第143話 英雄の生家は鬼の住む家 ②
ラウル倒れり。
この一報は拉致被害者の帰還で沸くエスト村に当初はほとんど言っていいほど影響を与えなかった。
むろんウィリアムの妻であるドリスのような被害者家族は次々にジーゲル家を訪問して心からの謝辞を述べるのだが、彼らはその時点ではじめて捜査班の存在とその構成員に損害が出ていたことを知ることになる。
ジーゲル夫妻は訪問客を出迎え、誘拐事件の解決を祝い合う。そして、希望者にはラウルの枕頭に立つことを許可していた。
これはブラウン男爵が捜査の機密保持を期して大多数の村民には捜査班の存在を公にしなかった為に得られた静かな時間だったのだが、それもラウルに心酔している御者がラウルの寝た切りを耳にするまでの話だ。彼は、神の子ラウルが尊い聖務に身を投げ出した、と振れて回り、それは誰だ、どういうことだ、と村中が騒ぎになってからは状況が一変している。
今や“ジーゲルの店”は名工の聞こえ高い鍛冶屋だけではない。
エストを救った英雄の家なのだ。
ジーゲル夫妻は息子を観光名所のように扱うのは嫌だったのだが、一目なりとも拝顔して感謝と快癒の祈りを捧げたい、と熱望する見舞い客たちに根負けする形でラウルを寝台ごと居間に移した。ラウルの監視と見舞客の案内をする手間を考えての移動なのだが、居間を葬儀の空気に変えることになってしまったのには後悔した。
まず、人伝に悲報を聞きこんだミルイヒ=ヘーガーは店を放り出して駆けつけた。ジーゲル家の玄関扉を壊す勢いの乙女走りで突入してきた彼は眠り続けるラウルを見て一瞬息を飲んだが、クルトとハンナを見やって、
「これは……魔法なのか?」
と聞いた時にはいつもの変態ではなく常態のヘーガーだった。
「わからん」
「マリンちゃんが言うには……」
「コリンか?私も彼の秘密には一枚噛んでいる。偽名は不要だ」
誘拐の被害者家族や見舞い客には通り一遍のことしか教えないが、ヘーガーやドリスのような馴染み、具体的にはラウル訓練計画に関わっていて、なおかつ口が堅いと信用できる相手にだけ知ってる限りの情報を開示する方針である。
ヘーガーも場をわきまえていた。
寝ているラウルは彼の作法通り下着のみの格好である。本来のヘーガーならば点検と称して寝具や下着の中に手を突っ込むはずだが、
「なんてことだ……いや、怪異に巻き込まれてなお命があるだけ僥倖と言うべきなんだろうな」
といつになく神妙なのである。
「装備を全部失ったのか?」
「うむ」
「発見した時は裸だったから……」
素っ裸ラウルの話題にも食いついてこないほどヘーガーは心を痛めていた。なぜもっと早く知らせなかった、とジーゲル夫妻をなじる気にもなれない。クルトとハンナを見れば、自分以上に悲しみを湛え、こらえているのは一目瞭然だったからだ。
やがて彼は手帳を一枚破って“手袋とブーツ引換券”と書かれた書付を作成してクルトに託し、早々にジーゲル家を後にする。あれこれ詮索するよりは黙ってジーゲル家を支援しようと決めたのだ。
変態でない時の彼はまず間違いなく一角の漢であった。
「ふう……当分はラウルを見張っているだけだと思ったのにね」
にわかにエストの英雄が住まう家になったジーゲル家は来客の対応にも人員を割く必要が出来てしまった。リンだけでなく捜査班の面々が代わる代わる応援に来てくれるが、それでもジーゲル夫妻の負担が増えたことには変わりがなかった。
「ああ」
「これ、床ずれしないように動かした方がいいのかしら」
ハンナが寝たきりのラウルを“これ”呼ばわりすることにクルトは少し傷ついたような顔をしたが、彼女の提案に従ってラウルの姿勢を側臥に変更した。高齢者介護のような仕事だが、褥瘡を防ぐ寝返りをラウルが自発的に打たない以上、誰かが面倒を見なければならない。
その意味においては、クルトにはラウルにしか見えない生物に対するハンナの思いやりがなくなったわけではない、とわかって彼は安心した。本当に化け物だと彼女が思い込んでいるなら床ずれが出来ようが痔疾になろうが知ったことではないはずだからだ。
「ポレダ脱出がすんなり行っただけにな」
「騎士団の皆さんはきっと貧乏くじね。遠路はるばる駆けつけたのに見せ場はなし、隠し港はあの有様でしょ?」
「うむ」
実は、貧乏くじのような可愛らしい表現で済むものではなかった。
王都からエストを経由してポレダに現れた騎士団は、エスト捜査班と拉致被害者の子供たちを送り出した後、騎士の威厳を示す見せ場どころか、もっと腹に据えかねる大当たりを引きあててしまう。
怪異を聞きつけた聖タイモール教会が乗り出し、聖騎士を中心とした怪異調査団を隠し港に送り込んだのである。騎士団は誘拐事件の調査報告書を書き上げて、ポレダ領主と衛兵隊長から事情を聞き次第、捜査を終了して王都に戻ることもできたのだが、海賊の秘密基地も調査して国王への報告書を完璧にしようとしたのが失敗と言えば失敗だった。
既に隠し港を封鎖していた聖騎士たちは、ポレダの民心を惑わす怪異は跡形もなく滅すべきであり、貴公らは王国の安定をないがしろにするつもりか、と騎士団を全く相手にしない。
一方の騎士団も負けてはいなかった。
畏れ多くも国王陛下の勅をないがしろにしている貴公らは何のつもりか、それとも反逆か、とやり返し、一触即発の空気が充満する。
法的根拠の強さにおいては勅命を奉ずる騎士団のほうが圧倒的に上位なはずなのだが、それで押し切れないあたりが聖タイモール教会の権勢であり、その根源は恣意的な王国法解釈に基づく異端審問への恐れであろう。
結局はポレダ伯の仲裁で共同の現場検証が行われることになったが、その時には怪異の現場も異形の変死体もきれいに片づけられており、騎士団の捜査責任者が怒りで肩を震わせる一幕があった。彼が隠し港の件で手にできたのは王都に帰還する直前にポレダ衛兵隊長であるパメラから手渡された薬物検査報告書だけである。
むろん、ジーゲル夫妻はこれらの出来事を知らない。
何となく、後始末はたいへんだろうな、と思う程度のことである。
「それにしてもよく寝るわね、この子」
「シモの世話をしなくて済むのはいいが、このままだと飲み食いはどうなるんだ?」
珍しく長いクルトの言葉は親として当然の心配と言えた。
普通の人間なら飲まず食わずの状態でそうそう長く生きていられるものではない。何らかの形で水分と栄養を補給しなければ、飢えに弱い人だと二日と保たずにでやつれてしまう。
どうしたことか、ラウルの唇は渇いていなければ肌の色つやも健康そのものであり、ますますハンナの疑念を裏書きしている状態なのだ。
「コリン君の見立てに従う、とは決めたけど……」
「待つだけってのは……な」
両親の不安と焦りをよそにラウルは惰眠を貪っているようにしか見えないのだが、彼の精神世界では居残りのような特訓が実施されていた。
《 ラウルの精神世界 窓と扉のない一軒家 》
まもなく肉体の修復と点検が完了する、と精神世界にオトヒメの声が響いた時、ラウルは家具のない大広間で仮想戦闘訓練と称する動く人形相手の立ち回りを演じていたのだが、
勉強部屋と言う名の一軒家に突如として瞬間移動させられた。
家とは言うが窓もなければ出入口もない。
魂だけの存在になっても集中力を欠くラウルのためにしつらえられた空間なのだ。
「長らくお待たせいたしました」
「うう、外の世界はどうなってるの?オレってどういう扱い?」
「順にご説明申し上げます、主様」
オトヒメは机に一枚の地図を広げる。
アルメキアのようだが町や村の位置が微妙に異なる。地形でなんとか照合できるものの、現状と合致しない点がかなりあった。
「こちら、主様がお眠りにつかれた港町から……」
彼女は扇子の要の部分でポレダを指すが、描き込まれている町並みの様子はどちらかと言えば漁村に近い。
「西へ向かいまして、現在地はこのあたりにてございます」
「うーん、何とかエストに帰ってこれた、と思う」
ラウルはエストの西にある湖を目安にして推測する。ほぼ自宅の位置に間違いないはずなのだが、これまた町並みの描写が現在のエスト村とはかけ離れた小規模の集落であり、隊商の休憩地点なのか幕舎の絵が描き込んである。
「主様は地図をお持ちですか?」
「商用のがあるけど」
「一度照合させていただいたほうがよさそうですね。何やら齟齬があるように存じます。単純に私の持っている情報が古い、ということなのでしょうが」
「いいよ。今自宅かな?起きても大丈夫?」
オトヒメの表情がかすかに曇る。
「その前に、お伝え申し上げねばならぬことがございます」
「自分ちだよ?周りが安全なんだから問題ないでしょ?」
「いえ、問題ありです」
これに先立ち、ラウルはオトヒメといくつか約束をしている。
ひとつは、腹を満たすためや力をつけるために人を襲ったりはしない、という竜戦士が持っている特殊能力を否定するものだ。竜王は与えられるのを待つのではなく奪え、とラウルに命じたが、殺人すら嫌がるラウルにとって食人は問題外だった。オトヒメは不服である旨を主張したが、存外短い抵抗の後にラウルに従った。後日ラウルがその理由を聞いたら、その時は半分見放したつもりだった、と正直な感想を口にした。
もうひとつは、ラウルと会話する時には表情や抑揚で感情を表現してほしい、という要請である。オトヒメはこれにも拒絶の意を示した。何の意味がある、というのが彼女の主な理由だが、ラウルにしてみれば無表情の相手と話すのは気味が悪い。早い話が相棒としてもう少し打ち解けてほしいのだ。
「処理速度が低下するだけです」
「ショリソクド……」
「感情を込めることが大事な事なのですか?むしろ邪魔では?」
「まあ、聞いてよ。ほら、いつまで一緒にいるか分からないけどさ、竜王様のお使いが案外長引くかもしれないわけだし、そのへんはもう少し工夫できないかな?最初に会ったときは口調に工夫してくれてたでしょ?あの要領で頼むよ。それから、これはとても大事な事だから繰り返すけど……」
ラウルの早口攻勢にオトヒメは折れた。
談判後の彼女は多少丸くなり、話しやすくなったように思えるが、彼女曰く、それらは全て表示上の問題でしかない、とのことだ。表情をつける代わりに解像度を下げる、とも言ったが、ラウルにはさっぱり意味不明な言葉だった。
とまれ、ラウルの精神世界における彼女の外観は表情が追加されたことで生きている人に近くなり、抑揚の添加によって人間味が増した。
「それで、問題ってなに?」
「主様の身体を修復し、神経接続の確認をする間、外部の音声を収集して万一の事態に備えておりました」
「オレの耳で?まあ、いいや。これから立ち聞きするときは一言断ってね」
「御意」
「要点を先に言ってくれる?」
オトヒメが言いにくそうにしているのは悪い知らせを伝えようとする感情表現なのだろうか、とラウルは思った。いつもの彼女なら結論から述べてラウルをたじろがせる。結論から先に述べる方が合理的なのだが、気持ちの準備をするうえでは今の会話方式のほうがラウルの好みだった。
「原因は不明ですが、主様の正体が露見しております」
「へっ!?どういうこと?」
「ご母堂様が感づかれたようで、これは息子ではない、と……」
「母さん……」(そうだよな、化け物だもんな)
ラウルが落ち込む暇を与えずオトヒメは報告を続ける。
「戦ったところで相手が本気を出せば瞬殺されます。常に手が届く場所に立てかけられている槍は並の品ではありません。逃走するにしても亜人変化によって確実に阻止……」
「な、何言ってんの!母さんだよ!オレんちだよ!戦うとか逃げるとか止めてくれよッ!」
「……では、いかがなさいますか?」
「うッ……ちょっと、考えさせて……」
やれやれ先が思いやられる、とオトヒメは口にはしなかったものの、ラウルの旅が思いのほか短く終わるのではないか、と予想した。ほかでもない、母親に刺されて一巻の終わり、もしくは聖槍に消し飛ばされて塵も残らない無残な結末はそれほど突飛なものとは思えなかった。
それにしても主様の家にはいろいろとあるものだ、とも思う。
聖槍は明らかにどこぞの神がもたらしたものだし、ラウル自身にも複数の加護を授けようとした痕跡がある。常識や宇宙の法則に縛られぬ特異点とはこの家のことか、と言いたくなるほどの密度の濃さであり、それはラウルを竜の子に選んだ竜王の眼力がさび付いてはいないことを示している。
しかし、ラウルの現状はご覧の通り、生みの親によって追い込まれた袋小路である。今回ばかりは竜王様の眼鏡違いでは、いやいや、あの方が見誤るはずがあろうか、との考えが彼女の中に浮かんでは消えた。
オトヒメの力をもってしても予測不能な未来から果して生を拾えるのか、はたまた歴史から姿を消すのか。
新生ラウルの正念場である。
いつもご愛読ありがとうございます。
やだヘーガーさん男前なお話と、竜眼のグラフィック性能を落とす代わりにオトヒメが怒ったり笑ったりするようになるかも、というお話でした。
仲違いしたハンナとラウルは果して上手くいくでしょうか?
徃馬翻次郎でした。