プロローグ
それは澄みわたる青空の下での出来事だった。
葉桜の季節も終わり、見るものを圧倒するような緑の暴力的生命力著しい木々の主張も、彼女にとっては何の感情も沸き起こさないようだ。
何をどうしたらそこまで陰険な雰囲気を纏わせられるのか。
ボサボサに伸びた黒髪に頬のこけた顔。隈の酷い三白眼はこの世全てを恨み、カサカサの口からは呪詛が撒き散らされているに違いない。
猫背で歩く彼女はついに新緑に囲まれた広場へとたどり着く。
別にこれと決めた目的があるわけでもない。
ただ、することがなく手持ちぶさたになってしまったから散歩に出てきたに過ぎなかった。
彼女にとってこの公園は気持ちを安らげる憩いの場所ではあるが、いつもここに来るわけではない。
今日はあくまで足の向くままに訪れただけなのだ。
だから、彼女の身にこれから起こることは偶然の産物であり、たまたま不幸の女神に微笑まれてしまったわけで。
緑が生い茂る自然公園は広大で、昼間にも関わらず彼女の周囲には人影が見えない。
それは彼女にとって好都合だった。
もとより誰かと関わるのは得意ではない。会わずに済むのならそれに越したことはなく、のんびりと清涼な空気を楽しむだけである。
いや、そこにいるのは彼女だけではない。
彼女の右後ろにある一際大きな木の陰から、フードを目深に被った性別も判断できないシルエットがゆらり、音も立てずに表れた。
その人物に彼女は気づかない。
その人物が右手に鈍く光るものを握っていることに彼女は気づかない。
一歩。また一歩。
まるで崩れかけている橋を渡っているかのように、ゆっくりと、しかし確実に彼女へと近づいていく。
その足取りは覚束ないものだが、確固たる一つの意思を持ってその者は歩いている。
ついに、飛びかかれば届く距離にまで近づいてしまったが、残念ながら彼女は気づかない。
人一倍鈍感で、様々なことに気づくのが遅い彼女は、最期まで自身の命の危機にすら気づくことはなかった。
命の鼓動感じる枝に止まる小鳥たちが見守るなか、ソレはあっさり行われる。
「えっ……」
背中よりの右わき腹。大して肉のついていないあばら骨が透けているその場所に突如生えた『モノ』が一体何なのか困惑してしまう。
お気に入りの黒いパーカーに広がる染みは、さらに黒く。
鼻をつく匂いが胃の中のものを騒がせ、思わず口を手でおおう。
どうして。
ようやく頭の中で出した言葉は――。
どうして、私なの。
自分を刺した相手への恨みの言葉ではなく、いつも自分だけが不幸に魅入られてしまうことへの嘆きだった。
「ごぷっ」
口から出てきたのは胃の中のものではなく、身体中を駆け巡っている命の液体。
こぼれ落ちてはいけない鮮血の雫。
それが止めどなく溢れてくるのだ。息が出来ない。まともに声も出せぬ。
苦しい。助けて。
霞む目の先には誰かが笑いながら立っている。
ソレがたとえ人殺しであっても、今は藁にもすがりたい気持ちなのだ。
とうとう、体に力が入らなくなり、渇いた土の上に紅を垂らしながら膝をついてしまった。
折れてしまいそうなほど細い膝は擦りむき、そこにできた痕に小さな砂が入り込む。
だが、そんな痛みなど体の中心から広がるどうしようもない恐怖の前には些細なことだった。
『痛い』。この言葉すら言うことの出来ない感覚に体が暴れる。
目からは涙が滲み出て、口も開きっぱなしで、もはや顔中が血みどろで、この惨状にどこか他人事のような感覚が迫ってきていた。
楽になりたい。
体を『くの字』に折り曲げると少し楽になれる気がするが、体が言うことを聞かない。
手足が痺れ、意識が朦朧とする。
この姿を見ても、目の前の人物は嗤いながら、ただそこにいるだけだ。
いやだ。
死にたくない。
死にたくない、死にたくない、死にたくない。
死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない。
「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!! 死にだ、ぐない、よぉ!!」
ぐちゅぐちゅになった口の中から絞り出したのは自分でも聞いたことのない、大きな潰れた声だった。
もはや、何もできない。
何も、感じない。
最後の絶叫で精も根も尽き果てた。
視界は闇に包まれ、まだ辛うじて機能していた耳もその役目を終えようとしている。
命が尽きる寸前、今際に聞こえたのは誰かの声だった。
「イイモノミレタ、アリガトウ」
そして、彼女はこの世界での人生に幕を降ろしたのである。