一話
重苦しい灰色の雲が世界を覆っている。
街の至るところから天に向かって伸びている煙突は煤にまみれた真鍮特有の鈍い輝きを放ち、その下で律動しているシリンダのせいで微かに震えている。
そこからたゆたう煙が雲と混じりあい、より一層濃密なヴェールを紡ぎ出すことで、太陽の眩い光をほとんど防いでししまい街に影を落とす。
昏く暗い街はこの世の終焉。
その街で暮らす人間の大半は、突き抜けるような蒼天を見たことがない。
明かりと言えば、部屋にあるランプと通りに並んでいる街灯くらいのもので、毎日点灯夫たちが点ける白みがかったオレンジの光こそが心の拠り所であった。
だが、そこに暖かみはあれど、やがて人びとは人工的な光源だけでは満足出来ずにより明るいものに想いを馳せるようになっていく。
彼らの探求心は次第に別々の道へと別れていくのだが、それはここで語るものでもあるまい。
さて、この街一番の規模のファルガ広場では自動人形たちによる劇が開かれており、彼女らを一目見ようと観客たちでごった返していた。
ハットをきちんと被った紳士、妖艶な微笑を浮かべたマスクをつけた貴婦人のような特権階級の者だけでなく、薄汚れたオーバーオールに身を包んだ労働者もいる。
流石に彼らが同じ場所で見るわけにもいかないため、特権階級を持つ者は一座が用意した高台の席から、そうでない者は劇を下から眺めるような劣悪な位置からとなっている。
それは、社会の縮図を表しているようだった。
演目は王道の冒険譚だ。
小さな国の王子が、禁断の恋で結ばれた敵国のお姫さまの窮地を助けに行く話。
誰が語ったか分からぬ古物語だが、いつの時代でも夢を語るものは人の心の琴線に触れるものだ。
凛々しい衣装に身を包んだ人形が怪物たちを倒す度に貧富の垣根を越えた歓声が沸き起こる。
主人公が傷つき倒れれば悲鳴が、仲間がやられれば同情の声が、そんな演者と観客が一体となったステージの裏手では何やら密談が行われているようだ。
「うっひっひ、今日も盛況で嬉しい限りだわい」
「座長、外の客は芝居に釘付け。今もほら、あの汚ねぇ顔した配管工なんて人形のスカートの中身に鼻を伸ばしてら」
「あんなもんに熱を上げる気持ちが理解できんな。世の中には婚約を結ぶ馬鹿もいるらしい」
「はっはっは、そりゃ狂ってる! あんな不感症のどこがいいんだか。まぁ、人形どもの座長が言う台詞じゃないですぜ」
「なぁに、道具を上手に使うだけよ。そこに情なんてあるわけもない。あんな奴等と同じにしてもらっては困るなぁ」
「ちげぇねぇ」
恰幅の良い髭の男は劇団の座長、グサーノ。それに相対するは賎しい顔つきが目立つ小男だ。
「ところで、例の計画は進んでいるのか?」
グサーノが小男に小声で尋ねるのは彼らが秘密裏に遂行している窃盗の段取りだった。
このファルガ広場から北に百メートル、商業地区に燦然と輝くホプキンズ銀行、そこの地下金庫に保管されているフラン金貨を彼らは狙っているのだ。
「へへ、そこは抜かりなく。今の時間、座長のおかげでこの辺りは隙だらけで盗み放題でさあ」
「そうだろう? なんてったって皆可愛い可愛いお人形さんが好きだからな。綺麗な『おべべ』を着せて適当に数集めれば、人間に効く誘蛾灯の完成さ。おかげで、ここら一帯の人間は私の可愛い可愛いお人形にご執心ときた」
「へっへっへ、俺の睨んだ通りでさぁ。今をときめく『赤い人魚』にかかれば、こんなこと造作もないいってわかってやしたぜ」
「ふん、口の達者な奴だ。まぁ、最初に貴様が話を持ちかけてきたときは、あまりにも胡散臭すぎてこのまま憲兵どもに突き出そうかと考えたくらいだがな」
「勘弁してくださいよぉ、座長もあまりアイツらに関わりたくないでしょう? お互い金に困ってるんですから、ここは協力して正解だったでしょう?」
「クク、冗談だ……しかし、こうもお前の目論見通りいくとはな。たまたまだろうが、案外貴様は謀の才があるのかもなぁ」
「座長のお力添えあっての、でさぁ」
小男の言葉に満足そうに頷く小太りの男。座長として身なりに気を遣っているらしく、糊の効いたシャツに腹の肉でパンパンに張った上着のジャケットは煌びやかな装飾で輝いていて、可愛らしい人形の座長よりかはサーカス団の長の方がしっくりくる出てだちだ。
「そういや、そろそろアーチーの奴も仕事を終えて戻ってくる頃ですかね」
「もうそんな時間か。まだまだ劇は続く。もっとすみずみまで盗ませた方がいいのではないのか?」
「そうもいきませんぜ。人間、見極めってもんが大事なんで、下手に欲をかくとイケるもんもイケなくなっちまぁ。それに、これはまだまだ序の口、偉業への景気づけの一発。この仕事が終わりやしたら、次は『商会』、そして『時計塔』制覇といきましょうや!」
目の前の男の野望に思わず生唾を飲み込むグサーノ。自分を『負け犬』と呼ぶ素性の知れない、一見すれば近寄りがたい浮浪者のような姿の男の言葉の持つ不思議な魅力に、己の果てのない欲望が鎌首をもたげる。
『商会』。この街の商売の権利一切を取り仕切るあそこをモノに出来れば、この蒸気都市を手中に収めることなど容易い。
勿論、それには危険が伴うが、なに、いざとなれば切り捨ててしまえばいい。目の前の男の戦力は分からないが、その為に今も表で演劇をしている自動人形には戦闘用の思考をインプットしてあるのだ。
「ふっ……しかし、『商会』越えに留まらず、神秘の貯蔵庫まで暴こうとするとは、まさに神をも恐れぬ大所業とはこのことよ。いいだろう、我ら『赤い人魚』は貴様とともに歩もうではないか」
どちらにせよ。今はホプキンズ銀行から盗んだ金貨の到着を待つだけだ。野望への熱の入った語らいはそれからでも遅くはあるまい。
『負け犬』の相棒の帰りを待つ間、携帯煙草を懐から出して火をつける。
最近、街で流行のハッパを紙で巻いただけの簡易な嗜好品は思いのほか味わい深い。蒸気煙草と比べれば少々薄味なのが気になるが、闇市に出回っているものは一度吸っただけで絶頂へと導くほど強力なものらしい。
いずれ手に入れて吸ってみたいものだ。
紫煙をくゆらせていると、外の方から誰かが近づいてくる足音が聞こえた。
出番を終えた人形か。いや、ここへは近づかないよう言い聞かせているからそれはない。ともすれば。
「おっ、来たみたいですぜ……アーチーの奴、ここにはビンセントたちを連れてくんなって言ったのに。すいやせん、どうやら戦利品の公開を待ちきれなくて全員来ちまったようです」
「構わん。それに、大勢で来たということはそれほど戦果も大きいのだろうて」
下卑た笑いが狭いテントの中で低く、姦計を謀る蛇のように這いずり回る。
彼らの企みを糾弾する者はいないのだろうか。
彼らの邪智はこの蒸気都市を暗黒の時代へと導いてしまうのだろうか。
――いや、それはありえない。何故ならば、この街には彼らのような犯罪者の悪事を暴く『探偵』がいるのだから。
「そこまでだ! 座長グサーノに『負け犬』、大人しくお縄についてもらおうか! 君らの企みは既に潰えている!」
陰謀渦巻くテントに踏み込んできたのは数人の警官と、その彼らの一番前で啖呵を切った小柄な少女だった。
ゴーグルの付いたハット、コルセットで引き締められたクビレから広がる幾重にも重ねられたスカート。革でできた分厚い手袋に紐が綺麗に編み込まれているブーツはこれから冒険に出かけられそうな装備だ。
『彼女』にとって事件の解決とは正装で挑むべきものであり、今回も、同行しているジョーンズ警部を着替えに散々待たせてからの踏み込みとなったのはここだけの秘密だ。
「畜生! どこで計画が漏れやがった!」
悪態をつきながら『負け犬』はグサーノを見るが、彼も同様の気持ちで計画を持ち込んできた男を睨んでいた。
警官隊が彼らを迅速に捕縛していく中、一人場違いな少女はドヤ顔をしながら語り始める。
「フフン、君の計画はとても緻密で恐ろしいものだった。しかし、このボクにかかればわずかな計画の綻びから真実へとたどり着くのは造作もないことなのだよ」
「てめぇ! 何モンだ!」
「お約束の質問をありがとう。君のような悪役がいてこそボクの業績が輝くというもの。『負け犬』いや、本名のジョン・クレイと呼ばせてもらおうか。相手を騙すために自分を貶める名前を使う。ありきたりだが、うん、悪くない」
「なっ――お、俺の名前をどこで! いいや、それよりもこちらの質問に答えやがれ! 俺の名前を調べ上げるとは只者じゃねぇな!」
「やれやれ、せっかちな犯人だ。まぁ、この後いかにしてボクが君たちの悪事を暴いたのか詳らかに語るつもりだったのだが……仕方あるまい」
少女はそう言って、帽子を右手で軽く持ち上げただけで挨拶を済ませる。
「ボクはこの蒸気都市で謎を究明する仕事をしている者だ。そうだね、ボクとしては冒険者のつもりなのだけれど、人はボクをこう呼ぶ――『探偵』とね」
芝居がかった仕草で話す彼女こそ、この蒸気都市で唯一の探偵であり、この街のほぼ中央に座する『時計塔』に眠る神秘を唯一目撃した『人間』なのである。