第106話 ある日のジーゲル家と何やかや ③
ハンナの感覚で言えばリンとラウルはとっくに引っ付いていてもおかしくないのだが、その原因をたどれば息子の魔力不能に行きついてしまう。なにしろ世間的には一家そろって神に罰を受けた不信心者なのだ。
となれば、息子の根性なしを一方的に批判するわけにもいかない。
「はあ、もういいわ」
「やれやれだな」
このやり取りも最近のジーゲル家における定番と言えた。
ラウルは、何だよまたかよ、と小声で不満を垂れながら鍛冶場に戻って作業を再開しようとする。
「汗を流して着替えてからにしたら?」
いくら元気印のラウルでも身体を冷やしてしまっては病気のもとだ。彼も回れ右で帰ってきてハンナの言う通りにするあたり、いくつになっても素直ではあった。
替えの衣服を洗い場に運び、昼食の支度にとりかかるハンナをクルトが手伝う。
二人は先ほどまで居間を賑わせていた客について話し合っていたのだが、クルトはファラーシャについての情報が全くない。目の前で発生している事態に付いて行くので必死だったので、暖炉前まで気が回らなかったのだ。
「ナジーブの娘さんはどんなだ?」
「素敵なお嬢さんよ……かなり拳闘をつかうわ」
「今のは聞き間違いか?」
「鍛えられた身体に握りだこ、今時珍しいわね」
拳闘が今時珍しい、という言葉は魔法万能の時代だからこそ出てきたものだ。誰かを殴るにしても魔法道具を用いた方が少ない手数で目的を遂げることができる。この時代にあえて素手で挑む者は賭け試合の選手か求道者だ。
素手の拳闘は体格差がもろに出る。いくら身体強化魔法を駆使しても小柄な岩ネズミ系亜人である彼女の不利は明白である。
おそらく彼女は独自の工夫と鍛錬でもって体格差をものともしない拳闘術を身に着けている、と推察できるが、そこへいたるまでの道のりも生半可なものではなかったはずだ。
ラウルも生身の限界に挑もうとはしているが、彼よりおそらく年下であろうファラーシャは既に己が肉体を武器に変え、考えにくいことではあるが賭け試合で稼いでいる可能性すらある。
いくらサーラーンの民族衣装と覆面で隠せても、手は嘘を吐かない。手を見れば年齢やある程度の職業まで絞り込めてしまう、とハンナは言う。
彼女は鉄骨のラウルでも数瞬で殴り殺してしまうであろう力と体格差を無視できる技術を持った強者、とハンナは見て取った。
しかし、強者は強者を知る。
強者は見ただけで相手の力量をある程度推し量れる、と言い換えても良い。
サーラーン式居間でくつろいでいたファラーシャは、お茶とお茶菓子を運んでくる落ち着いた女性が自分をはるかに超える実力の持ち主であると感じ取った瞬間、総毛だつ思いを隠せなかった。
具体的には、なぜ化け物が大人しくお茶くみをしている、と正直腹の底から震えあがる思いをしたのだ。
これは彼女が圧倒的実力差を肌感覚で感じ取れるほどの強者であったからである。
さらに、彼女にしか聞こえないほどの静かな声で、拳闘をなさるのね、とハンナが囁いた時にはそれこそ舌なめずりした狼に退路を断たれた小動物の気持ちだったのだが、それ以上詰められることもなく、拳闘の件を秘密にする約束を交わしてからは一気に親密の度合いを深めて打ち解けた、というわけだ。
「親にバレていない、と思っているところがカワイイわ♡」
「まったく、尻に敷かれるどころの騒ぎじゃすまねぇな」
「お嫁さんの話?」
「ああ」
鍛えられた身体に魅力を感じるからこそラウルに興味をもったのではないか、とクルトは言うが、ハンナに言わせればそれほど単純でもないらしい。
「正妻じゃなくてもいいとか、地位にこだわらないのは立派だけど、奴隷や従僕のいる暮らしに慣れちゃってるのよね。そういうのラウルは嫌がるでしょ?」
「だろうな」
「もうひとつ、王都で遊んでこなかったことは立派だけど、ひょっとしてスケベは愛が無いとダメ、とか面倒くさい種類の……」
「奥手か」
ハンナは残念そうにうなずく。
確かにラウルの性格では第二、第三夫人は難しい。仮にどれだけ経済的に余裕があったとしても、である。恋慕や友情が昇華して愛にかわることもあるが、彼の場合は信頼関係の醸成にどうしても手間がかかる。
エルザに言い寄ったのは臥竜亭の特別室という舞台装置が持つ魅力にあてられただけではなく、戦友かつ師匠で案内人という信頼関係あってのことなのだ。
要するに、ラウルとファラーシャでは釣り合わない公算が高い。
「空いたよ!」
洗い場からラウルの声がかかって居間に入ってくる。
入れ替わるようにクルトも汗を流しに洗い場に向かった。ラウルはやっと人心地ついた様子で髪の毛を乾かしている。
「ああ、さっぱりした」
「これでゆっくり昼ごはんを食べれるわね」
「そうだけどさ……結局ファラーシャちゃんと話せなかったな」
「まあ!」(一応、興味はあるのね)
ラウルにしてみれば、最近できた交友関係にいい歳をした男性が多すぎる、という不満がある。
一方、ハンナはそんな息子の気持ちなど無視してファラーシャの第一印象を正直に話すことにした。
「とっても強い娘よ」
「強い!?」(優しいとかじゃなくて!?)
「がっちり系で……」
「は、はい!?」(しっかり者とかじゃないんだ……)
「腕相撲ならラウルの好敵手になれそうね」
「も、もういいよ」
ファラーシャちゃんのお眼鏡にかなうようにもっと鍛えておかなくちゃね、というハンナの声はもはやラウルに聞こえていなかった。
こうして彼は脳内スケベ辞書に、亜人娘と仲良くなるのはたいへん、に加えて、サーラーンの民族衣装は手強い、と書き足すのである。
「でもサーラーンのお友達なんてなかなかできるものじゃないわ」
「良い人でしょ、みんな」(できれば女の子が良かった)
「そうね。エストの採掘作業員さんはサーラーン出身の人が多いけど、あまり率先してアルメキアに馴染もうとはしないみたいね」
「どうしてかな?」
「さあ、宗教上の理由かしら?」
ハンナはそれ以上言わずに台所へ戻ったが、ラウルには心当たりがある。
エスト第四番坑道ではそれほど長くはない坑道の要所に広間が二か所もあった。あれは食事や休憩の為だけではなく、太陽神教徒が祈りをささげるための空間を確保していたのだ。つまり、雇う側もサーラーン出身者には配慮していた、ということが今になってわかった。
故郷を遠く離れた地の底への出稼ぎは、誰であっても心細いことこのうえないはずだ。サーラーン出身の作業員が太陽神にすがり、生きて太陽をもう一度拝めるように祈るのも無理はない。
しかしながら、採掘の仕事ぶりはともかく、祈る時間のたびに手が止まる。これを見た聖タイモール教徒の作業員はどう思うだろうか。面と向かってサボりを指摘する者はいなくとも、あきれた思いを込める視線は多いことだろう。
ハンナの言う“宗教上の理由”とはそのことだ。
(なんで世界中こうもややこしいことが多いんだろう)
最近になって見聞を一気に広げたラウルから思わず湧き上がった心の声である。
ここ数日で、集団がある程度の数になると必ずと言っていいほど二派に分かれて主導権争いをする話はいくつ聞いただろうか。ヘリオット家のハリー少年によれば学校の生徒同士でも抗争じみた真似をしていると聞いた。
人種や魔力量による差別は大昔から存在するが、宗教や社会制度のような本来は人を幸せにするためのものですら対立の火種となっている。
飢えや暴力に苦しむことなく善行が報われる世界の何と遠いことか、そうラウルが思うのも不思議ではないのだが、彼は王でも皇帝でもない。世界を変える力などあろうはずもない以上、事態を静観するほかなかった。
「焼き払え」
突如として発声された文字列にラウルは驚く。
自分の声だ。
たった今、自分の口から出た言葉が信じられない。自分の意思とは無関係に出たことは間違いない。
「なーに?焼き加減?」
「な、なんでもないよ!」(お、オレは今何を口走った!?)
調理中のハンナにはよく聞こえなかったようだがラウルは違う。
自分の声で“焼き払え”と確かに聞いたのだ。
(疲れてるのかな……)
何を焼き払うのかは分からないが『着火』をごく小さい規模でしかできない彼には縁遠い話なので、ラウルは精神疲労として片づけることにする。
「ふう……どうした、ラウル。顔色が悪いぞ」
洗い場から戻ってきたクルトがラウルに声をかける。
「は、腹がへったんだよ」
「そうか」
その後、三人で囲む食卓はサーラーンと新しい知己の話題で大いに盛り上がったので、ラウルは昼食の間に物騒な言葉を勝手に口走った怪奇現象を忘れている。
サーラーンの客人を見送ったジーゲル家は日常を取り戻し、ラウルは鍛錬と家業にいそしむ日々に戻った。
しかし“焼き払え”という文言はいずこから湧き出たものであろうか。
燃やす対象が人なのか物なのか、あるいは家なのか村なのか、はたまた国なのか大陸まるごとなのか。いずれにしても、それだけの力がラウルにないのは彼自身も重々承していることだが、腐った世の中を焼き払うべし、ということを指すのなら、その恐ろしげな浄化思想は明らかに彼のものではない。
つまり、束の間ラウルの口を何者かが乗っ取ったとしか考えられないのだが、謎の人物が正体を現すのはまだまだ先のことなのだ。
いつもご愛読ありがとうございます。
ファラーシャちゃんは蝶です。蝶のように舞いサソリのように刺すのです。実際は砲弾のように高速飛翔する種類の蝶です。彼女に関しては南国へ出かける時までお預けですが、楽しみにお待ちください。
とうとうラウルが物騒なことを言い始めましたが、そろそろ運命が動き出している、というお知らせとでもお思い下さい。なにしろ彼は世界を滅ぼすどころか自分のことで精いっぱいなのですから。
がんばれラウル!闇に呑まれるんじゃないぞ!
徃馬翻次郎でした。