三十五話
目の前で獣が這っている。
力なく体を地につけ弱々しく喘ぐ姿は滑稽で、見る者の嘲笑を誘う道化のようであった。
その獣がふと、私の方を見る。濁った瞳に映るのは同じように汚れ切った弱者。アレは誰だろう。まるで自分のみすぼらしさに気づいていないかのような間抜けな顔をしているのは。
「ァ……」
掠れた声にもならない空気の振動が私の耳に届く。
どうやら獣の命も残り僅かのようだ。せめてもの弔いとして見守ってあげるべきだろうか。
いや、必要ない。この世界は弱肉強食。誰かに構っている暇があれば、己のことに手間をかけた方が幾分もマシだ。
「――」
死んだ。あっさりと。
私がどうこうする間もなく、その獣は息絶えたのだ。
なんと呆気ない。これが弱者の行く末かと体が戦慄き、どうしようもないほどに覆しようのない事実に暫しその場に立ち尽くす。
何時までそうしていただろうか。時間の感覚なんて、とうの昔に忘れてしまった。
気づけば私は、やせ細った獣の死体に近づき――。
「ああ、くそ。やっぱりまずいな」
ゴムを噛んでいるような不快感と、ジワリと粘っこい油が染み出してきて口に苦味が広がる。
それでも食わねばならない。そうしなければ次に倒れるのは自分なのだ。
忘れてしまたのは時間の概念だけではないのかもしれない。何か大切な、人としての尊厳。でも、それは生きていくのに必要なものなのだろうか。
私は自分と同じ姿をした獣の死体を見下ろしながら、口元についた血を拭った。
✽ ✽ ✽ ✽
「やぁ、アリスちゃん。今日は探偵さんのお使いかい?」
本日何度目になるのか分からない挨拶に、人の魂を宿した自動人形は困ったように立ち止まる。彼女の腕には小さなバスケットが提げられており、その中には瓶が数個入っていた。
「あ、ええ。えーと、メイソンさん。ミラベルのお店でジャムを幾つか」
「ああ、あそこはパンだけでなくて塗るためのジャムも自家製でオススメだったね。そういえば最近あそこのパンを食べていなかったなぁ。ふむ、ウチの家内に言って明日のお昼にしてもらおうかな」
日焼けした精悍な顔をだらしなくニヤケさせている男にアリスは愛想笑いを浮かべる。これも今日何度目になるだろうか。その度に人工の表情筋は疲れを知らないはずなのに悲鳴をあげているようであった。
別に今のアリスの装いにおかしなところはない。シャーリーから譲り受けたコルセットに黒のフレアスカート。帽子は蝶の細工のある小さめのものという可愛らしさを重視したコーデ。
確かに輝かんばかりの金髪にこの格好は男どもが放っておかない要素が多大に含まれてはいるものの、それでもここ最近の街の人間からの彼女への過剰なまでのスキンシップは違和感を感じる。
「あ、あの! 私、シャーリーを待たせているので!」
男の話が次第に自分の妻に対する惚気にシフトしていったのを聞き、慌ててその場を去るために声をかける。以前はそれに気づかず相手の話が終わるのを待っていたが、そのことをシャーリーから「阿呆か君は」と一蹴されたのを機に、申し訳ないと思いつつも場合によっては話の腰を折ることを覚えたアリスであった。
「え? そうか、本当はもっと話していたかったけど仕方ない。探偵さんに宜しく伝えておいてくれよ守護天使さん!」
またか。
その名で呼ばれる度に自分の顔が急激に熱を持つようになり、すぐにでも駆け出したい衝動に駆られてしまう。アリスは相手に悟られない程度に歩む速度を加速させると、挨拶もそこそこに男の元を離れる。
もう止まらない。もしまた声をかけられたら軽く笑みを浮かべて会釈するだけにしよう。
そう心に決めた瞬間であった。
「おい、探偵のとこの人形じゃないか」
今度は凛とした女性の声がアリスの行く手を阻む。
「ええい、誰だろうと私を止めることはできないぜ! て、貴女はいつぞやの銀髪の君」
「なんだその呼び名は」
アリスは声の主がロゼ中尉であることに気づき、回転数の上がり始めた脚のギアの速度を緩める。
彼女と再開するのは例の事件から数週間ぶりだった。仕事の途中なのか軍帽を被り、腰のホルスターでは蒸気銃が相手を探して銃口を煌めかせている。記憶の中では怖い印象のある彼女とは正直関わりたくはなかったが、『リッパー』ことナギサの件もある。あれからどうなったのか気になるアリスはついさっき掲げた決意をあっさり反故にすると、話をするべく彼女の元に駆け寄った。
「その節は世話になったな」
「いえいえ、私なんて何もしていませんし」
最初に会った頃は冷たく威圧的な態度だったのだが、どういう訳か今の彼女はアリスに対してどこか優しさが含まれていた。ツリ目でキツイ雰囲気は前のままだが、自分を見る目が圧倒的に違う。例えるならば、虫を見るような目から愛玩動物を愛でるような、そんな感じの優しげな視線。その変わりようにアリスは頭を傾げるも、ロゼは気にせず言葉を続ける。
「謙遜なんてしないでくれ。街で噂になっているぞ、殺人鬼の凶行を止めた守護天使だと」
「ぐえっ、またそれぇ?」
「何だ、気に食わないのか。私自身は見ていないから何とも言えんが、レストレイドの部下が翼を生やした姿で戦っているのを街の人間に言いふらしているらしいぞ。実際、見た目はどうあれ事件を止めたのだから賞賛は素直に受け取っておくべきだ」
シャーリーに対する態度で気に食わなかったが、その部下も余計なことをするらしい。アリスの中で彼らは敵に認定された。
「……正直なところ、私は貴様が――いや、君が恨めしいよ」
「え?」
その言葉にドキリとするも、ロゼの表情から悲痛なものを感じ取ってアリスは口を噤む。
「だけど、それ以上に自分が許せない。どうして、どうして気付かなかった。ずっと隣で同じ道を歩んでいるものとばかり思っていた。お互い高めあって、社会をより良くするために膝を突き合わせて話し合ったこともあった。それなのに――何故私は彼女を止めることが出来なかったのだろう」
「……」
彼女の問いにアリスは答えることができない。
付き合い自体、アリスにとっては二日かそこらしかない。それに対してロゼはどうだろうか。
シャーリーから聞いた話ではナギサはこの街に来て一年くらいしか経っていないらしい。だからロゼもナギサとは長い付き合いではなかったはずだ。
しかし、同じ剣士として何か通じるところがあったのだろう。時間ではない、他の要素。
それはきっと言葉では言い表せない大切なものなのだ。
「すまない。彼女の凶行に気付かなかったのは私の不徳の致すところなのに八つ当たりみたいなことを言ってしまって。きっと直感では気づいていたのだ。だが、頭ではどうしても……ハァ、まだまだだな私も」
気弱な姿は彼女には似つかわしくない。
同僚らしき人間がチラチラと不安そうに様子を伺ってはいるが、彼女を慮ってか誰もが遠巻きに見ているだけであった。アリスはそれを薄情だと思ったが、ロゼと話している自分もまた何と声をかけていいか分からず黙るしかなく居心地が悪かった。
「とにかく、改めて礼を言わせてもらおう。ナギサを止めてくれて、本当にありがとう」
高慢な人間だと思っていた彼女が頭を下げたのを見て周囲がざわつく。
アリスもこうして誰かに感謝をされた経験がなく慌ててしまい、訳も分からず自分も頭を下げていた。
「いえいえ! こちらこそどうもありがとうございます!」
その滑稽さにロゼは吹き出し、柔らかな笑みを浮かべる。それは恐らく誰にも見せたことのない慈愛に満ちた笑みであった。それを見ることが出来ただけでもアリスの心は温かくなり、こうしてロゼと話ができて良かったと思えた。
「あの、それはそうと。ナギサさんはこれからどうなるんです」
アリスの質問にロゼは軍人の顔に戻る。
かつての友人であっても、今も彼女に対して信頼の情があったとしても、それでも職務は全うしなければならない。それが出来ないほど、彼女は落ちぶれてはいない。
「何人もの犠牲者を出したのだ。しかも、その中には佐官だった者もいる……まだ裁判は始まってはいないが、間違いなく死罪となるだろう」
「そうですか……」
アリスの中では人の良さそうなナギサの顔が思い浮かんでいた。
今でも殺人鬼であったことが信じられない。あの夜に死闘を演じたことさえ夢であったのではないかと思えるほどに、現実離れしていて実感が湧かない。
「拘留中なため、私でも面会はできていない。もし、会える機会があったとしたら何か伝えておこうか?」
「いいえ、大丈夫です……ああ、でも一つだけ。ありがとう、と伝えてください」
「……出来れば理由を聞かせてもらっても?」
「ナギサさんはこの見た目の私を、自動人形の身体になってしまった私を人間扱いしてくれたんです。勿論最初は半信半疑な感じでしたけど、確かにあの時ナギサさんは言ってくれたんです」
「そうか、分かった。確かに伝えよう……それと、私からもいいか?」
「なんです?」
ロゼは何か言いにくそうに視線をあちらこちらに飛ばすと、綺麗な銀髪を左右に揺らす。
その様子はまるで告白前の女子のようで、そういった縁のなかったアリスは知らず緊張してしまった。
「う、そ、その。今まで人形呼ばわりしていてすまなかったな。今回の件で貴様、じゃない君が他の自動人形とは違うということを知れた。だから、その……名前で呼んでもいいだろうか?」
「……え、あ、はい」
思わずくらりときてしまうところであった。
シャーリー一筋をこの世界に来て以来掲げてきていたが、銀髪の麗人がモジモジしながら他愛のない(本人からしてみれば大事なことかも知れないが)ことを告げてきたもんだからアリスはたまらず抱きついてしまうところだった。
どうやらこの世界に来て変な嗜好が追加されてしまったらしい。
「う、うむ。そうかそれではこれから貴様――違う、君のことをアリスと呼ばせてもらうよ」
そう言って、街の人間から怖いと評されていた軍人は夏の花のようにとびっきりの笑顔をアリスに見せたのだった。




