第99話 雨中の客 ②
刻一刻と日没に近づいているなかで、クルトとラウルは向かい合って座り、ハンナは玉ねぎ、にんにく、生姜といった香味野菜をみじん切りにしている。人参の皮もむいているが、これは付け合わせとして茹でるらしい。
ラウルはひとつ気になっていたことをクルトに聞く。
「その神様は、タイモール教の人たちが拝んでいる神様なの?」
「おそらく、違う」
クルトは言うべきか迷ったが、聖槍解放時に見た白昼夢について話すことにした。目もくらむような閃光、続いて発生した衝撃波、時間を無視してゆっくりと吹き飛ばされる不思議な感覚、その時にふと見上げた空にいた半透明の存在は、明らかに鳥系亜人の特徴が見て取れた。
もしもそれが神であるなら、聖タイモール教が崇める人型の御本尊とは全く異なる。
それに、タイモールの神が唯一無二の存在と誰が決めたのか。
東方諸島では八百万の神々と称して、神は万物に宿る、とまで言うと聞く。ならば強力な力を持った神が複数存在しても何ら不思議ではない。
「うっかり口に出せないね」
ラウルは改正アルメキア王国法に反する異端者として告発される可能性を指摘した。
「だから、言えなかったんだ」
唸るように声を絞り出したクルトをハンナが呼びつける。
「あなた、パンを削り下ろしてくださる?」
「任せろ」
入れ替わりにハンナが席に着いた。
彼女は前掛けで濡れた手を拭きながら、ラウルの様子をうかがう。
「急に神様だとか面食らうわよね?」
「まあ、うん」
「母さんがみんなを巻き込んだ形になってる、って気付いたのはずっと後のことなのよ」
「巻き込まれたなんてこと……ないよ」
ハンナはラウルの励ましに、ありがとう、と礼を言いながらも表情は晴れなかった。自分が聖槍を持ち出さなければ、強いオス探しは止めて大人しく貴族の子女としての務めを果たしていれば、このような事態にはなってはいない、と考えると胸が痛んだ。
クルトを巻き込んだ結果が愛する息子の存在だというなら、これほど彼女にとって悲しいことはない。
それでも彼女は説明を続ける。
「ラウルだけじゃない。誰にも想像できないくらい大きな力が働いて、私たち家族の運命を回そうとしているの」
「……」(それが神様?)
「最初に神様の目に留まったのは私のご先祖様、かつては私たち夫婦、将来的には子孫」
「孫の代まで?」
「わからない。どの代で発現するのか、しないのか。神様からの依頼がどの程度なのか。ウチの伝説にしたって、どこかの言い伝えみたいに何らかのたとえ話である可能性も捨てきれないし、何かが起こるまで……わからない……」
例えば、魔獣が暴れて住民が難儀していたので英雄が退治しました、という昔話は大陸中で残っているが、その魔獣は生物ではなく、実際は暴れ川や疫病のことを隠喩的に表現したものだったことも多いのだ。
ところが、クルトとハンナには聖槍と指輪が現実として存在する。
二人が戦った奴隷王は比喩などではなく、物質化した恐怖そのものだったから、言い伝えやお伽話と割り切ってしまうわけにもいかなかった。
何しろ二人は生き証人と言っていい。
神から直接何かを頼まれた覚えはジーゲル夫妻にはないが、死力を尽くしてもなお乗り越えられぬ災厄とぶつかり、聖槍の助けでかろうじて命を拾った過去を忘れることができようか。
自分たちは生き残ることができたが、ラウルはどうか、孫はどうかと考えながら、何時くるかもわからない神の依頼に一生怯えて暮らすのも辛い話だ。
だから、両親が奴隷王を葬ってから二十年という期間で油断し、息子の魔力不能が判明したことによって神の目から逃れたと思い込んだことを、ラウルは責めるわけにはいかなかった。
「パン粉ができた」
クルトが戻ってきてハンナと交代する。
彼女はヘリオット家からのおすそ分けで獲得した鹿肉を今夜で使い切るらしい。肉塊だけでなく骨に着いた肉もきれいにそぎ落としている。
「ひとつ、頼みがある」
ハンナはああ言ったが、全部をハンナと先祖のせいにしないでやってくれ、とクルトはラウルに頼み込んだ。
お前に頼めた義理じゃないが、と息子に向かって頭を下げる父親をラウルは慌ててやめさせる。
しかし、父親の要請を受けるなら、こう聞かねばなるまい。
「母さんのご先祖様とオレの魔力は関係あると思う?」
「俺は……ない、と思う」
なぜなら、伝説では神の依頼は強大な加護や祝福と引き換えになっているからだ。自分たちの場合も聖槍を勝手に持ち出して振り回したのが先であり、その型によれば、ラウルは超魔力や異能の持ち主として生まれてきていてもおかしくない、とクルトは自分なりの推論を語る。
実際はどうであったか。聖槍どころか魔法道具も使えない不能者というラウルの存在自体が伝説にそぐわない証拠でもあった。
「だったら母さんが謝る必要ない」
「騙していたことを許してくれるなら、そうだ」
聞き耳を立てていたのか、気分を良くしたハンナの調理速度が上昇する。
鹿肉を細かく切り分けた後は料理ナイフをもう一振取り出して、二刀流で肉を叩き始めた。凄まじい速度で繰り出される小さな斬撃は肉塊をたちまち挽肉に変えていったが、この時点でようやくラウルにも夕飯の見当がついた。
鹿肉のハンバーグだ。
ラウルはようやく合点がいった。
すべては息子を守るために吐いた両親の嘘だったのだ。ラウルはとっくに両親を許す気になっているが質問がなくなったわけではない。
ひょんなことから魔力不能が治った瞬間に神からの依頼が舞い込むのではないか、という疑問は当然のことだ。
「その通りだ。お前も気をつけてくれ」
「何に?」
「そりゃ、おまえ……」
ホタルといい勝負の照明魔法がお日様みたいにまぶしく光るようになったら、さすがに気付くだろうが、とクルトは述べる。
さらに彼は続けて、治ったほうがいいに決まってるが、ここまで来てしまったら俺はよくわからん、と言ってラウルを考え込ませた。
クルトが言うこともラウルにはよくわかる。
“生身の限界に挑む”と言う確固とした目標は魔力不能者だからこそ出てきたものだ。魔法が使えるようになったから目標は取り下げます、では何ともみっともない。
それに、傭兵旅団長や戦士兄弟は、ラウルの魔力不能をまるでシモの不能のように気の毒がって、いつか治るかもしれない、と励ましてくれたものだが、考えようによっては魔力不能が続く限り神の来訪もない、と言い換えることもできる。
クラウス学院長もロッテの治療と並行して原因究明に当たっているが、治せるとわかったとしても、安易に飛びつかないほうが安穏な人生を送れるのではないか。
現時点では、魔法が使えるようになったことと引き換えに、とんでもない災厄にぶち当たるのは御免だった。
見違えるように強くなったとしても、冒険は手ごろなものから始めようと思っている。ラウルは身体こそ鍛えてはいるが勇者でも騎士団長でもないのだ。
ところが、ラウルの魔力不能を何とかしてやろうと躍起になっているのはクラウス学院長だけではない。ジーゲル家の知らないところでリンも魔力不能の治療法を探している。
これらの動きを俯瞰的に見た場合、是が非でもラウルを運命の渦に引き込んでやろう、という何者かの意思が見え隠れするのは気のせいではない。
夢の中で接触を図ろうとしてきた存在をラウルは忘れてしまっている。
「あなた、こねるの手伝って!」
「おう」
調味料と香味野菜のみじん切りを肉の入った鉢のなかへ放り込むと、ハンナはクルトと交代した。
巨人の手ごねハンバーグは怪力の撹拌によって無類の粘りを生むだろう。ハンナの手では同じだけこねようとするうちに肉が温かくなってしまう。
肉汁を閉じ込めるにはフライパンとハンバーグの温度差こそが重要なのだ。
「母さん、隠そうとしたこと全部無駄になってたんじゃない?」
ラウルはそう言うが、クルトもハンナも危険な存在からラウルを遠ざけたい一心で、過去を偽っていたのだ。どれだけラウルにせがまれようが、彼女が夫婦のなれそめを詳しく話したがらなかった原因も同じである。
「ほんと、迂闊だったわ。二十年そこいらで自分たちのしたことが世間から忘れられるはずもなし……」
フライパンに油を引いて温めだしたクルトを見ながら、ハンナは反省の言葉を口にする。神の依頼がどの代で発現するかわからないのなら、ラウルがある程度大きくなった時点で何もかも話せばよかった、と彼女は思う。
しかし、いじめによって荒れていたラウルに荷物を追加で背負い込ませることがためらわれて、今日まで来てしまった。不完全で穴だらけの取り繕いを押し通してしまった。
「蜘蛛退治も人力でなんとかなったし、神様の件は大丈夫と思っていい?」
“人力”とは聖槍の力に頼らないで、という意味である。
「問題はそこよね……」
実は蜘蛛型魔獣掃討作戦の編成にラウルも加えてもらったのは、彼が怪異に首を突っ込んだらどうなるかを試していた側面もある。
もし魔力の有無に関係なく聖槍の力に頼らねばならない相手が出てくるようなら、ラウルの生き死にや行動範囲に影響する。
死ぬのが嫌なら山奥の僧院で暮らすなどしなければならないだろう。
親玉の巨大蜘蛛を冒険者部隊と衛兵隊の混成で対応できた結果を見るに、ジーゲル家の存在が妖異の脅威や規模に影響していることは少ない、とハンナは結論付けた。
「神様は見逃してくれたのかな?」
「そう願いたいわ」
彼女とて奴隷王を排除して生還できたのは僥倖だと思っている。家庭をもてたのはさらなる幸運だろう。
ハンバーグが焼けてくる音と匂いを感じると、さらにその思いは募る。
「あなた、ひっくり返して蓋よ!」
この幸せを維持するには神のお目こぼしが必要だ、とも彼女は思う。
「見逃してもらえた、とは思うけど気を付けてね」
クルトと似たようなことを言うが、内容は若干異なるようだ。
「危ないのはダメよ」
「助かる目を増やすために生身を鍛えようとするのはダメかな?」
ハンナが言う“危ないの”とは、冒険者の真似事や目に見える危険は避けろ、という意味だったから、やむをえず何らかのもめ事に巻き込まれる場合を想定して、多少なりとも生還確率を上げておきたい、というラウルの主張はハンナにも理解できた。
なにしろ神からの依頼内容や巻き込まれる騒動の規模や有無については全くの予測不能だからであり、まさかとは思うが、魔力量に応じたものが用意されていないとも限らない。
「それなら私もラウルの訓練に参加しなくちゃね」
「えっ?作ってるのは木剣だけだよ、槍じゃないよ」
「なによ、さっきのナイフさばきを見ていなかったの?」
それは挽肉作ってただけだろ、とラウルはつぶやいたが、小剣や短剣には二刀流の型が実在する。受け流しと突きこみを同時に行なう攻防一体の流儀だ。
実際、ハンナの二刀流はなかなかのものなのだが、彼はそれを知らないだけなのだ。
「まあ!言うわね、ラウル!子供に後れを取る親なんていないことを覚えておきなさい」
本当は棒切れ一本どころか素手でもハンナはラウルに負けっこないのだが、息子のやる気をそがないために、引き分けという体にしておく彼女だった。それでも、後れを取ることなどあってたまるか、と言わせたのは狼の血である。
「なんだか腹が減ったよ」
ラウルは急に空腹を覚えた。
お昼はサーラーンの隊商でご相伴にあずかったが、少々早い時間だった。あるいは、聞きたかったことに嘘のない答えを得て、言いたいことも言った気分も手伝ったのかもしれない。
「ちょっと早いけど、すぐに支度するわ」
「精算は?」
「今回は残りをそのまま持っていて良し、でいいかしら。あなた?」
フライパンの蓋をあけて湯気をあびて匂い嗅いでいるクルトに了解を求めるハンナだが、もともと家計は彼女の聖域である。彼には否も応もなかった。
「ああ」(エライぞラウル。遊んで帰ってきたらエライことになるところだった)
あえてクルトは口には出さないが、息子がスケベな遊びをせずに真っすぐ帰ってきたことを評価している。これで一応は店の経営陣として金を扱う仕事も任せられる。
「大銀貨は?」
「持ってなさい。出来れば忘れておくことね」
「はぁ」(そういえば、お守り代わりって話だったな)
実は息子に浪費癖がないか調べるハンナの試しだったのだが、ラウルはこのことを知らない。
「良い色に焼けた」
クルトの宣言通りにハンバーグが焼き上がり、付け合わせの野菜も茹で上がった。食卓の上を片付けて背嚢に仕舞い、食器を出すのを手伝う間に、ラウルはようやくとがっていた気分を落ち着けることに成功する。
小さく切って炙ったパンが籠に盛られて香ばしい匂いを漂わせている。
その芳香が三人の食欲を刺激するとともに、気持ちを和やかなものにした。
食前の祈りを高速終了した三人は今後の方針を再確認する。
「これまで通りってことになるのかな」
「そうだな」
「やることがたくさんできたわね、ラウル」
家業の鍛冶修行だけではない。けいこ道具の準備、エルザが出した宿題、戦闘訓練が本格化すればリンやコリンも呼んでの作業になる。
たしかに大忙しだが、その前にラウルは両親とひとつだけ約束をしたかった。
「これからはお互いに隠し事や嘘は無し、ということで」
「うむ」
「誓うわ」
これにはジーゲル夫妻もそろって同意する。しかし、満足気なラウルをハンナがひやりとさせる一幕もあった。
「ところでラウル?」
「なに?」
「首飾りを付き合いで買ったとか……」
「うん」
「どんな石がついてるの?鎖は銀?金?」
単純にサーラーンの職人技を見てみたいだけのハンナの問いかけだったのだが、隠し事や嘘は無しと約束したラウルを早速追い詰めることになる。
仮にリンへ贈ったのが発覚したところで、やましいところは何もないのだが、こいつめ色気づきやがって等々いじられるのが面倒なのだ。
しかし、空色の貴石がリンの胸元を飾っていると聞いたジーゲル夫妻の反応は意外なものだった。
「ほお」
「ちょっと遅かったぐらいね」
「はい!?」(遅いってどういうこと!?)
「はあ、もういいわ。冷めないうちに食べましょ」
「そうだな」
「な、なんだよッ、二人そろって」
年頃のお嬢さんが飾り気のないことに何にも気付かんのか、このスカポンめ、と言いたい気持ちを抑えながら、クルトは茹で人参にとりかかっている。
一方ハンナは、リンちゃんの光物一番乗りがラウルということは絶対に脈ありね、と内心を隠すことなくにやにやしながらハンバーグをほおばっている。
つまり、ラウルの両親はそろってリン推しなのだ。
ラウルの気持ちはさておき、楽しい夕飯の時間はすぎてゆく。
外は糸のような冷たい雨が音もなく降りしきるなか、ジーゲル家の夕刻は実に温かなものだった。
いつもご愛読ありがとうございます。
元ネタのタツノコやコタロウ世界では、
1.母親に神格がある(神獣・龍神)
2.母親がやらかした(禁忌・掟破り)
だったのですが、本作では足して割ってみることにしました。これで原作を軽くなぞったつもりではいますが、あのやたらと長いクルトとハンナの若いころのお話を思い出していただければ幸いです。
原作における母親を探す旅は別の誰かに会うための旅へと変わります。お楽しみにお待ちください。
徃馬翻次郎でした。