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十五話

 空は暗雲立ち込めて、夜空に瞬く星々も下界の人の目には映らない。

 この街に住む人間のほとんどは生まれてこの方、蒼天にきらめく空さえ見たことがなかった。


 しかし、それが何だというのだろうか。今、街は人工的な明かりで輝いている。

 強烈な熱気を感じさせるフィラメント電球に、前時代の産物ながらも今なお主戦力のガス灯は人を安心させる柔らかい光を放つ。

 特に職人通りを抜けてのメインストリートには宣伝も兼ねての意匠を凝らした電光看板オブジェが競うように並べてあり、眺めているだけでも飽きが来ない。

 エーテルに満ち満ちたこの蒸気都市だからこそ、それらは本来の明かりとは違う輝きでもって人々の道を明るく照らしているのだ。


 されど、華やかな場所のすぐ裏には誰にも触れられたくない闇が広がっているもの。

 例えば、悪趣味なほどに豪奢な金色の建物、かの有名なミルヴァートンの邸宅の裏手には数多くの貴婦人の涙で濡れた秘密の通路が広がっている。彼はよく高位の女性のスキャンダルを狙っては、人には言えぬ行いを強要していた。

 または、『軍』の総指揮を任されているヴァン・ムスーの屋敷の方がより陰惨だろうか。彼はその権力を利用し、貧民街に住む浮浪者バガボンドを使っては夜な夜な狩りを楽しんでいた。

 だが、彼らは罰せられず、悠々と日々を優雅に過ごす。

 これはこの街の暗黙のルール。絶対的な権力階級による支配体制の表れだ。


 そして、テメズ川にほど近い異国情緒豊かなこのワイトチャペルでまた一人、『殺人鬼』の犠牲になる者が必死の形相で灯りのない道を走っていた。


「ひっ――だ、誰か助け――」


 気持ちが逸るばかりで体が追いついてこない。定まらない脚にとって小さな石ですら行く手を阻む障害物。

 路地裏の荒れた舗装に何度も躓きながら、男は先の見えない闇に向かって手を伸ばす――その先に希望の光があると信じて。


 だが、白刃きらめく一閃が彼の『生』への一縷の望みを断ち切る。

 舞い上がる血しぶき。

 それでも、男は這いずってでも前へと進むしかなかった。

 死にたくない、その一心で。


「ハッ、ハッ、ハッ」


 犬のように荒い息、芋虫のように這う姿は無様で情けないものだが、どこまでも『生』に貪欲な姿勢の彼を誰が笑おうか。

 もし、そんな外道がいるとすれば、それは。


 今まさに男に絶命へと至る一撃を与えんとする『彼女』くらいのものだろう。


 漆黒の煙霧えんむに一筋の稲妻。

 それは的確に男の急所を貫き、悲鳴を上げる間もなく彼を死へと導いた。

 ここまで、彼に振るった腕は三度のみ。

 一度目は出会い頭の威嚇のためにくうを裂き、二度目は男の背中を斬って逃げのための動きを塞ぐ。そして、三度目にして一息に喉を突いてしまいにする。


 無駄のない、ただ殺すだけでなく己の欲求を満たすための行為さつじん

 刃を濡らす血を手首のスナップだけで払い、目の前の男の死体を見下ろす。


「――んっ」


 行為の余韻に浸る『彼女』の体に甘美な電流が流れた。

 鼻をつく濃密な鮮血の匂いと、男の体を蝕む死の影によって腐り淀む空気を肺に目一杯取り入れることで、『彼女』はより高みへと昇りつめる。

 体の内側から犯されていく感覚に脳内麻薬が溢れて、堪らなく艶のある声を漏らしてしまうも止まらない。

 羞恥心は人並みにある。しかし、刺激の強さに最早どうでもよくなり、このまま服を脱ぎ捨て常識という名の殻を破ってしまいたくなった。


「だけど、まだ足りない」


 そう、まだ足りないのだ。

 名も知らぬ男を斬り捨てたところで、満たされるのは一時の快楽。

 本命を斬ってこそはくがつくというもの。

 それでも、路傍の有象無象でさえこの充足感なのだから、本命を斬ったならばこの体はどうなってしまうのだろう。想像して思わず身体を震わせる。

 熱くなる下腹部に高鳴る胸の鼓動を無理やり抑えようとするも、一度火のついた体は更なる血を求めてやまない。


「アッ、――ン、ふぅ……今夜は、あともう一人、狩るとしますか」


 死臭漂う路地裏の深い夜の暗がりで、『彼女』は熱に浮かされたように赤らむだらしない顔を歪めて笑った。



 ✽   ✽   ✽   ✽



「これで六件目だってさ」


 小柄な体に似合わない格好で新聞を広げて読むシャーリーは、夫人に頼まれた瓶の蓋に悪戦苦闘しているアリスに何気なく声をかける。

 しかし、顔を歪ませるほど集中していたアリスは彼女の言葉を聞き逃したらしい。

 歯を食いしばりながら「なに?」と濁音気味に返事をするも、無意識のうちにアリスに声をかけただけのシャーリーが今度は聞き返す番となってしまった。


「え? 何か言ったかい?」


「はぁ、はぁ……いや、シャーリーが私を呼んだんでしょうよ。てか、この蓋かったぁ」


 結局、蓋を開けることが出来ずにアリスは机に瓶を置く。

 その様子にシャーリーは器用に片方の眉だけを上げて彼女に疑問を投げかける。


「いや、君。自動人形なのに、どんだけ力ないんだよ。いくら人間に危害を加えないように制限されているからといって、そこまで無力な訳ないんだが」


「そんなこと言っても、全然回らないんだから仕方ないでしょ。そんなこと言うんならシャーリーが開けてよ」


「ボクはこっち専門なんでね」


 そう言って自分の頭をコツコツと叩く。


「へぇへぇ、そりゃそうでしょうけども。だったら、その頭で簡単に開ける方法を模索してくれませんかね」


 嫌味たっぷりにアリスは言うが、対するシャーリーは再び新聞に目を落とし外部の雑多なことから意識を遮断する。


「そんなどうでもいいことに使いたくない……」


 半目でぼそぼそと呟くが、彼女アリスには届かなかったようだ。

 彼女も彼女で、普段からお世話になっている夫人の力になれるのならと、気合を入れて瓶との格闘を再開していた。

 そんな、お互いに噛み合っているようで噛み合っていない風景も既に日常の一部になったようだ。

 そのことに彼女たちは気づいていないようだが、唯一、二人を間近で見守ってきた夫人だけはそのことに微笑みが絶えないようだった。


「ふむ、この事件。流石に警察だけでは対処出来ないだろう。ともすれば、そろそろかなボクに泣きついてくるのは。ジョーンズはないとして……あとはあの凸凹コンビのどちらかだな」


 シャーリーが二人の警部の顔を思い浮かべた時だった。

 来客を知らせるベルが部屋に響き、応対に扉を開ける夫人の声が彼女の耳に入る。


 この時、彼女は知らなかったのだ。彼女が興味をもった事件が一筋縄ではいかない、蒸気都市を揺るがす事件への幕開けだということに。

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