十話
「いや、駄目に決まっているでしょう」
呆れた顔で言うのは、アリスの様子を見に来たジョーンズだった。
あの広場で起きた騒動で警察から見事に逃げおおせたジョン・クレイの捜索にすっかりやつれてしまい、来て早々に誰に断りを入れるでもなく勝手に椅子に座ってしまった。その様子から状況は芳しくないようだ。
「確かにシャーリーさんにはお世話になりっぱなしで恩もありますが、しかし、それとこれとは話が別です。特にあんな被害を出してしまった以上、警察としてはしっかり対応しないと市民の目もあります。むしろロゼ中尉が簡単に引き下がった方が不思議なくらいです」
「むむむ、頭の固いやつめ。ボクが一体どれだけ君たち警察のために骨を折ってあげたと思っているんだ」
「それを言われてはこちらも心苦しいのですが……私としてもできる限り力になりたいのです。それだけは分かってください」
「そう言うなら書類の偽造を見逃し給え。議会の方に通りさえすれば彼女の所持に大義名分がつく」
トントンと机の上の謀計を巡らした書類を指で叩く。必要な箇所の記入が終わり、あとは役所に提出するだけという段階で目ざとくジョーンズが見つけて今に至る。
「警察官の前で堂々と犯罪の申告をしないでください。いいですか、ここで聞いたことは忘れますから、くれぐれも法に触れるような手段だけは取らないでくださいよ。あ、それとお茶もらえます?」
「あ、私が夫人に頼んでもらってきますね」
「アリス、こんな奴に飲ませるお茶なんてないよ。しかも夫人が淹れたものだなんて茶葉の無駄になるから、廃液にまみれたテメズ川の水でも飲ませるんだ」
「それはいくらなんでも可哀想だよ。せめてトイレの水にしないと」
「あの、それなんのイジメですか? しかもアリスさん、シャーリーさんに乗せられて酷いもの飲ませようとしてません?」
「安心してください。安物ですが、きちんとお茶の葉っぱ使いますから」
違う、そうじゃない。お茶であることよりも、それを何で濾そうというのかが問題なのだ。
アリスはノリで言ったつもりだったのだが、真面目な彼は本気と捉えたようで冷や汗を流しながらお茶の催促を断念した。
そんなやりとりの間に、シャーリーは形のいい顎に手を添えて考え込む。憂いを帯びた表情は年下の癖に色気があり、黙っていれば美少女として世の男を鈴なりにしたことだろう。
「警部に書類を見られたのはボクの失態だな――」
「やっぱりドジっ娘」
「うるさい。こうなってしまっては他の手段を考えるしかないか……警部、この際ファルガ広場の損壊もグサーノの仕業にしてしまうというのはどうだろうか。そうすれば、アリスは人畜無害な自動人形としてボクの元に置いてもいいだろう?」
「探偵の癖に真実を曲げないでくださいってば」
「違うぞ警部。真実とは時に残酷で、必要とあらば暗闇の中に隠すこともあるのだよ。今回はそうすることで多くの人間が幸せになるのだから、既に罪を背負ってしまったグサーノにもう一つくらい罪状が追加されても構わないだろ」
銀行強盗を企てたのは事実なのでグサーノの擁護はしようのないことだが、それでも彼の知らないところで刑が重くなっていくのは気の毒であった。
同情心をかけるのは間違っていると分かっていながらも、ジョーンズは留置所にいる男の放心した姿を思い出し、シャーリーの考えに釘を刺す。
「それならばまだ書類の偽造の方がマシですよ。貴女がアリスさんを気にかけるのが何故かは分かりませんが、誰かを犠牲にしてまで守りたいとでも言うんですか」
「うん」
即答。これが長身のイケメンだったならばアリスの心は大きく傾いていただろう。だが、強い意志で彼女を守ると決めたのは小柄な少女だったため、かろうじて一線を越えずに済みそうだった。
一方、警官として正義を追及したつもりだったジョーンズは、シャーリーの回答に激しく自尊心を傷つけられた思いだった。
「――っ。いいです、分かりました。今はジョン・クレイの行方を捜すので手一杯ですから、アリスさんの身柄を貴女に預けておきます。しかし、ひと段落着いたら必ず彼女を回収しますからね」
「不謹慎だが、そうならないようにあの小悪党が捕まらないことを祈っているよ」
「お邪魔してすみませんでしたね!」
ジョーンズは顔を真っ赤にして部屋を出て行く。途中、かぶってきた帽子を忘れそうになり決まりの悪そうな顔で引き返してきたが、シャーリーの不遜な態度を見て取り戻すのを諦めそのまま帰った。
「ええと、どうしよう?」
アリスはジョーンズの置いていった帽子を持ってシャーリーに尋ねた。高級そうなフェルト生地の使い込まれた帽子は所々修繕されており、彼にとって大事なものだと分かる。
「さぁ? そのへんに捨ててしまえばいいんじゃないか。そんなことより、警察があの逃亡犯を見つけるまでに君をなんとかしなくては……ふむ、仕方ない。あまりこういう手段は好きじゃないんだが贅沢は言っていられない。アリス、少し出かけてくるけど君もついて来てくれないか?」
「え? いいけど……ってそうじゃない。いいの? あの刑事さんとは親しいんでしょ。私のせいで仲が悪くなんてなったら……」
「それは君のせいじゃないし。君が悩み苦しむ必要はない。あと、誤解しているようだから言っておくけど、彼とは別に仲良くはないよ」
「そうなの? でも、あの人はシャーリーをとても尊敬しているように見えたけど」
「尊敬? ハッ、いいかいアリス。尊敬と媚びることの区別は君も身につけた方がいい。彼自身気づいているかどうかは分からないが、アレはね。尊敬とは違うものだよ」
シャーリーは吐き捨てるように言いながら、帽子掛けの前でどれをかぶっていこうかと今着ているカジュアルなカットソーに合うものを選んでいた。
外は変わらず曇天だが、少し風が出ているらしい。あまり派手なものは避けたほうが良いかもしれない。なにより、これから行こうとする場所のことを考えたらおとなしめの方が相手の機嫌を損なわせずに済む。
「これでいいかな。どうする? 君も帽子をかぶるかい?」
服もそうだが、この世界の人間は見た目に気を遣う人が多いのかもしれない。
アリスはお店のショーケースに並ぶ華やかな宝物を眺めるような気持ちで少女のコレクションに目移りしてしまった。
彼女も可愛いものが好きな女の子なのだ。つい今しがた気に悩んでいたジョーンズのことなど頭からすっぱり抜け落ちてしまっても責めることはできまい。
「初め見た時から思っていたけど、シャーリーってオシャレさんだよねぇ。どうしよう。これも可愛いし、アレも捨てがたい……ううむ、今まで帽子をかぶる習慣なんてなかったからなぁ。どれが私に似合うか分かんないや。て、今は見た目違うんだった」
「これなんかどうだい? 今日着ているワンピースに似合うんじゃないかな……うん、いいね。よく似合っているよ」
背の低い彼女に帽子をかぶせてもらうのは気恥ずかしさがあったが、自分のためにそれを選んでくれたという事実は思いの外気持ちのいいもので胸の辺りが熱くなる。
「えっと、えへへ。ありがと」
今までに感じたことのない気持ちに上手く言葉が出てこない。
いかん、相手は年下の女の子なんだぞ。私よ、人生の先輩としての威厳はどうしたというのだ。
心の中で目を吊り上げている自分が何か喚いているが、正直言って美少女とお近づきになるというのは性別関係なく嬉しい。このまま探偵ルートに入ってもいいかとすら思ってもいた。
「ま、まだ三日目だぞ。いくらなんでも堕ちるの早くないか! もっと何かイベントこなしてからでも遅くはないぞ私!」
心の中の自分が口をついて出てきてくれたおかげで正気に戻る。
危ない。このままでは、いずれ自分は彼女に対して夜這いをかけてしまうのではないかと身が震える。
「だ、大丈夫か? 時々君は変なことを口走るけど、どこか調子が悪いんだったら医者に連れて行こうか、いや、この場合調律師の方がいいのかな?」
「あー、だいじょぶだいじょぶ。しかし、私ってばこんなに惚れやすかったっけ? もっと他人と距離を置くタイプだと思ったんだけどなぁ」
この世界に来てから感じる違和感に頭をひねるも答えなんてそう簡単に出るはずもなく。
心配そうにこちらを見つめるシャーリーにアリスは安心させようと微笑む。
それを見た彼女は無邪気に笑い返すが、それはやはり――。
どうしようもなく魅力的で、出来ることならば自分だけが独占していたい気持ちで一杯だった。




