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第104話 ある日のジーゲル家と何やかや ①


 昨日の夕方から夜半にかけての量こそ少ないが長時間にわたった降雨はアルメキア各地で朝靄あさもやを発生させた。

 その薄い乳白色の大気を突いて息を弾ませながら駆ける青年はラウル=ジーゲル、エスト村のはずれで鍛冶屋を営んでいるクルトと、地域住民の一部で犬神様として信仰されている主婦のハンナとの間に生まれた跡取り息子である。


 言うまでもなく鍛冶は体力仕事であるから、課業以外で体力づくりの自己鍛錬をする者がいても何ら不思議ではない。

 しかし、現在のラウルには確固とした鍛錬の目的がある。

 それは“生身の限界に挑む”ためだ。

 魔力不能にあえぐ彼だからこそ生まれた言葉は、今や大勢の人に支援されて実行に移されつつあるのだが、その意味合いは昨日から微妙に重いものに変化しつつある。


 “神の依頼”などという加護と引き換えの試練が子々孫々までついて回るかも知れない、という一事は、ラウルの鍛錬に臨む態度を一層真剣なものにした。

 魔力不能の自分には大業な試練は課されることはあるまい、と信じてはいるが、物事に絶対というものはなく、神の依頼が発生する条件すらよくわかっていない。

 おまけに子や孫の代で発現する可能性もあると聞かされてからは、鍛錬には自己を高めるだけでなく、家族を守るためという目的も追加された。


 彼が店の裏にある試射場の周りをぐるぐる走り回って朝食前にひと汗かいている状況は、見た目以上に多くの要素を含んでいたのだ。


(エルザ先生の宿題は……まだ無理かな)


 宿題とは鍛錬の師匠に命じられた前後に跳躍する体さばきの練習、そのために地面に描かれたいわゆるケンケンパ模様を指すのだが、降雨の影響で地面が若干ぬかるんだままであり、思い切った跳躍をするとラウルが履いている靴では滑ってしまうのだ。

 彼は一、二度軽く跳躍を試した後に宿題の実施を諦めた。そして、地面の乾燥を待つまでもなく、試射場の周回走に切り替えていたのである。


 その師匠は現在王都周辺で冒険家としての依頼をこなしていると思われる。したがって、当分の間は一人で黙々と自習をするか、ハンナに手伝ってもらうことになるのだが、彼女には主婦としての仕事があり、ラウル自身も店に出なければならない。

 

(空き時間って意外と少ないな)


 これはラウルの正直な感想だが、母親も同時に都合がつく時間となればさらに少ない。いよいよ時間管理を大切にせねばならなくなった。


 もう少し明るくなるまでは木剣の研磨、続いてスリングショット用素材の加工、木くずを清掃したら鍛冶場か店に用事が無いか探す。余裕があったら商品や資材の在庫状況についてクルトに聞いてみたい。これまでいい加減だった商品知識や相場についても新規蒔き直しで頭に叩き込む必要がある、と走りながらの脳内備忘録再生に成功したラウルだが、あまりにも作業が多いことに自分でも驚き、足を止めてしまった。


(えーと、こういう場合は……)


 仕事が手一杯になった時の一般的な処理方法としては、ただひたすら思いついた順番に片していくか、優先順位を決めてかかる、あるいは上長に順番を決めてもらう方法がある。

 上長であるクルトは起床前であるから、さしあたっての判断はラウルに任されていた。


「うん、研磨だ!」


 思わず声を出してしまったラウルだが、そうでもしないと元気に取り掛かれないほど、彼は研磨が苦手である。上手下手以前に単純作業が精神的にこたえるからだが、木剣に関してはその作業もそろそろ完成に近づいていた。

 仕上げと完成点検をクルトに見てもらったら、素振りぐらいは開始したい、とラウルは思っている。次の訓練段階にすすむには革職人のヘーガーが愛をこめて製作中の革防具が必要だが、彼からの連絡はまだ来ていないから、それまでは出来ることをするつもりだ。


 手ぬぐいで汗を拭きながら母屋に戻ったラウルは両親がようやく寝床から起き出そうとしている気配を感じたが、彼らはなかなか階下に姿を見せない。

 きっと両親は病気なのだ、ラウルは思うことにしている。

 寝床からさっさと出てこないで抱き合ったまま、父は母の美しさを賛美し、母がそれに応える形で一通りいちゃついてからでないと起床できないジーゲル病の重症患者なのだ、と思えば腹も立たない。

 

 何ゆえの腹立ちかと言えば、朝食前にひと汗かいて空腹になったことに起因するわけだが、両親が患っているジーゲル病の発作が鎮まるのをただ待つのも時間がもったいないので、ラウルは木剣の研磨を進めようと思ったのだが、木剣に触るうちに脳内備忘録に抜けがあったことを思い出した。


(そういえば杖も作るんだった)


 これはクラーフ商会の名物店員であるダブス爺の提言によるものだ。

 長距離や山岳を移動する際の疲労軽減を狙ったものだが、とっさの際における護身用武器としても期待できる。

 かくしてラウルが作成している設計図つづりの第三号計画は“杖”となったわけだが、工夫できる部分が少ないので予想図はごく単純なものである。

 握りを加工して持ちやすくする、布を巻くのもいい、釣り紐はどうだろうか、先端を金属部品で保護すれば長持ちするかも、と言った具合で余白への書き込みのほうがずっと多い。ヘリオット木材から仕入れて木剣に使用した材料の残りを流用すれば、さして時間をかけずに完成するだろう。


(こいつは後回しだな)


 冒険や山登りの予定がない以上、杖を急ぎの仕事にしない判断は妥当なものである。そこへ、ようやく洗顔をすませたクルトとハンナが姿を現した。


「早いな」

「おはよう、ラウル。今朝は顔色いいわね」


 そういえば夢も見ずに眠って今朝は早起きだったと思いながらラウルは朝の挨拶を返す。血色が良いのはすでに軽く運動を済ませたからであり、健康管理という面では確かに申し分ない一日の開始だった。


「おはよう。お腹空いたよ」

「あら、健康的ね!」

「火」


 ハンナはただちに朝食の準備にとりかかり、クルトは朝食前に一服やるつもりらしく、パイプをくわえてラウルに向かってあごを突き出した。

 クルトがラウルに煙草を『着火』させるのも見慣れた光景である。クルトはそのまま外へ出て、紫煙をくゆらせながら早朝の澄み切った空気をも吸入するようだ。

 ラウルは一刻も早く朝食にありつきたい一心でハンナへの加勢を申し出た。


「パンが固くなってきたからスープは絶対必要ね」

「野菜の皮をむけばいいかな?」

「助かるわ」


 リンに届けてもらったパンも五日目、どれだけ歯が丈夫な人でも食べるには何らかの工夫が必要なほど固くなっている。美味しくいただけたのは三日目まで、昨日は一部がパン粉へと姿をかえているのだから、今日は汁物に浸してふやかすか粥にするほかない。

 ハンナは野菜スープを選択し、湯を沸かしてラウルと二人で下ごしらえを開始した。使用する野菜は細かく切り刻んで調理時間短縮を狙う。早く煮えて消化吸収も良くなる一石二鳥の作戦だ。


 当然だが、手が二本より四本のほうが仕事ははかどる。あとは煮るだけの状態になるまであっという間だった。

 クルトが朝の一服を終えて母屋に貼ってきたので、ラウルは一日の予定を確認しておく。これは今までの彼にはなかった行動だ。


「親方、今日の仕事はどうなりますか?」

「むむ、いやに殊勝じゃねぇか」

「ざっくり段取りだけでも聞いておこうと思って」


 作業予定は第三号計画の杖を除いてラウルの脳内備忘録に記録されているものとほとんど変わりはなかったのだが、クルトはひとつだけ新計画を追加してきた。


「小さいシャベルはどうだ?」

「はぁ」(花壇用かな?)

「野営道具、穴掘り、いざという時には近接戦闘もできるような……」


 クルトはラウルに設計図つづりを出させて、荒っぽく完成予想図を書き込んでゆく。柄材はスリングショット用に切断した残り半分を加工して丁字型に成形する。

 問題は残る部品が鉄工であり、それなりに工数もかかることである。

 いわゆる刃孔差し込み式といわれる刃床部は、柄を差し込む筒状に丸められた鉄板を二枚の鉄板で挟み込み、外縁部を折り返して鍛造しながら圧着するのだが、この面倒くさい方法が一番強度が出る。

 クルトは武器としての仕様も視野に入れているから、他の接合方法は問題外だった。


「せ、戦闘!?」

「刃を付けたり尖らせたり、そうなると鞘も必要になるがな」

「穴掘りの道具なんですよね、親方?」

「そうだ」


 原っぱの真ん中で急に大きいほうを催しても安心だぞ、と即席便所をあっという間に構築できる利点をクルトは説いたが、確かに土魔法を使えないラウルには願ったりの道具ではある。少なくとも素手で地面を掘るより楽であろうことは間違いない。

 できれば背嚢にくくりつけるなりして運用したい。常寸より短い“小さなシャベル”は恐るべき攻撃力を秘めた野営道具なのだ。

 なにより、このところラウルは木製製品ばかり手がけていたので鉄も触りたくなっていたところでもある。


「ここのところ木工つづきだったからね」

「ああ」


 さあアツくなるぞ、と天気の話か鍛冶場内の温度なのか区別のつかない形でクルトは宣言したが、辟易している様子は微塵も見られない。むしろ鉄を打ち、息子を鍛えるのが楽しみで仕方がない、といった感じだ。

 

 朝食を速度重視で片づけたラウルは一足先に作業台で柄材に墨を入れて切断個所を明示しておく。柄材は従業員販売価格で手に入れたが、鉄工素材はどうなるのかと気になったラウルはクルトに声を掛ける。


「親方ァ!」

「今行く」


 クルトは段取りから説明する。

 まず、円筒状の部品を炉で熱して先端を潰しながら薄くする。金床の上には鉄板を置き、

位置を調整しながら円筒状部品の薄くなった場所を圧着させる。その上からもう一枚の鉄板を乗せたら接合部分が分からなくなるまで鍛造を繰り返すわけだ。

 もし柄に折り畳み機構をもうけて柄を延伸し、刃床部の手前側に曲げ加工を施せば、足をかけて使用することができる本格的なものもできる。


「えーと、段取りはよくわかったんですが、親方」

「何だ」

「……」(言いにくいな)

「金か」


 しかし、ラウルの金勘定はいらぬ心配だったようだ。

 スリングショットも小さなシャベルも同じく個人用装備なのだが、シャベルに関しては技術指導になるから材料費も無料になるらしい。これは、けいこ道具でも家業の技術継承でもないものに金はやれん、というクルトの価値判断に基づいている。


いつもご愛読ありがとうございます。

ラウルの本業は鍛冶屋なので鍛冶の話も時々出てきます。一応、お話の後半であちこち引っ付ける予定はしています。家業を投げ出さないで良かった、みたいな感じです。

徃馬翻次郎でした。

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