第103話 雨中の客 ⑥
とまれ、魔法は人類に与えられた神の加護ではない。
だからこそハンナは“魔法の発見あるいは発明”という言葉を用いたのだが、これには続きがある。
もし発見しなかったらどうなっていたのか、という研究はどの学者も手をつけていない。それに、魔法以前の人類などという歴史は学校で教えていない。
「大昔は魔族と亜人が対等の関係で、人間は鎖につながれてこき使われてた、なんて人間族にしてみたらとんでもない話よね?」
「鎖……奴隷ってこと?」
「そう。あるいは生贄とか……」
魔法の話が奴隷の話へと繋がってしまったが、ラウルは話の行先が見えず戸惑う。
「いつの話?」
「人間が魔法を覚える前の話よ」
つまり、魔法の発見が種族の立ち位置を変えた可能性をハンナは指摘している。
現在、肉体労働を請け負っている人種は力持ちの亜人が多い。魔族は自らの身体を
永続的に強化する改造を施して重労働をこなしていた。
鞭や鎖の出番がなくなったとはいえ、種族間における社会的地位の逆転が生まれている。貴族連中を見ても、ハンナの実家のような亜人の名門は数えるほどしかない。大商会にしても幹部が鳥系亜人で占められているクラーフは例外中の例外だ。
「あれ、でも、神様が魔獣や魔族に立ち向かうために魔法をくれたんだよね?」
「実際は人間族の地位向上に一役買ったことになるのかしらね」
この逆転現象の歴史を知っていて、人間族をこころよく思っていない亜人は多い。極端な例はハンナの父親であるノルトラント辺境伯である。ひ弱な人間め、知恵だけは回る賢しらな盗人め、とクルトを見下す視線は相当に冷たいものが有った。
魔法の発見は、そのひ弱な人間に地位の向上をもたらしたが、同時に種族間の対立をもたらす。高魔力保持者は人間族に多くみられ、身分や地位を決める基準のひとつに魔力が追加されてからは、その対立はいっそう顕著なものとなった。
今度は人間が亜人を見下し始めたのである。
見方をかえれば魔法による何世紀もかけて実現した報復と言ってよかった。
「ウチはラウルが亜人を差別しない子でよかったわ。リンちゃんみたいなお友達もいるし、ヘリオットさんのところともうまくやってるものね」
「ああ」
「そんなに深刻なの?」
そうラウルが尋ねるぐらい、彼は亜人差別とは無縁だ。概念自体が無いと言ってもいい。
しかし、表面化することはまれだが根深いものが存在する、とクルトは言う。
これは彼の新婚当初、ハンナの父親にアイアン・ブリッジの新居を犬小屋呼ばわりされたことは含まれていない。
争いの種のようなものを魔獣騒ぎの時にいくつか見た、と彼は言う。
例えば蜘蛛に噛まれた子供を治療する際には、負傷の大小ではなく被害者の経済状況が重視されていた。身もふたもない言い方をすれば寄付金の多少で優先順位を決めていたのだが、そのせいでひと悶着あった。さらに、エスト第四番坑道の入り口で採掘作業員が救出作戦の可否をめぐって鉱山主や聖騎士と衝突しかけた場面はラウルも見ていたが、割りを食っていたのは亜人かその子供だ。
(何かのきっかけで吹き出すかもしれないってことか)
人種間対立などできることなら巻き込まれたくないが、これはラウル一人で何とかできる問題ではない。教会は人間の待遇を改善することに成功はしたが、勢いが付きすぎて無用の摩擦をも生み出してしまったのだ。
もしかして幼少期におけるいじめの原因は魔力不能と異人種混血の二重苦だったのか、とラウルは今になって思い至った。母親は高貴の生まれだが出自を言って回るような真似はしていないから、魔力不能の上に半分人間の半端者と、人と亜人の双方からさげすまれていたのだ。
結局、ラウルは聖タイモール教会が持つ宗教的権威の源泉について尋ねただけなのだが、あまりにも国家の中枢に深く食い込んでおり、ともすれば王国臣民を操作できるほど強大な力の持ち主であることを思い知った。
それにしても、ハンナの言を信じるなら、アルメキア王国民のほとんど全員が精霊契約の儀式で騙されている、ということになりはすまいか。
「魔力の根源である精霊……は見たことないけど、自然や大地の恵みに感謝することは確かに大事よ。祈る相手が神様でもかまわないわ。でも教会のやってることは……」
「ラウル、わかっているとは思うが、こいつは酒場で気楽にできる話じゃねぇぞ」
「わ、わかってるよ!」
ラウルとて火あぶりは御免である。慌ててクルトに同意し、うっかり口を滑らさないように肝に銘じた。酒を過ごしてしくじる呑み助ではないが、物事に絶対はない。
壁に耳あり、ではないが嫌な世の中だ、とラウルは改めて思う。
ねっとりと首筋にまとわりついた湿気は雨だけのせいではない。
やっとのことで魔族侵攻による被害から立ち直ったころには、すでに次のもめ事が出番を待っているような厳しい世界なのにもかかわらず、王族をしのぐ権力を有する宗教勢力が幅を利かせている。
さらに、ジーゲル家では神の目まで気にする必要があるときては、現在の状況を端的に表現する言葉が見つからなかった。
後世の歴史家からすれば“混沌”あるいは“動乱の前触れ”とされるのであろうが、ラウルがその時代を生き抜くにはあまりにも未熟で準備不足だった。なにしろ彼は一介の武器職人見習いなのだ。
彼が否応なしに運命の渦に巻き込まれ、本人の志よりもはるかに大きな目に見えない力に引っ張られる形で自らを高めることになる日々はすぐそこまで来ていた。
「そういえば、エルザさんは何だって?」
「うむ。何と言ったらいいか、そうだな……」
「あ、言えなかったらいいよ、大人同士の話でしょ?」
「いいえ。ラウルの話よ」
「ヘッ?」(エルザさんには気にする必要ないって言われた気が……)
王都でエルザから託された金貨袋は、基本的に魔獣掃討作戦における報酬分配の性格を帯びていたのだが、ラウルのけいこ道具購入に充てるか、もし彼にやりたいことができたら軍資金にしてほしい、と手紙に書かれていればクルトもハンナも断りにくい。
芸事の師匠と言うよりは、まるで弟を思いやる姉のような文面にジーゲル夫妻も少なからず心を打たれたようである。
「それだけお前を想ってくれている、ってこった」
「……感謝しないとね」
「目に見えるものだけとは限らないわよ、ラウル」
最後にハンナは謎のようなことを言ったが、それこそが本来は神や精霊に捧げる感謝の心であろう。
少なくとも魔力の大小に振り回されて教会に積み上げる金品のことでは断じてない。
ラウルは理解できたかどうか、ジーゲル夫妻にとってはエルザやリンのような存在が精霊そのものとも言える。
すっかり煮詰まって二進も三進も行かなくなっていたラウルの心を解きほぐしたり、ともすればやけを起こそうとする暴れん坊を陰日向で見守ったりするのだから、ほとんど家庭を守護する妖精の類と言えた。
謎がとけずに口を半開きにする息子を見たジーゲル夫妻は、やれやれ、といった感じで解散と休息を宣言する。
目に見えないものへの感謝は他人に指摘されて気付くものではなく、自ずから感得するものだし、第一、今日のところは遅まきながらもリンに感謝の気持ちをつたえたラウルの行動を評価してやらねばならなかった。
「今日はもう疲れただろう。仕事は明日だ、明日」
「ラウル、お湯で身体を拭く?たらいで温まったほうがいいかしら?」
「拭くだけでいいよ、昨日ちゃんとした風呂にはいったから」
「風呂?ちゃんとした風呂ってどういうこと?」
「ラウル……お前……」
ジーゲル夫妻の感覚では、設備の整った風呂は貴族の屋敷か高級住宅街、もしくは娼館のお道具である。ラウルの立ち寄り先に貴族の屋敷はなかったはずだ。もちろん貴族の知り合いもいない。
「何だよ、オレは何を疑われてるの?」
まるで衛兵隊にしょっ引かれて取り調べを受けている者のようにも見えるラウルだが、内心では震えあがっている。
王都行きの報告が完全ではなかったためだ。
「昨日のお泊りの様子を聞きましょうか、ラウルさん?」
「えっ!?」
はたしてハンナの質問は一番聞かれたくないものであった。
そして、クルトはもう一歩踏み込んで決めつけていた。
「てっきりスケベなしで帰ってきたと思ったが抜け目ないな」
「ち、違うッ!」
臥竜亭の新営業形態を説明することでラウルのスケベ疑惑は直ちに晴れたのだが、そのかわりにエルザに言い寄ってあっさり撃沈したことも報告する羽目になった。
「それは……何とも言い難いな」(勢い以外は評価できん)
「だから黙ってたんだよッ!」
確かにフラれたことをいちいち親に報告する子供はいないと思われる。仮にいたとしても少数派であろう。
「エルザさんは師匠、姉さん、先輩。いいわね?」
ハンナはラウルに線引きを命じた。
つまり、番を断った後も師弟関係を継続してくれるエルザに感謝して、師事の礼をラウルに守らせる方針である。
これにはラウルも異存がない。
何をするにも強くなってから、と決めたばかりだ。
ラウルの決意に応じたかのように雨が止みつつある。
雨上がりの澄んだ空気をもってしてもラウルの煩悩を洗い清めるには至らなかったが、恥ずかしさで火照った彼の顔を冷やすには十分だった。
(結局、全部しゃべることになってしまった……)
ほんの少し前に、ウチでは隠し事も嘘もなし、と格好良く決めたせいである。
(寝るか……)
温かいおしぼりで身体を拭いたラウルは洗い場から自室へ引き込むと泥のように眠った。
寝るときは下着一丁派の彼は寝返りのついでに布団を蹴飛ばしてあられもない姿を披露していたのだが、ハンナがそっと部屋に入ってきて半ケツを修正し、布団をかぶせ直していたことに気付いていない。
足音で跳び起きないあたりは武人として落第だし、オスとしては何とも頼りない限りだが、それでもハンナはラウルの成長を喜んでいた。
(鍛冶屋の跡継ぎなら十分よね!)
身体は丈夫で人付き合いもそつがない。ちょっとしたものなら自作できる武器商人も悪くないじゃない、とハンナが思うのも無理からぬことである。
問題は運命の歯車に彼女の意思が一切影響しないことだけだった。
いつもご愛読ありがとうございます。
二重の差別構造みたいな話をうまくお伝えすることができたでしょうか。魔力の大小と人種に関連するもの、ひとつは大っぴらに語られ、もうひとつは声は小さいが根深いものが有る、といった感じです。
その意味でも異人種混血のラウルはたいへんだった、という線は少し原作に沿っているかもしれません。
原作は鱗のような模様があるとかもっと露骨でしたが。
徃馬翻次郎でした。