった、というのは表向きのことで、実のところは隠密部隊『漆黒の猟犬』の構成員四百十二号として爪と牙を研ぐことになったのさ。
そうそう、降格されたはずなのに給金は倍になっていたよ。
いつもご愛読ありがとうございます。
北の国は地球の英露を足して二で割った体で御願いします。主に気候と帝国的な雰囲気の二つです。
徃馬翻次郎でした。