第7話 エスト村へ ①
リンは鷲に変化し村へと向かった。ラウルは屈伸運動をして両親の準備を待つ。玄関に姿を現したのはクルトが先だったが、よく見ると唇周辺にキスの痕跡がある。非常事態に備えた慌ただしい準備中ではなかったか、確かそのはずだとラウルは詰問した。
「何やってんだよッ」
「むむ、いや、これは……お前も見ればわかる」
非難する息子に、父親は服の袖で口をこすりながら悪びれる風もなく反論した。一体何なのだ弟か妹でもつくるつもりかこのスケベ親父、と追加で悪態をつこうとしたラウルは玄関に出てきた母の姿に思わず息をのんだ。
「おまたせ~」
「……」
「な?」
クルトが誇らしげなのも頷ける。いつもは後ろでまとめてひっつめにしている髪の毛を垂らして一か所で束ね、お気に入りの長衣と前掛けを紺色の鎧下と銀の胸当てに着替えている。おそらく魔法素材製品と思われる鎧下の随所にある刺繍や胸当てに刻まれている意匠は風格すら感じられる高級品だ。脇に抱えている外套だけは魔法素材製品ではない一般的なものらしい。
ハンナの着替えを手伝うだけではなく、気品と髪の見事さをクルトは讃えたのだろう。キスの痕跡はその結果というわけだ。
◇
【魔法服について】
魔法素材製品は非常に多岐にわたる。武器防具はもちろん、日用品から魔法道具に至るまで全て網羅することは不可能と言って良い。なぜなら、今こうしている瞬間にも新しい魔法素材製品が研究・開発されているからである。
-中略-
次に、魔法素材製の衣服だが、これはいうまでもなく亜人や魔族たちの必需品である。一瞬で形状変更する魔法を付与してあり、安く手に入る最低限のものから、ちょっとした魔法防御や特殊効果を追加付与した高級品にいたるものまで千差万別である。
魔法防具に関しても同様であるが、素材の確保が一筋縄でいかないうえに、加工時点で行われる魔法付与が数回に及ぶ。さらに性能に応じて工数は増え、工賃はふくれあがる。
高い防御性能を持つものはうんと値が張るのも頷ける。
普通の衣服や防具だと、ほとんどの場合変化した瞬間に破壊されてしまい、そのまま変化を解除すれば当然全裸となる。見られてもかまわない、あるいは見せたい、それはそれでご褒美という者も多いが、人前で肌を露出しない人族も混在する文明社会の一員である以上、防具はともかく別して衣服は亜人にとって文明の証ということになるだろう。
設計や質感が大事な点は普通の衣服と同じだが、製糸及び染色の段階で魔力付与を行うため、原材料時点から魔力作業が必要となる点において異なる。
魔法製糸は衣服にとどまらず多様な魔法製品を生み出した。ただし、魔法製糸業が急速に発展した時期には、魔法製糸工員の非人道的な労働環境が社会問題化していたことを忘れてはならない。
魔法服の場合、工芸師による裁断・縫製後に、魔術師が形状変換魔法を構成するが、魔法糸刺繍等で防御魔法効果を追加する技法までが研究されており、高魔力の工芸師は今やひっぱりだこという状況である。
なお、変化中は首輪や足輪、縄状の道具や装飾品に形状変化させる魔法を構成することが多いようである。
【ミーン・メイ 著 開け社会の窓 安心してくださいはいてますよ より】
◇
ラウルは、普段とは異質の美しさをはなつ母に一瞬見とれた。かつては父と同じ冒険者、その前はいいところのお嬢さんだったのはどうやら本当らしい。お道具がいちいち高級品で、田舎鍛冶屋の奥方には不釣り合いの感すらある。なれそめを聞こうとしたこともあったのだが、本当に聞きたいの、と母は光る眼で見てくるので今まで聞きそびれているのだ。
実際、父に外套を持たせる母の姿は、従者に荷物を持たせる高貴なお方のようなまぶしさである。その高貴なお方が下僕に問いかけた。
「ラウル、リンちゃんは?」
「先に様子を見てくるってさ」
「あら、じゃあ急がないとね」
「オレ、今回は留守番じゃないんだよね?」
「リンちゃんが心配じゃないの?」
「そ、そりゃ気になるよ」(オレよりずっと強い奴を心配ってのもヘンだが)
ともあれ、準備は整った。一瞬の閃光の後、ハンナは巨大な銀狼に姿を変えた。銀色に輝く引き具付きの首輪が胸当てだったもの、前脚の足輪は紺色の編み込みになっているから鎧下が形状変化したものだろう。後脚の足輪が黒か紫のように見えるということは、ハンナの下着がいかなる色彩のものかおおよその見当がつこうというものだが、ラウルは反射的に想像を中止している。ラウルは母の下着で興奮するような道を外れた変態ではないし、年齢相応の地味なものをすすめる権利を持つ者はクルトだけであろう。
なにしろ、ろくでもない人生だったがラウルはまだ死にたくない。
まずクルトがハンナの背に乗り、次にラウルをつかみ上げて前に乗せる。
「いくぞ、つかまれ」
腹に響く声を出したのはクルトではなくハンナだ。ラウルは、飛ぶように走る母の背中で、数えるほどしか見たことがない銀狼の姿を美しく、頼もしく思うと同時に多少の恐ろしさも思い出していた。
前に母の変化を見たのはラウルがまだ小さい頃だ。国境警備隊に追い回されて切羽詰まった野盗団の連中があろうことかジーゲル家を襲撃、臨時の隠れ家をもうけてほとぼりをさまそうと画策した時のことである。
周りに人家が少ないのは好都合、見たところ鍛冶屋夫婦に幼子とあなどり、勢いをつけて夜襲を敢行したまではよかったが、結果として、来た時以上の速度で逃げ散り、朝までにほぼ全員がお縄になるか自首することとなった。後に国境警備隊の取り調べを受けた野盗団の一員は震えながら供述した。
「あの家は犬神様が守っている」
鍛冶屋のおっさんも桁外れに強かったがまだ人間の範囲内だった。それでも剣を受けきれずに外へ飛び出すはめになったが、子供と嫁さんの姿が見えないことに気付いた。そうしたら突如として横殴りに犬神様に噛みつかれ、空中に放り投げられた。何とか起き上がることができたので、あとはもう魂消る思いで逃げた、というのだ。
不思議と死人は出なかった(むろんハンナは手加減した)が、ほとんどの者が大小の手傷と恐怖から途中で動けなくなりお縄になった。
もうどにでもしてくれ、処刑されなかったら俺は堅気になる、と震えの止まらない元野盗を見て国境警備隊の連中はどう思っただろうか。
彼らは鍛冶屋の嫁さんがひと暴れしたことを、クルトの届け出で承知していたが、“犬神様”をあえて否定も訂正もしなかった。噂が広まればジーゲル家周辺の治安はいうまでもなく、至近のエスト村にちょっかいをかけるアホ共も減るだろうと、この際利用させてもらうことにしたのだ。そのかわり、南部国境警備隊は交代時に王都への往還で鍛冶屋の前を通るが、店に誰も出ていなくても敬礼を忘れない。
ちなみに、その元野盗は野盗団では新入りだったので、記録されている前科が微罪だったことも加味されて、警備隊の思惑通りに処刑を免れた。収監されている間の鉱山労働中も放免後も、ことあるごとに犬神様伝説を触れ回ったので、今や犬神様伝説は若干尾ひれがついて、野盗団の間でも“エストに手を出すと犬神様の祟りがある”という、ハンナが聞いたら思わず苦笑しそうなことになっている。
「おおっ」(こ、怖ぇぇぇ)
「もうすぐだ」
その“犬神様”の背中で、景色が後ろに流れる速度に思わず声を出したラウルに、まもなく到着するとクルトが告げる。ふと見上げると教会上空をリンと思われる鷲が舞っていたが、村はずれの丘陵に旋回しつつ高度を下げている。
「山のほうじゃないかな、母さん」
「承知」
「うむ」
母親は足を丘陵地帯に向け、父親は重々しく息子の推測に同意した。ラウルは上空を見て、リンが降下する方向を確認しながらハンナに伝える。目的の丘陵地帯が見えてきたが、もう人だかりができている。
丘陵地帯は貴族の別邸が数件と新しく掘られたエスト魔砂土の採掘口があるほかは、牧草地が広がっているのどかな田園風景そのものである。
しかし、そこにできていた人だかりにはお祭りのような心浮き立つにぎやかなさがなく、どちらかといえば騒然とした、むしろ険悪な雰囲気さえ感じる。
ラウルたちが近づくにつれてその原因が判明した。
魔獣が出たのだ。
(なんたるざまだ、人死にがないと良いが)
ハンナは走りながら村民を案ずる。丘陵地帯だけだなく、村内のいたるところで蜘蛛型の魔獣が紫色の体液をまき散らして絶命している。衛兵隊の怒号に泣きわめく子供の声が重なり、そこへ魔獣が金属を引っ掻く音のように断末魔の叫びを絞り出すという、耳を塞ぎたくなる状況だ。
蜘蛛型とは言うが、小型犬並みの図体で口や牙もそれなりに大きい。集団で襲い掛かられでもしたら、繋がれている牛や馬ならあっという間に骨にされるだろう。実際、魔獣のうち何匹かは納屋や倉庫に飛び込んだらしく、家畜や商品をつぶして暴れまくった挙句に村民や衛兵に駆逐され、体液が周囲を汚染し、ひどい臭いが立ち込めている。
突如として出現した魔獣の襲撃と破壊に人々は最初呆然とし、逃げ惑う者や泣き出す者も大勢いた。しかし、立ち直った者から現実に向き合い、対応をはじめる様は、この世界の厳しさを如実に示している。諦めた者から命を落とす世界なのだ。
村民にも腕に覚えのある者は大勢いるし、何人かは自衛用の攻撃魔法を使える。かろうじて死人を出すことなく鎮圧、村は静穏を取り戻したかに見えた。異臭立ち込めるなかでの後始末には誰もが閉口したが、騒ぎが静まれば日常を再開する必要や義務がある。
魔獣の死骸だけでなく毒液や粘糸の後片付けも厄介だが、優先順位は負傷者への対応だ。数人の村人がなんとか詠唱できる初歩の回復魔法で小さな傷を癒し、けがの程度が重かったり毒や麻痺の症状がみられる負傷者を教会に運び込む。
衛兵隊はけが人の搬送や残存魔獣の捜索に大忙しで、宿屋に逗留していた冒険者連中や商隊の面々も手分けして応援している。
教会では大人が数名、四十名近い子供が治療を受けており、毒液を浴びたり噛まれたりして麻痺や毒の症状を呈している子供も大勢いた。
さらには、魔獣が吐き出す粘着質の糸で拘束された子供も何人かいて、これがけっこうな難問となる。なんと粘糸が魔力を帯びており、手作業や普通の刃物では拘束を解けないのだ。一応ごくごく初歩の火魔法で取り除けるらしいのだが、子供を火傷させずに火力調整するのが意外と難しい。魔力を帯びた粘糸で巣袋状にぐるぐるまきにされたままだとおそらくどんな回復魔法も届かず、手遅れになる恐れがある。
さらに、この期に及んで教会は症状の軽重よりも患者の貧富が重要らしく、治療の優先順位がどうもおかしい。順番をめぐって負傷者や保護者同士でののしり合いがはじまり、ここでも険悪な雰囲気が立ち込め始める。
その雰囲気を打ち払ったのはクラーフ商会の職員たちだった。工芸師が魔道具のハサミで粘糸をすばやく切断し、薬師が薬湯や注射で解毒治療を開始した結果、全員が重症化することなく治療に成功する。
支店長権限で職員を特別業務に駆り出したグスマン支店長はようやく一息ついた。朝夕の祈りを欠かさぬ信仰心の持ち主であるからこそ、手弁当で人命救助にかけつかたのだが、最近のタイモール聖教会の態度には納得がいかなかった。
(神のなさりようは私のような凡俗にはわかりっこない)
グスマンは回復した患者やその家族の礼を受け、抱擁しあい、幾ばくかの金を支払おうとする手を押しとどめて、
「今後ともクラーフをどうぞよろしく」
と商人の顔に戻って応対するのに忙しかったので、教会への不満を頭の隅へ追いやった。
いつもご愛読ありがとうございます。
銀狼サイズはもののけマッマよりひとまわり小さい程度をご想像ください。
この世界はワープ技術が基本的に存在しないので高速移動手段が限られていて、亜人変化はそのための手段であり、魔法服は変化で大事なところが見えないための必須アイテムです。
ラウル君は変化の瞬間をのぞこうとしてますがおそらく不可能です。あきらめろラウル!
往馬翻次郎でした。