第96話 垂れこめる暗雲 ⑩
魔石と魔法素材の大量入荷があった時点で、グスマンは東方諸島への輸出を企画した。
ポレダの港町にあるクラーフの支店へ移送計画を立てたのだが、その日のうちに頓挫すてしまう。東方諸島からの仕入れが海賊の襲撃によって止まっていることが判明したのだ。
ポレダの港町から文字通り飛んできた職員は、すでに馬鹿にならない数の商品未達が発生しています、と海賊被害をグスマンに報告し、その足で王都のクラーフ本店へ同様の報告をすべく飛び立った。
仕入れが止まっている状況で商船を送り出すのは分の悪い賭けになる。必然、港町へ移送しても倉庫で眠ってしまうだけになり、いつまでたっても金貨に化けてはくれない。
そこへ来て、この野盗騒ぎである。
野盗と海賊のせいで荷物を動かすことができないエスト支店は立場が弱いから、交渉はどうしても買手有利になってしまう。
グスマンもそのことは百も承知なのだが、あからさまに足元を見られ続けた結果、神様のはずの客をもてなす気持ちも失せた、というわけで呪いの言葉が出てしまったのだ。
「まったく客商売にあるまじき失態を見せてしまったな。忘れてくれれば有難い」
ところが、今日のラウルは見なかったことにするどころか、グスマンの呪詛すら帳消しにする秘策を持っている。
「グスマンさんの言われる通りにしますけど、忘れてしまう前に、先祖の墓に誓ってあまりエグい値切りをしてこないサーラーン商人を紹介したいのですが……」
「な、なんだって!?」
「ハディード商会のナジーブさんご一行です」
ラウルが話し始める前に、グスマンは呼び鈴を使うのも忘れて応接室の扉を開けた。
「お茶をお出しして!」
店員に命じて戻ってきた興奮気味のグスマンにラウルは王都出発時からのいきさつをかいつまんで話す。
「ハディード商会はご存知ですか?」
「サーラーン最大手。クラーフでは本店とだけ取引してエストは素通りしてきた方々だ」
しかし、とグスマンは話を続ける。
ラウル君の紹介が本当の話なら、商談は今回だけのことに留まらないし、エストに休息用中継地点以上の意味を持たせることができる、と彼は述べる。
王都に向かう往路で荷下ろし、復路で買い付けをしてくれれば新たな販路開拓どころか、さらなる繁栄をエストにもたらす可能性がある、とグスマンは言うのだ。
今回予定される取引は蜘蛛型魔獣由来の魔石と魔法素材になるはずだが、ハチミツ、羊毛、エスト鋼、新たに米といった特産物を前面に出す機会であり、それぞれの産業に活力を与えることも期待できる。
「ここだけの話、仲介手数料はいくらかね?」
「この件では何もいただいていませんし、誰にも要求するつもりはありません」
「そんな……本当かね?」
そんな馬鹿な、と言いそうになったグスマンは言葉を飲み込んだ。手数料で儲ける商会の常を思えば、ラウルの行動は常軌を逸している。
「ナジーブさんとは困ったときに助けてもらえる約束をしましたが」
「口約束?」
「そうです」
これまたグスマンには信じられないことだった。
そこへ注ぎ口から湯気を立ち上らせているやかんを持ったリンが入ってくる。茶道具は支店長室内に置いてあるものを使用するのだが、応接机の上が片付いているところを見ると、さきほどの客には茶も出さなかったようだ。
「いらっしゃい、ラウル。ちょっと待っててね」
「ありがとう、リン。喉がかわいてたんだ」
お二人さん邪魔して悪いが、とグスマンは話を続ける。
「エストに滞在しておられるのかな、えー、ナジブさんは?」
「ウルケシュ・アーメド・ナジーブさんは『楡の木』にお泊りです」
ラウルはきちんと名前を訂正しながら返答する。名前を間違える失礼があっては一大事だし、グスマンの第一印象だけでなくラウルの信用にも影響するからだ。
「こうしてはおられん。さっそく宿にお伺いしてどの程度の商いになるか確かめないと!」
名前を紙片に書き留めてから猛然と外出の準備を始めるグスマン支店長をリンとラウルが押しとどめた。
「お父さん、お茶!」
「グスマンさん、ちょっと待ってください」
二人同時に止められたグスマンは仕方なく椅子に座るが納得はしていないようだった。
「リン、茶はお前がいただきなさい。ラウル君、善は急げ、時は金なりと思うが何らかの準備や対策が必要なのかね?」
期せずしてラウルは批評家の仕事をすることになるが、数時間前に習得したサーラーン的礼儀や習慣に関する浅い知識のおかげで、少しは気の利いた提案ができる。
「楡の木にお出かけになるなら、まず、手代頭のウルケシュ・ユスフ・ハキムさんを呼び出してください」
「ハキム氏……なぜかね?」
「ナジーブさんは娘さんと同行されているので、どんな不都合があるかわかりません」
グスマンが氏名を書き留めているハキムはナジーブの側近である。
グスマンの訪問をナジーブに報告し、会談の場として彼らの客室以外の場所を用意するはずだ。食事が男女別だったのだ、どう頑張ってもグスマンは客室には入れてもらえない。
「ハキムさんならグスマンさんとナジーブさんが気持ちよく話ができる場所を考えてくれると思います」
「なるほど。他には?」
「向こうから切り出されない限りは雑談だけにとどめて、明日商談する約束を取り付けてください」
「雑談……何でもいいのかね?」
ここから先はハキムの受け売りをするしかないラウルである。オレの場合は守り刀の話がウケたので、私にも娘がいまして、という話は突破口になるかもしれない、という提案をした。
最後に、方角測定用魔法道具が壊れて難儀していることは間違いないので、上手に修理できる工芸師がエスト支店に在籍しているなら、とても喜ばれるんじゃないでしょうか、と述べて批評家の仕事を締めくくる。
「ありがとう、ラウル君。何とかなりそうだ」
「遠来の客をもてなす心でお願いします」
えらく君はサーラーンに染まったな、と笑いながらグスマンは再度外出の支度に上機嫌で取り掛かった。
ナジーブさんがどこの通貨でどれだけお持ちかは知りませんよ、とラウルは念押しするが、その心配は無用だったようだ。
動かすものが金貨袋だけならグスマンであれリンであれ鳥系亜人の変化で対応できるし、本店の金庫で両替もすぐにできるからである。
さらに言えばハディード商会の訪問は、エルザへの支払いで現金が不足気味のエスト支店にとっても干天の慈雨になる可能性があった。
念のため、グスマンはリンに帳簿を持って来させて、魔石や魔法素材の在庫を即答できるようにしている。
これを見たラウルは、さすが商会の人だ、と感心した。
(これができないと商会勤めは厳しいってことだな)
自己を鑑みれば、ラウルはジーゲルの店における在庫を目に見える範囲でぼんやりとしか把握していない。原材料の在庫にしてもよくわかっていなかった。
(覚えることがたくさん……)
もはやラウルの脳内備忘録はちょっとした衝撃で頁が抜け落ちてしまいそうなほどに一杯になっている。金銭に余裕があるなら、代わりに覚えてくれる人を雇いたいぐらいだ。
「よし!出かけてくる。リンはラウル君のお相手を頼む。お見送りも忘れずにな」
「任せて。行ってらっしゃい、お父さん」
応接室を飛び出すグスマンは自信に満ちている。
もともとの商才に加えて、ラウル=ジーゲルという突如として現れた新進気鋭の批評家による支援もあるのだ。
ラウルは茶をすすっていたが、横に座ったリンの視線に気づく。
見つめるというよりはお気に入りの服に虫食いがないか調べているような目だった。
「お帰り、ラウル。無事でよかった」
「野盗の話?往復どちらも出くわさなかったけど……出かけるって言ったっけ?」
リンには王都行きを話していなかったことにラウルは気付く。
エルザの訪問自体が偶然であり、そこから流動的に動いたこともあって、彼の王都行きを知るものは少なかったのだ。
「昨日、お邪魔したら……」
「出かけた後だったんだな」
「うん。足の具合を聞こうと思って」
「オレの足?ああ、もう大丈夫だよ」
すまんな、いいよそんなの、という慣れたやり取りをかわした後に、リンは旅の同伴者について、どうしても聞いておきたい欲求を押さえられなかった。
高鳴る心臓の鼓動を感じながらリンはラウルに問いかける。
「エルザさんと出かけたんだよね?」
「そうだよ」
「外泊でしょ?」
「都合で同部屋に押し込まれたけどね」
この時点でリンの心臓は早鐘のように拍動を加速した。
「……」(ま、まさか)
「し、師匠と弟子だぞ。何にもなかったよ」
「本当は?」(ちょっと目が振れたな)
「断られました」
早鐘は乱打から規則正しい打ち方に落ち着く。あまりにも無残な彼の落ち込み方が彼女を冷静にしたのだ。
「ふーん」
「ふーん、ってなんだよッ!」
「理由は?」
「へっ?」
「断られた理由」
「弱いから……」
今日のリンはなぜか手厳しい、とラウルは感じている。
心の傷口に塩をすりこむような詰問調はなぜだろう、とも思っている。それはひとえにリンの乙女心をまったく理解していないラウルの責に帰するものなのだが、鈍感ラウルは失策に気付いてすらいない。
さらに、エルザにしてみればラウルの誘いを断った理由はもうすこし複雑なのだが、言葉にした部分は少ないので、彼が額面通り受け取って“弱いから”となったのである。
「オレ、悟ったよ」
「な、なに?突然」
「今のままじゃ嫁さんや番どころか恋人もおぼつかない」
「そうかなあ……」
「生身の限界に挑むのはもちろん、もっと鍛えてうんと稼いでさ……」
「ええ……」(とんでもない動機だな)
ここでリンが、ラウルなら何でもいい、とばかりに彼の胸に飛び込んでいれば歴史が変わったのだが、彼女の複雑な心情がそれを許さなかった。
エルザに言い寄ることもフラれたことも何らリンがとがめだてすることではないのだが、隠そうともしないラウルに腹が立った、というほうが正確かも知れない。
ただし正直という点では評価できる。どちらかと言えば馬鹿がつくほうの正直だが、気持ちの悪い嘘を吐かれるよりはずっと良かった。
「リンだって亜人的なこだわりってあるだろ?」
「わ、わたし!?」
「そう。番の条件とか結婚相手とか」
ここで再度リンが、ラウルなら条件不問、とばかりに抱き着いていれば話が早かったのだが、今度は彼女に勇気が足りなかった。それこそ亜人的感覚で言えばふしだらでも何でもないのだが、まごついている間にラウルが次の言葉を口にする。
「ああ、おまけに、おうちの都合もあるもんな」
これはリンにとって心外だった。
これまで“おうちの都合”は必死の思いで断ってきたのだ。求婚にしろ縁談にしろ、持ち込まれる話すべてを寄せ付けなかったのは彼の為なのだが、まずは彼の魔法不能を治してから、という意識が邪魔をして気持ちを告げるに至っていない。
その意識の根底にあるのは、彼の魔法不能が神罰でも呪いでもないことを治療することで証明し、信仰の篤い両親に気兼ねすることなく愛を育む計画である。
先につばをつけておく作戦も考えたが、それは彼女の育ちの良さが許さなかった。
一方のラウルが言う“おうちの都合”はロッテのことを念頭に置いている。名門貴族ほどではないが、クラーフ一族の娘であるリンも結婚相手を自分で選べるような自由は少ないだろうと、本気で気の毒に思っているのだ。
それにコリンも“籠の鳥”とやらであったことをエルザから聞いた。裕福な人たちにもそれゆえの苦労があるものだ、ということを考えられるようになっている。
だからこそ、最近のラウルはリンがさらに遠く高い存在に感じられて仕方ないのだ。
リンは返す言葉を探すがなかなか出てこない。お構いなしにラウルは話を続ける。
「オレたちいつまでこうやって友達でいられるんだろう?」
ここでリンがありぎりの勇気を総動員して、ずっと一緒よ、とラウルを押し倒していれば後々何の心労もなかったのだが、ラウルの言葉がまるで恋人から別れ話を切り出されたかのように心に突き刺さってしまい、何か言う前に悲しくなってしまったのだ。
いつもご愛読ありがとうございます。
奴隷の話とか商人に恩を売る話がねっとりと続いておりますが、後々いろんな話にひっつく予定です。
それにしてもリンが万難を排してラウルを押し倒すのはいつのことになるやら。
リン!ラウルのスケベに悪気は無いんだ、大目に見てやれ!
徃馬翻次郎でした。




