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「カルテット」BL修行のログ

「壁の中の男」カルテット番外編

作者: 椎堂かおる

 部屋の外でギリスと会うのは久しぶりだった。

 人気のない回廊の突き当たりに、ギリスはスィグルを連れてきた。

 王宮の通路は複雑に入り組んでおり、古い時代に作られたまま放置された行き止まりや、おかしな繋がりになっている場所が幾つもある。

 入ったと思ったらすぐに元の道に戻ってくるような、意味のわからない脇道や、延々と続いた上、なにもないまま終わる細い行き止まりの通路もあった。掘り進む途中で挫折したものか、あるいは以前はそこに何かが建設されたが、壁を埋めて廃棄されたもののように見えたが、真相はわからない。

 この道も、懸命に掘り進んだ蟻が途中で息絶えた巣穴のように、長く続いて、ぱったりと終わっている、細長い(うろ)だった。行き当たった場所には飾り棚が作られてあり、そこには申し訳のように香炉が飾ってあった。

 炉の香木は絶え果てていて、通路は薄暗く、あたりは埃っぽかった。

「ここ、なに?」

 正体を知った上でギリスが連れてきたような気がして、スィグルは尋ねてみた。

「ここがそうなんじゃないかと思うんだ」

「そうって、何が」

 要領を得ないギリスの話にむっとしながら、スィグルは重ねて訊いた。

「物語に出てきた、例の埋められた男」

 そう言われてみて、スィグルはぎょっとして壁をもう一度見た。

 一段引っ込んだ飾り棚の壁の、人の頭の高さあたりに、金属の管の端がぽっかりと突き出している。装飾にしては地味なそれは、途切れた配管のように見えた。

 それに気づいてから、スィグルはすぐ後ろに立っているギリスを振り仰いだ。

「お前が読んでた怪談のことか」

 ギリスは笑って、小さく頷いた。

 夜中に部屋に行くと、ギリスは大抵そこにいて、寝床で本を読んでいた。いつ訪れても、まったく同じ本を読んでいるので、それは読むというより眺めていると言ったほうが正しいのかもしれなかった。

 読み古されたふうな小振りの革表紙の本の中身は、他愛もない怪談で、王宮を舞台にした古い物語が記されていた。

 ギリスは子供のころから、それを繰り返し読んでいるのだという。

 彼の仲間内の、皆が怖いというその物語を、幼いギリスは怖いと感じられなかった。怖いというのが、どういうものか、なんとしても知りたくて、日々繰り返し読み続けたのだという。

 しかし結局分からなかった。

「悪趣味だな。どうして僕をこんなところに連れてくるんだよ」

 すでに怖くなって、スィグルはそれを振り払おうと、怒ったふりをしてみせた。ギリスが自分を怖がらせたくて連れてきたのだろうと思った。

「怖いのかなあと思って」

 案の定な答えを真顔で口にするギリスに、スィグルは心底腹が立った。

 その物語は、王族の姫と、工人の男の恋愛ものだった。

 姫は地方候の妻として嫁ぐことが幼少のころから決まっている身の上だった。

 ある時、壁を塗る工人だった男は、姫君の部屋に新しい壁を塗るためにやってきた。

 壁を塗っている男の後ろ姿に姫はたちまち恋をし、男は自分の背を見る姫にたちまち恋をした。

 壁はなかなか仕上がらず、男と姫は身分違いの逢瀬に身を投じる。

 やがそれは族長である姫の父の知るところとなり、工人の男は罰を受けることになった。姫は婚約しており、男は姦通の罪を犯したからだった。

 嘆き悲しむ姫は、男の命乞いをした。しかし族長は聞き入れなかった。

 男の口に管をくわえさせ、そのまま壁に塗り込めさせた。男に息をさせ、すぐには死なないようにするためだった。

 姫は男のもとに通い、管から水を飲ませ、ものを食わせて養い続けた。

 姫が壁を叩いて呼びかけると、男は愛しい姫様と答えた。

 一年が過ぎ、十年が過ぎても、男は答え続けた。

 その声が絶えたら、自ら死のうと覚悟していた姫は、いつまでも生きながらえることになった。

 歳月が過ぎ、姫は年老いて老婆となった。

 生きては今宵を超えられまいと悟った姫は、いつものように男のもとへ行き、いつものように壁を叩いた。

 男は答えた。愛しい姫様、と。

 わたくしはもう今宵、儚くなってしまうと思います。あなたをどうすればよいでしょう。

 姫が尋ねると、男は答えた。

 私は死霊です。ずっと先から死んでおり、あなたにお会いしたい一心で、こうして留まっていたのです。今こそ私のもとにお越しください。あなたの美しい顔が見たい。

 それを聞いた姫は、愕然とする。長い年月が流れ去っていた。美しかった肌は衰え、黒髪は白く枯れ果てていた。しかし男の声は壁の中に消えた、あの日のままだった。

 姫は立ち去り、婚約していた男のもとに嫁いだ。

 今でもその壁を叩くと、男は答えるという。愛しい姫様、どこへ行ってしまわれたのですか、と。

 スィグルは寝床でギリスの本を借りて読み、その物語が恐ろしかった。だいたい些細な物音ですら、スィグルには恐ろしかった。子供のころから臆病なのだ。

 悪さをすると、報復のために、侍女たちは怖い物語をスィグルに読んできかせた。どんなお仕置きよりも、それが一番効くからだった。

 怖ければ聞かねばいいだけの話だが、最後まで聞かないと、もっと恐ろしい想像をしてしまう。結局いつも大人しく終わりまで聞き、寝入りばなになるころには、胸の中でふくらみきった恐怖に悶える羽目になった。

「壁、叩いてみる?」

 からかっているのか、本気なのか分からない真顔で、ギリスがスィグルに尋ねた。

「叩くわけないよ。あんな話は作り事なんだから。第一、いろいろ変だろ。後宮に住んでいる姫のところに、どうして男がのこのこやって来られるのかさ。工人が貴人の目の前で壁を塗ったりするか? 百歩譲ってそうだったとしてもだよ、死霊なんかいるわけないし、姫は密通した男を壁籠めにされて頭がいかれたんだよ。そんな女がだよ、もう死ぬっていうような年になってから結婚するなんて、おかしいだろ。今夜死ぬって言っておきながら、引き続き生きてたり、矛盾だらけだ。できの悪い話だよ」

 早口で一気にまくしたててから、スィグルは後悔した。もっとゆっくり話さないと、ギリスは途中で飽きて聞くのをやめてしまう。二度手間だった。

「叩いてみろよ」

 スィグルの手をつかんで、ギリスは目の前にある壁を叩かせようとした。

「やめてよ。僕はそんなことしたくないから」

 ありえないと思っていても、スィグルには管の突き出た壁が気味悪く、触るのもいやだった。必死で抵抗して、壁から逃れようとしたが、ギリスは執拗だった。

 やがて争ううち、スィグルの手がごつんと壁を打った。古い漆喰の細かくざらつく感触がした。

 あまりの気持ち悪さに、スィグルは息を呑んだ。

 身をこわばらせるスィグルの背を、壁を見つめるギリスが強く抱き留めていた。

 死霊は答えなかった。

 そんなものはいないからだ。

「……怖い?」

 耳元に、ギリスが尋ねてきた。

 スィグルは怒りに呻いた。

「怖くなんかないよ」

 汗染みた自分の顔が紅潮しているのではないかと、スィグルは思った。嘘をついていた。本当は怖くてたまらなかった。ギリスの抱擁を振り払いたいところだが、誇りがそう命じても、臆病心が、しばらくこうしていようよと答えた。

「なあんだ」

 がっかりしたように言うギリスは、また壁を見た。

「女じゃなきゃだめなのかな」

「お前……死霊がいると思ってるのか」

「いるかもしれないじゃん」

「いないよ、そんなもん。もしいたら、世の中は死霊だらけになっちゃうよ。この壁だって、ただの無計画な工事の結果で、この管はなにかの配管のあとなんだよ」

「お前いま必死だな。怖いんだろ」

 うらやましそうに、ギリスは言った。

 スィグルは情けなくて泣きそうになった。

 ギリスには恐怖が分からないらしい。その自分から欠けた感覚に魅力を感じるらしく、他人が恐怖するのを見ると、ギリスはいつも喜んだ。そして、怖いというのは、どういう感じだと聞くのだ。ギリスの性格からして、ほんとうに知りたくて聞いているのだろうが、悪趣味な男だった。

 こちらが臆病者と知って、ギリスは時々、いかにも嬉しそうに仕入れてきた王宮の怪談を聞かせてくれる。意地を張って平気なふりで聞くが、スィグルはだいたい毎度寝付けなくなっていた。

 子供だましの話の、どこが怖いのかと自分でも不思議だが、とにかく怖いものは怖い。

 だからといって、ギリスのところに泊まるのは癪だし、そういう時にはあわてて自室に戻り、弟に縋り付いて寝た。

「その死霊は、悪霊になっていて、別れさせようとするって」

 人から聞いたらしい話を、ギリスはしていた。

「なにを」

 スィグルは耳を塞ぎたかったが、ギリスがいまだに手を押さえていたし、そもそも聞きたくないと言うのも恥ずかしかった。

「恋人を」

「仲良くしてる他の連中を死霊がやっかんで、関係を壊そうとするってこと?」

「うん」

 スィグルは横目に、自分を抱くギリスの顔を振り返ってみた。

 すぐ近くで、ギリスの凍るような淡い色合いの目が、こちらを見つめ返した。

「俺たちも壊されたらどうしようか」

「だったらなんで来るんだよ。馬鹿かお前は」

「大丈夫だよ、死霊が来たら俺が戦うから」

「もう死んでるやつに、お前の氷結の魔法が効くと思ってるのか?」

「効かないかな」

 効くと思っていたのか、ギリスは意外そうに答えている。スィグルは呆れて渋面になった。それを見て、ギリスは笑った。

「寓話だろ。本当の話じゃないから、壁を怖がる必要ないさ、愛しい姫様」

「わかってるなら、初めからこんな話しないでくれよ」

 ギリスにそんな頭があるとは、スィグルは思っていなかった。文学が理解できるとは思いも寄らなかったのだ。不完全な感情しかないものが、文学の語る情緒に共感できるとは思えない。

「どうして姫は壁の中の男を生かしておこうなんて思ったんだろう。毒でも飲ませて殺してやったほうが親切じゃないか、どうせ助からないなら」

 スィグルの苦情が聞こえなかったのか、ギリスは壁に目をやって、そんなことを言った。

「女の身勝手だろう。そういう話なんだよ」

 スィグルが教えてやると、ギリスは少しの間、考え込むふうだった。やがて彼は、のんびりと口をひらいた。

「王族の身勝手だろ」

 同じ物を読んでも、解釈は人それぞれだ。それについてギリスと争う気はスィグルは無かった。

「ギリス……お前、なにか僕に言いたいことがあって、ここに連れてきたのか」

 そう尋ねると、ギリスは不思議そうな顔をした。なにを言われているのか分からないという表情だった。

「喜ぶかと思って」

「喜ぶわけないだろ、こんな薄気味悪い埃だらけのところ」

 それを聞いて、ギリスは意地悪く胸を震わせて笑った。喜ぶのは自分だろと、スィグルは内心でギリスを罵った。

 嬉しそうにスィグルを自分のほうに向かせ、ギリスは口付けしようとして、不意にやめた。いつにないお預けを食って、スィグルは眉を寄せた。

「……なんだよ」

「やめとく。人前でしないほうがいいから」

 香炉の飾られた壁を見やって、ギリスは体を離した。そして彼は、その壁の中にいる男を、見ているような目をした。

「そういうのやめてよ。ほんとにやめてくれよ。僕はもう帰らなきゃらないから行くよ、用事があるから」

 思わず喚いて、スィグルは細い通路を引き返そうとした。

「晩餐まで暇なんだと思ったのに。そんなこと先に言えよ。知ってたらこんなとこ来なかったのに。ただでさえ最近お前は捕まらないんだからさあ」

 壁にもたれて、ギリスは言葉の割に、のんびりと受け入れたふうな口調で文句を言っている。それを無視してつかつか歩いていったものの、スィグルは湾曲した通路のせいで彼の姿が見えなくなったのに気付いて、急に歩けなくなった。

 ギリスは追ってくる気配がなかった。

 声の残響も絶えた薄暗い通路の中で、スィグルは拳を握って立ちつくした。

「ギリス……いっしょに帰ってよ」

 恥ずかしかったが、怖じ気に耐えられず、スィグルはまた来た道を戻っていった。そのまま駆け寄ろうとして、スィグルはぎくりと足止めされた。

 ギリスが香炉の飾り棚に膝をかけて、壁から突き出た管の中をのぞき込んでいたのだ。

「やめなよギリス!」

 叫ぶスィグルの顔を、ギリスはびっくりした顔で振り向いた。それから彼は、にやりと笑った。

「ここ、ほんとに誰か入ってるみたいだ」

 嘘だ。嘘に決まってる。そう思ったが、ギリスがあまりに嬉しそうに言うので、スィグルは怖くなって、考える間もなく通路を走り去った。

 愛しい姫様、どこへ行ってしまわれたのですか、と、ふざけて呼びかける声が幻のように追いすがってきたが、スィグルは振り返らなかった。



 一緒に行くと分かると、スフィルは手をつないで歩きたがった。

 小さな子供の頃にそうしていたのを、弟はすっかり気が触れた今でも、憶えているらしかった。

 晩餐のために正装したスィグルは、外歩きしてもよい程度に身なりを整えられた弟と、やむをえず手を繋いで王宮の廊下を歩いた。

 弟は父である族長の部屋に行くのだった。いつもそうして食事をもらっているのだ。

 繋いだ手をぶらぶら振りながら、子供のように歩いていくスフィルは上機嫌で、自分とそっくりな顔に、満足げな微笑を浮かべている。

 しかしスィグルは緊張していた。

 父と会うときは、いつも背中に汗が滲んだ。玉座の間の、公式の空気がふたりの間を隔てている時には、その緊張は微かなものだったが、スフィルとともに父の部屋を訪れて、普段着の族長と向き合うと、スィグルは喉が渇いて声も枯れそうだった。

 それでも話がある。行かねばならない。

 機嫌がいいせいで踊るような早足のスフィルに手を引かれて、スィグルは小走りになった。侍女たちが少し遅れて追ってくる。

 そういう姿を、スィグルは恥だと思ったが、父は気にせず、スフィルを歩いて部屋に来させていた。陰であからさまに嘲る者もいたが、父はそれを放置していた。

 手をつないで、幸福そうに歩いている弟の姿を見ると、スィグルはいたたまれなかった。たぶん自分も、こんな顔をしていたのだろう。ギリスに手を引かれて走り回っていた時には。

 辿り着いた扉を、無造作に押し開いて、スフィルは一礼もせずに中に走っていった。控えの間を抜け、あとを追っていくと、近頃また時折訪れていた父の居室が広がっている。

 父はここに一人で寝起きしていた。

 後宮には父の妻が、病身の母を含めて、ちょうど十人いたし、その気になれば情けをかける相手はいくらでもいた。しかし父が今も後宮の戸をくぐるのかどうか、スィグルは知らなかった。

 自分たち双子がまだ幼く、後宮の母の居室で暮らしていたころには、父はまだ時折母のもとを訪れていた。そのころ自分は自惚れた子供で、父は母ではなく自分たちに会いに来ているのだと信じていた。大人には大人の用事があるとは、想像すらしていなかったからだ。

 族長である父に対してとるべき儀礼のため、スィグルは戸口で跪き、頭をさげた。そして顔を上げると、部屋の奥にある主人のための座に父が座っており、その膝元にスフィルが腰をおろして、胡座した父の膝に頬杖をついていた。

 仲睦まじく寛いだふうな二人の姿に、とても入っていけないものを感じて、スィグルはその場に釘付けになっていた。その姿を眺め、少しの間待ってから、父は指をあげて差し招いた。

 近くへ寄れという意味だと悟って、スィグルはもう一度、浅い一礼をし、二人の傍まで歩み寄った。これ以上は寄れないというところまで歩いたつもりだったが、父の座る絹の円座まで、あと数歩の距離が残されていた。

 スィグルはその場に膝をついた。

「父上」

 呼びかけようとした同じ言葉を、唐突にスフィルが発した。そちらに気をとられて、父リューズは弟の顔を見た。

「おなかすいた」

 空腹を訴える弟の声は、幼子が甘えているようだった。父は弟に笑いかけ、ちょうど侍女が運んできた銀の皿に盛られていたものを、スフィルの口に入れてやった。

 生の肉だった。

 スィグルはそれから目を背けたくて、床の絨毯の文様に目を落とした。

「お前が先日寄越したものは読んでおいた」

 旺盛な食欲で肉を貪っている弟の頭を撫でてやりながら、父はこちらに話を向けてきた。

 スィグルはやっと、父の金色の眼とまともに向き合うことができた。

 トルレッキオから帰郷した自分を、父は温かく迎え入れてくれたが、昔ほかの兄弟たちと父の興味を争ったようには、スィグルは素直に父の注目を勝ち取ろうという気になれなかった。なぜかこの身が恥ずかしくてたまらず、弟を可愛がる父の姿を見るに堪えなくて、卑屈に引っ込んで過ごしてきたのだ。

 それをまた、弟に便乗して父の部屋を訪れてみようと思いきったのは、玉座の(ダロワージ)に自分が描いたエル・イェズラムの絵が飾られた時以来だった。

 あの時、自分と父を繋いでいた絆が、他の者の手によって勢いよく断ち切られたような気がした。気のせいだったかもしれないが、とにかくそれが耐え難く、すぐに父と会って弁解をしなければという、火のような焦りを覚えた。

 その夜、食事のために部屋を出て行くスフィルに、話しかけても無駄だと理解しているはずが、ついていってもいいかと尋ねていた。スフィルはもちろん、いやだとも、いいとも言いはしなかったが、上機嫌に部屋を出て行った。それをとぼとぼ追って現れたスィグルに、父は一時目を見張ったが、結局、久々に現れた事については、なにも言わなかった。

 あの時も、今と変わらず弟に肉を貪らせながら、父は穏やかに、お前は好き嫌いが多すぎるのではないかと尋ねてきた。

 取り巻きの者に、自分の膳から欲しいままに食わせているようだが、それではいずれ自分の腹を満たす分がなくなってしまうのだぞ。

 父がエル・ギリスのことを揶揄しているのは、分かり切ったことだった。

 あいつはやたらと腹の空く質のようで、小食で偏食の自分が手をつけないものは、代わって腹に収めていた。それが玉座からも見えているのだろう。

 しかし父が言っているのは、食事のことだけではない。お前は長老会に蹂躙されているが、そのままでは駄目だと父は言っているのだ。

 その通りだった。

 お前はやっと自由の身になったが、これからどうやって生きていくつもりだ。また囚われて生きていきたいのか。なにか、したいことはないのか。

 優しい声で諭す父の言葉は、それでも容赦なく響いた。のんびり話している時間は父にはなく、スフィルが銀の皿から肉を全て平らげたら、話は終わるのだった。なにか父が気に入るような答えを返さなければと、スィグルは内心震えながら考えていた。

 その時、不意に頭に浮かんだのは、かつて父から拝領した領地のことだった。グラナダという小都市で、スィグルはその街を気に入っていた。

 こちらを見つめる父に、スィグルは思いつくまま話した。自分は、トルレッキオの学院で見たような、継承者を鍛えるための小宮廷を、グラナダで試してみたいと話していた。そんなことを考えたことは、父の部屋に来るまで、実際には一度もなかったくせに。まったくの思いつきであり、全てがその場での苦し紛れのでっちあげのように、自分では思えた。

 ほとんど嘘のようなその話は、異常なまでに滑らかにスィグルの舌を動かし、聞き終えた父は面白そうに、ふんと笑い声をたてた。

 では、やってみるがいいと、父は許した。

 その瞬間、スィグルは自分がなにを許されたのか、実のところ全く思い出せなかった。緊張のあまり、頭が真っ白なまま、全てを舌に任せて話をさせていたせいだ。

 許されてみても、スィグルはまだ震えていた。

 肉をあらかた平らげて、腹が満ちたらしい弟が、最後の仕上げというように、父の腰に抱きついた。その体を抱き返す父の姿を見て、スィグルは自分にも同じように、父が抱擁を与えてくれないだろうかと願った。昔は自分たち双子を分け隔てしなかった父が、今ではスフィルばかりを可愛がっているように思えた。

 しかし、こうして外から二人を眺めていると、もう子供とは言えない年頃になった息子と父が抱き合っている姿は、どこか滑稽だった。幼髪のころなら知らず、大人のように髪を伸ばし始めた息子は、父親とは距離をおくものだ。

 スフィルは、まともではないと哀れんでいるから、父はそうしているのだ。父が自分に同じことをしないのは、まともな息子だから。そう結論づけようとして、うまく呑み込めず、スィグルは苦しかった。

「博士たちと随分話し合ったそうだな。いい心がけだ。お前は聡明なようだから、俺も鼻が高い」

 父が誉める声を聞いて、スィグルははっとし、顔を上げた。

 父はスィグルが提出しておいた計画書の束を、こちらに放って寄越した。

「上手くいくかどうか、誰もやったことがないのだから、試しにやってみるといい。失敗したら戻ればいい。若いうちの失敗は恥ではない。成功すれば、お前の功績になるだろう」

 分厚い紙の束を受け取って、スィグルはただ頷いた。失敗してもいいと言う父の言葉が、スィグルには恥に感じられた。父は必ず成功するとは信じてくれていないのだ。

「うまくいくよう努力します」

 答えると、父はくだけたふうに頷いただけだった。

 スフィルは今日の肉を平らげようとしていた。

「ところで」

 傍に供されていた杯から飲んで、父は話を変えたふうだった。

「長老会が、イェズラムを記念して、やつの祝日を作れと求めてきた」

 知らない話だったので、スィグルはぽかんとして、父の語るのを聞いた。

「お前はどう思う」

 意見を求められているのだという事は分かったが、スィグルはしばらく、ぽかんとしたままだった。父に治世についての意見を求められたことなど、今までにはなかった。強い独裁によって部族を治めている父が、誰かに相談をするということ自体、スィグルにはこれまで想像もつかなかった。

 やがて答えねばと気付いて、スィグルは膝をついたまま、焦って小さく身じろぎした。

「……いい考えのように思います。エル・イェズラムは民からも英雄として慕われていましたし、父上の王朝の建設に大きな功労のあった人ですから、それを讃えて祝日を制定されれば、民は父上が廷臣を大切にしていることを知るでしょう」

 緊張した小声でぼそぼそと答えると、リューズは可笑しそうに笑った。

「あいつが廷臣という(つら)だったか」

 冗談めかして言う父の率直な口調に、スィグルは圧倒された。

「いつも偉そうにふんぞり返って、俺の株を奪ってばかりいたではないか。本当に腹の立つやつだった。やっと死んで無害な英雄になったと思ったら、こんどは祝日を作れだと。とんだ大英雄気取りだな」

 悪し様に言う父の言葉に、スィグルは自分が不正解の答えを返したのではないかと思った。反対すべきだったのではないか。父はそれを期待して尋ねていたのではないか。

 スィグルは微かな相づちさえ打てず、押し黙って父の前に座っていた。

「お前には違和感はないのだな。イェズラムを記念する祝日があっても」

「わかりません……」

 答えに窮して、スィグルは蚊の鳴くように答えた。

「どっちなのだ。さっきは良い考えだと答えたのに、気が変わったのか」

「父上の御意のままに」

「では、お前が決めろと命じればいいか。俺はどうでもいいのだ、イェズラムの祝日など。あってもよいが、なくても構わん。とにかく死んだ、もうなんの助けにもならん。祝日が欲しいという者が多いなら、作るがいい。俺にとっては、あいつはそのような歴史上の人物ではない。あいつの中に英雄性を求める民の気分は、俺にはわからん」

 一気にそう言って、リューズは長い息を吐いた。

 父は微かに苛立っているようだったが、平気そうにしていた。

 スィグルは呆然と父を見ながら、静かに悟った。この人は悲しいのだ。

 その当たり前の事実に、スィグルは驚き、そして全身を固く強ばらせていた緊張が、ゆっくりと退くのを感じた。

 父は悲しみ、困って、自分を頼っているのだ。そのことはスィグルには未だかつて無いほどの激しい喜びだった。父を支えて、役に立ちたかった。

「父上の御代に、稀代の大英雄がいても、いいのではないですか。皆も喜びますし。エル・イェズラムが実際どのようなお人柄だったかは、この際関係がないと思います。父上しかご存じないことですから」

 スィグルが意見すると、リューズはそれを黙って興味深げに聞いていた。

「そう思うか」

「そう思います」

 確かめる父に、スィグルは頷いた。

 すると父は、背後から命令書らしき豪奢な紙切れをとって、床の上で走り書きのように署名をし、朱色あざやかに印璽(いんじ)まで捺した。

「では決まりだ。どうせだから連休の初日にして民を長く休ませてやろう。皆、末永くイェズラムに感謝するだろう。これで何と五連休だからな」

 やつの英雄譚(ダージ)が忘れ去られても、五連休の初日の男として永遠に記憶されるだろうと、父は話をしめくくった。

 笑いたかったが、笑っていいかどうか分からず、スィグルがもじもじしていると、こちらを見た父が、にっこりと微笑んだ。族長冠に似合わず、無邪気な笑顔だった。それにつられて、スィグルも笑うことができた。

「小宮廷につれていく竜の涙を選んできたか」

「エル・ギリスを」

 急に訊かれて、スィグルはとっさにそれだけ答えた。父はにやりと笑った。

「あまり重用しすぎて、将来、六連休の初日の男にしなくてすむよう気をつけろ。休みが長すぎても民がぼけるからな。支配するのは王族で、長老会ではない。時々はそれを、思い知らせてやれ」

「父上はどうやって思い知らせたのですか」

「ああ……」

 族長冠ごと髪をなでつけて、リューズは答えた。

「壁籠めにしてみたりだな」

 さらりと言う父の話に、スィグルは例の怪談を思い出した。

 姫は嘆き悲しみ、男の命乞いをした。しかし族長は聞き入れなかった。

 男の口に管をくわえさせ、そのまま壁に塗り込めさせた。男に息をさせ、すぐには死なないようにするためだった。

 姫は男のもとに通い、管から水を飲ませ、ものを食わせて養い続けた。

 姫が壁を叩いて呼びかけると、男は愛しい姫様と答えた。

「脅すだけでいい。本当にやったら死ぬからな」

 王族の身勝手だろ。

 そう言っていたギリスの声が蘇る。

 その解釈を、ギリスに教えた者がいたのではないだろうか。子供のころのギリスが、延々と読み続ける怪談に、ひとつの読解法を示した大人が。

「父上は、なぜそんなことをなさったんですか」

「なぜ? イェズラムが兄上の妻と姦通したからだ。姦通した者は壁籠めの刑に処するのが古来からの習いだった。単にそれだけだ」

 あえて尋ねはしなかったが、やっぱりエル・イェズラムの話なのか。スィグルは近々彼を記念する祝日ができるという大英雄のことを思い返した。

「濡れ衣だったのだがな」

「濡れ衣だったのですか」

 驚愕してスィグルがほとんど叫ぶように聞き返すと、父は楽しげに声をあげて笑った。

「処刑用の壁が今でも残っているはずだぞ。俺が記念に残させたからな。どこだったかな……曲がった細い通路の先で、香炉が飾ってあるはずだ」

「その話は、秘密なのですよね、父上」

 スィグルが確かめると、リューズは不思議そうに首をかしげた。

「いいや。当時の宮廷にいた者は誰でも知っている。公開処刑だったからな」

 なんという恥だ。スィグルはまた呆然とした。

 皆の知る前で、そこまで辱められたら、並みの者なら耐え難い。本当に罪を犯したならやむを得ないだろうが、濡れ衣だったというのだから。

 エル・イェズラムはよく平気な顔で父に仕え続けたものだ。

「そこまでやっても、イェズラムは死ぬまで俺に仕えたのだから、お前も王族らしく強気でいけ。竜の涙というのはな、甘い顔をすると果てしなく付け上がる連中なのだ。よく働いた時に、ちょっと誉めてやる程度がいいのだ。わかったか?」

 それは強気という範疇を越えているのではないか。そう思えたが、納得したかどうか尋ねる父の言葉に、スィグルはほとんど操られるように頷いていた。

 ギリスがのぞき込んでいた管の中のことを、スィグルは考えた。なにかがいるような気がすると、ギリスは言っていた。

 それはお前の後見人だ。

 スィグルは薄気味悪さを呑み込んで、内心にそう独りごちた。



 朝儀で宣下があった。

 グラナダに離宮の建設を行うため、宮廷から選んだ者たちを派遣するとのことだった。族長が指名するのは、スィグルが前もって希望を出した者たちのはずだった。自分自身も含めて。

 離宮の建設の総指揮権を与えられて、スィグルは玉座の前で、グラナダ領主として族長を跪拝し、深々と叩頭した。

 高座から見下ろす父はにこやかだったが、部屋でスフィルに肉をやっているときとは全く違う表情をしていた。

 各部署から選んだのは、宮廷では半端物と思われているような者ばかりだった。余り物をもらっていくなら父に申し訳もたつし、宮廷から問題児を掃除していくスィグルの小宮廷を羨む者もそうそういなかった。

 竜の涙の問題児の名が呼ばれて、氷結の魔導師が自分の隣に跪くのを、スィグルは横目に眺めた。深く叩頭するギリスの姿は、そうして黙っていれば凛々しく見えた。

 ギリスを選んだのは、彼が問題児だからではない。

 自分のための英雄だと思うからだ。今さら離れられない。

 しかし今この場にいる誰もが、族長は悪童(ヴァン)・ギリスを厄介払いしたのだと信じているだろう。

 彼を遣わした者たちの思惑も分かるが、玉座に座る者を操ろうとする力があるとしたら、それと同じ強さで釣り合う別の力によって、対抗すればいいだけだ。

 なにも大人しく、彼らが期待するように、玉座の(ダロワージ)で兄弟殺しに明け暮れている必要はない。そうして彼らを頼るうち、人形のような族長ができあがるに違いないのだから。

 いったんタンジールを出て、彼らを振り切ることには意味があった。彼らは追ってはこられない。タンジールに囚われた奴隷のようなものだからだ。

 奔放そうなギリスですら、タンジールを出るよう頼むと、必死で抵抗していた。

 今は覚悟を決めたようだが、内心では面白くないはずだ。自分が優勢でいられるところで、これまで通り新星を支配していたいはずだ。

 眺めたギリスの額ずく横顔は、空白のような無表情だった。

 壁の絵からその姿を見守っているはずの英雄は、これを敗北と思っているだろうか。

 おそらくそうは思うまい。

 これは父と彼との代理戦争で、ずっと以前から勝ったり負けたりして続いてきたものだ。そしてこの先も続く。玉座と、竜の涙の間で取り交わされる、戯れあう二匹の蝶の、優雅な舞のようなものだ。どちらか片方が支配するだけの、つまらぬ関係であってはならない。

「もうひとつの小さな広間(ダロワージ)を守ってくれるか、我が英雄よ」

 玉座の肘掛けに軽く頬杖をつき、赤い族長冠を帯びた父が、跪くギリスに尋ねた。深い叩頭から顔を上げ、ギリスは父の顔を見上げる。笑みもなにもない彼の真顔は、高座の灯を受けて白々と浮かび上がって見えた。

「命にかえましても」

 答えて、再びギリスは額ずいた。

 珍しくまともなことを言った悪童に、広間(ダロワージ)に笑いがさざめいた。

 父もそれに目を細めたが、笑ったのではなかった。

 次はどんな手で来るつもりなのだ。受けて立つぞ。父の目は、おそらくそう語りかけている。ここにはもういない、壁の中の男に。

 死霊などいないと、ギリスには言ったが、もしかするとこの広間には、いるのかもしれない。スィグルは退出しながらそう思った。

 私は死霊です。

 怪談の中の男は、そう呼びかけてくる。

 愛しい姫様。私は死霊です。あなたにお会いしたい一心で、こうして留まっていたのです。

 珍しく着飾ったエル・ギリスの立ち姿を見つけ、スィグルは朝儀の続く広間(ダロワージ)の人の目のなかで、初めて彼と一対一で向き合って立った。

英雄(エル)・ギリス」

 部族の英雄にふさわしい儀礼で一礼をして、スィグルは彼の正式な名で呼びかけた。答礼をして、ギリスはこちらを見つめた。

「レイラス殿下」

 彼が自分のことをそう呼ぶのも、初めてではないかとスィグルは思った。

「いつぞやお尋ねになった文学のことで、やっと答えが分かりましたので、ぜひお教えしたいのです」

 慇懃に話しかけてくるスィグルに、ギリスはどこか面白そうな目をした。

「なぜ姫が壁の中の男を生かしておこうとしたか」

 スィグルは微笑とともに彼に教えた。

「それは、愛していたからではないですか」

 なにか答えようと、ギリスが唇を淡く開くのが見えた。しかし彼はしばらく黙っていた。スィグルは微笑んだまま、英雄の答えを待った。

「ああ、なるほど」

 深く納得したふうに、ギリスは呟いた。

「でも、そうだとしたら、あの物語は、いったいどこが怖いのですか」

 ギリスが宮廷人らしく喋ったので、スィグルは優雅に見える作り笑いを崩され、本当の笑みになった。ちゃんとまともに話せるんじゃないか。いったいどれだけ隠し球があるのやら。

「最後に姫が男を裏切るからです」

 豪奢な王族のための宮廷衣装の袖の中で、自分の両手を組んだまま、スィグルは教えた。その話に、ギリスは静かに苦笑した。

「それは、たしかに、とても怖い」

 囁くような声で感想を述べて、ギリスはスィグルに軽い一礼をした。そして彼は腕をのべて広間(ダロワージ)を出る扉をスィグルに示した。

 広間にはまだ、常日頃の駆け引きをおこなう大人達が大勢いた。華麗な衣を着た林のように、そこかしこに立って話す人々の間を、ギリスは先導して進んだ。彼の作る道を歩いて、スィグルは広間を渡っていった。

 大扉の輝く取っ手を掴み、ギリスが耳打ちしてきた。

「お前は俺を裏切るなよ」

 真顔でいる彼の目を微笑んで見上げ、スィグルは答えた。

「さあ、どうだろう。それは約束できないな。物語の最後を、自分の目で確かめてくれ」

 英雄に扉を開かせ、スィグルは父の広間(ダロワージ)を後にした。背後では、宮廷の時を打つ時計の鐘の音が、りんりんと鳴り響きはじめていた。


【完】

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