提案
「全世界の諸君! おはよう!」
その日、世界中の空にそんな挨拶の声が響き渡った。
「朝も早くから近所迷惑甚だしいのは重々承知しているが、男も女も老人も子供も猫も杓子も今すぐ起きて、静かに真面目に僕の話をしっかり聞きましょう。分かったか豚共」
唐突に世界に響き渡ったその声と空に浮かび上がる幻に、世界中の人々が驚愕した。
「な、なんだありゃ?」
「なんかの魔法か!?」
「というか誰だアイツ!?」
世界中でそんなざわめきが巻き起こる。
「改めて、おはよう諸君。そしてはじめまして。僕の名はスノーディア。魔王スノーディアだ。よろしくしてね糞共」
ニコッと微笑んだ幻が魔王と名乗った途端、
世界が大パニックに陥った。
ある者は泣き叫び、またある者は絶望に暮れ、またまたある者は神に祈りを捧げ、勇気ある者は幻に向けて矢を射った。意味は無いけれど。
世界が混迷する中、幻の魔王スノーディアはニコニコと上空に佇み続けた。
しかし、それも時間にして5分程。
世界中の阿鼻叫喚は、魔王の「うるさい」という一言で、水を打った様に静かなものへと変貌する。
「魔王スノーディアちゃんは、いま5分待ちました。皆さんが静かになるまで5分もかかったんです。それも自主的ではなく、魔王スノーディアちゃんの叱責あってのものです。非常に残念です」
小さな溜息混じりに魔王スノーディアが語る。
「まぁまぁ、そんな事はどうでも良くて。今から僕は君達に、とっても大事なお話をするので、その垢の詰まった汚ねぇ耳の穴かっぽじって良~く聞く様に。一度しか言いませんよ? もう一度言います。一度しか言いませんよ? ――ここは笑うところです」
世界中の誰一人、クスリともしなかったという。
「ひと笑いして場が和んだところで本題です。
実は、つい先日、僕のところに勇者を名乗る愉快な格好をした頭のおかしな男と、それに付き従うやっぱり愉快な格好をした頭のおかしな連中が徒党を組んでやって来ました。
彼らは僕に、何だか頭の悪い御託と、鬱陶しい詭弁、それから反吐が出そうな偽善と、笑っちゃう様な妄想をこれでもかと並べ、吐き捨て、基本、頭のおかしい奴とは関わりたくない僕がそれを全てまるっと無視すると、事もあろうに武器を持って襲いかかったきたのです。あー怖かった(笑)。
そして、いま現在」
幻が音もたてずに変化し、魔王スノーディアの足元で倒れる数人の人物を映し出した。
「その頭のおかしな連中は、僕に手も足も出せずにボッコボッコにされた挙げ句、こうやって地面に這いつくばっている次第です。
つきましては、揺るぎ無いまでの正当防衛なので、僕にはなんの責任も無い事だけ、強く、釘を刺しておきます。あ、僕は怪我のひとつもしていないので心配には及びません。ありがとう」
おそらく、「誰もお前の心配なんかしてねぇよ」という思いで、世界中の人々の心がひとつになった瞬間であっただろう。
「さて、この頭のおかしな連中に関してだが、僕の調べによると、どうやら勇者一行というのは本当らしく、しかも歴史上最強とも称される程の集団であったとか。
まぁ、僕にあっという間にボッコボッコにされた奴らが歴史上最強かどうかの真意の程はともかくとして、僕を目の敵にする聖メネット教会の全面的バックアップを受けた彼らは、いうなれば君達人間の代表として僕の所にやってきて強行に及んだと言っても過言ではない、と僕は考えている。なんせ、石を投げれば聖メネット教信者に当たると比喩されるくらいに聖メネット教会は多くの信者を抱えているからね。
何が言いたいのかと言うとね? 君達の代表が僕に無礼を働いたのだから、これはもう連帯責任だよね? という事を言いたい訳だよ」
澱みもなくスラスラと語り終えた魔王スノーディアが、コテンと小頚を傾げつつ「だからね?」と微笑んだ。
「連帯責任でお前ら全員一人残らずぶっ殺そうと思ってるんだけど」
世界中の人々の顔が恐怖に青褪めた。
その魔王の冷たい微笑みに、世界の終わりを見たのだ。
魔王の足元に倒れ伏しているのは、人々の希望を一身に浴び、魔王討伐へと赴いた正真正銘の勇者であり、そこに疑いの余地は無かった。
歴史上最強の勇者。その肩書きに偽りは無く、魔の尖兵ブラック将軍、暗黒竜ゼノン、死霊王ギルダン、その他にも数々の敵を降し、魔王討伐も目前だと思われていた。
ゆえに、人々の顔は希望に溢れていた。
ようやく、平和が訪れるのだと誰もが信じて疑わなかった。
しかし、結果は大敗。魔王には傷のひとつすらつける事叶わず、勇者は敗れてしまった。
その魔王の強大さ、人類との絶望的なまでの実力さを世界中の人々が目の当たりにしたのだ。
これで絶望するなという方が難しい。
そんな中。
「おっとっと。どうやら僕の考えに異議を申したい人がいる様だ。ちょっと待ってくれたまえ」
魔王がそう言うと、再び上空の幻が変化し、幻の中に一人の少女の姿が映し出された。
整った顔立ち、輝く長いブロンドの髪を持つ少女。
「じゃあ、まずは自己紹介からどうぞ」
魔王が少女に促す。
少女はやや憮然とした表情ながらも、澄んだ声で言葉を紡ぎ始めた。
「世界の皆さん、私の名はマリア・レドルフと言います。皆様には聖女マリアと言えば分かりやすいでしょうか」
聖女の登場に人々からざわめきが起こる。
聖女マリア。聖メネット教において5人の法皇と並ぶ、教会の代表。顔は知らずとも、その名は誰でも知っている。
「世界の皆さん、魔王の狂言に惑わされてはいけません。絶望してはなりません。世界の破滅など、我らの敬愛する創造神メネット様がお許しになる訳がないのです」
凛とした声が世界に満ちる。
「ハッハッハー、勇者もそうだったが、教会は頭のおかしな連中ばっかりだぜ」
「黙りなさい。魔王スノーディア、あなたの傍若無人な振舞いをメネット様は見ておられます。あなたには必ずや天罰がくだる事でしょう」
マリアの言葉を魔王スノーディアは愉快そうに微笑みながら静かに聞いていた。
世界に少しの沈黙が流れた後、魔王スノーディアが指で小気味良い音を奏でた。
「なっ!?」
世界がその音を耳にした次の瞬間、上空の幻の中に聖女マリアの驚きの表情と声が拡がった。
「ようこそ我が家へ、聖女マリア。歓迎するよ」
一体どれだけの力を有していれば可能なのか。魔王の行使した転移魔法により聖女マリアは、一瞬のうちに魔王の眼前まで移動させられたのである。
あまりの出来事に言葉を失ったマリアであったが、それも一瞬だけ。
彼女は気丈にも顔を引き締めると、眼前の魔王をキツく睨みつけた。
そんなマリアの視線など知らぬとばかりに、足取り軽くした魔王がマリアへと歩み寄る。
その魔王の行為にマリアは一瞬たじろぐが、それでも一歩も引かずに魔王を睨み続けた。
そうして、魔王はマリアのすぐ傍まで近付くと、両手を広げて、まるで深呼吸でもするかの様に上を見上げ、空に向けて言葉を発した。
「さぁ、創造神メネットよ。お前の事が大好きで大好きで堪らない聖女ちゃんが、いままさに僕の毒牙によって命を落とそうとしている。大変だー(棒)。天罰でも神の奇跡でも、特に名称にも死因にも僕はこだわらないので、まぁとにかく、その御手と御技で君の大事な聖女ちゃんを救ってみたまえ。歓迎するよ?」
全てを受け止めると言わんばかりに両手を広げたまま魔王が静かに立ち尽くす。
その様子を、世界中の人々が固唾を飲んで見守った。
そうして、たっぷりと間を空けたのち、
「どうやら君は見捨てられたらしいよ?」
哀れみの表情で魔王がそう言った途端、マリアの渾身の平手が炸裂した。
「馬鹿にして!」
「僕をぶったね。勇者にも刺された事ないのに」
ケラケラと愉快そうに魔王が笑う。
「ふん! いい気味です」
負けじとマリアが魔王を鼻でせせら笑う。
「神に見放されたわりに元気じゃないか」
「神は私を見放されてなどいません! これは私が乗り越えるべき試練であり、神は私ならば乗り越えられると信じてくださっているからこそ手を出さなかったのです。神は、人に乗り越えられる試練しかお与えになりません」
「……物は言い様だね」
ぶたれた頬を擦りながら、魔王がうんざりそうに言った。
「けど……乗り越えられる試練ねぇ……」
何かを考える様に魔王が顎に手をあてる。
しばらくの逡巡ののち、
「聖女マリア」
「何です? 私を元いた場所に帰す気にでもなりましたか?」
「……ああ、帰すのは別にやぶさかではないが……。君がこのまま帰ったところで僕が世界中の人間を皆殺しのボロ雑巾にする事に変わりはないよ?」
「私がそうはさせません」
「どうやって?」
「それは……。いえ、それをあなたに言う必要などありません」
「……素直じゃないねぇ」
呆れた様に魔王が小さな溜息を漏らす。
次いで、表情をガラッと変えてマリアに笑顔を見せた。
「そんな君に朗報だ。どうだろう? 僕と君で、ひとつ勝負をしないか?」
「勝負?」
「そう。と言っても、別に野蛮な殴り合いをしようってんじゃない。そんなの僕の圧勝は目に見えてるし、なにより、こう見えて僕は非暴力推進派でね。君にもちゃんと勝ち目のある、正々堂々の真っ当な勝負だ」
「ふん。魔王であるあなたの正々堂々程、胡散臭いものもありませんね」
「それはそっちの勝手な偏見だけど……。まぁいい。どのみち君に拒否権なんか在りはしないんだ。この申し出を受けなきゃ世界は僕の手で木端微塵のぐっちゃぐっちゃにされて終わりなんだから」
ニコニコと微笑んで魔王が告げる。
そうして、微笑んだまま続けた。
「勝負の間は人間は誰も殺さないし、その勝負に君が勝てば、全人類皆殺しは取り止めると約束しよう」
「その口約束を信じろと?」
「僕と君の会話は、いまこの瞬間も世界中に絶賛配信中だ。僕はウソつきになるつもりはないぜ? 生まれてこのかたウソをついた事も無い気がする。なので、約束は守ると約束しよう」
「……いいでしょう。ですが、勝負を受けるかは話しを聞いてからです」
マリアがそう返すと魔王は不敵に笑った。その顔にマリアの背筋が僅かに震える。
「勝負の内容を語る前に、ひとつ大事な事を確認させて貰うのだけど……」
「なんでしょうか」
「僕の認識では、聖女というのは純潔の汚れなき処女だという認識なのだが、違いないよね?」
不躾な魔王の質問に、マリアが不快に顔を歪める。
「それがなにか?」
「いや、ただの確認だよ? では、確認も取れたので勝負の内容を発表しよう。
ルールはいたってシンプルだ。
君の処女を奪えたら僕の勝ち。君が処女を守り通せたら君の勝ち。シンプルだろ?」
「――――は?」
「僕は卑怯者だの、人で無いのに人でなしなどと罵られたくないので正々堂々と君の処女を奪いにいくが、君は何をしても構わない。どんな手を使ってでも貞操を守る事に全力を注ぎたまえ。そうだな……期限は君の二十歳の誕生日まで。いま18歳だから1年ちょっとだね。それまで君が自分の貞操を守り切れたら、僕は素直に全人類皆殺しから手を引こう。だけでなく、未来永劫、君達人間には手を出さないと約束しよう」
「……な、何を……あなたは一体、何を言ってるんですか?」
あまりの内容にマリアが言葉を詰まらせる。
「何をも何も、そのままの意味だよ?」
「ふ、ふざけないで!」
「ふざけてなどいないさ。僕はいつだって大真面目だぜ?」
「何が真面目なモノですか!? そんな勝負聞いた事もありません! 駄目です! 駄目に決まってます! そんな勝負は受けられません!」
「言っただろ? 君に元々拒否権なんか無いんだよ。君が受けなきゃ全員皆殺しにするまでさ」
「だ、だからと言ってそんな……」
「言っとくが、これは君にかなり有利な条件だぜ? 考えてもみたまえ。僕は処女、つまり、君のうれしはずかしドッキドキの初めてを条件として提示した。
わかるかい?
初めて、つまり一回目。二回目では駄目なのさ。ならば、その一回目を奪われない様にするのは簡単だ。奪われる前に誰かに捧げてしまえばいいのさ。それで勝負は決まったと同義。世界は救われ、世界を救った君は正真正銘の聖女として後世に名を残すだろう」
「……わ、私は聖女であり、身も心も神メネット様に……」
「そんなのは僕の知ったこっちゃないぜ」
そう言って魔王スノーディアが、心の底から愉快で堪らないとばかりに下卑た表情で嗤う。
魔王スノーディアの、その凶悪なまでの笑顔を目にしマリアは悟る。
わざとだ。私が聖女であり、立場として純潔であらねばならないという事を全部把握した上で、こんな馬鹿げた勝負を仕掛けてきたのだ。
後世に名を残す? 冗談ではない! 聖女にとって純潔を失うなど、恥以外の何でもない。それが後世に残るなど考えただけでおぞましい。
魔王が言う様に、勝負は簡単に決まる。私の意志次第ではすぐにでも。
それで世界が救える。たった一度のそれだけで。
でも……でも……でも!
「勝負開始は日付が変わった瞬間から。――――ああ、安心してくれたまえ。さっきも言ったが、僕は無理矢理などという紳士の風上にも置けない鬼畜な事はしない。美学に反する。あくまで、正々堂々と、紳士的に、君の純潔を奪いにいくよ。近いうちにね。
その時は、薔薇の花束でも用意しておくよ。だから、それまでは純潔でいておくれよ?」
「……わ、私はまだ勝負を受けるとは、」
「じゃあ、今日はここらでお別れだ。また会おう。チャオ」
魔王が笑顔で軽く手を振った直後、マリアはウル・メネット大聖堂の中にある自分の部屋へと戻された。
そうして、大聖堂へと戻ったマリアは、見慣れた自分の部屋で身動ぎひとつせず、ただただ途方に暮れた。
――こうして、世界の命運を決める、魔王と聖女の馬鹿げた真剣勝負が始まったのである。