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6.書かなければならない。それを、知ったのならば。


 ビックフェイス。文字通り、他と比べて一際大きな文字盤の上で青き細身の三本の針が静かに仕事をしている。決して飾らず、良識を体現したかのような端正な佇まいは俺の心を離さなかった。


 ロンジンの腕時計は、新しき夫婦の出発と、その和合と苦悩と、愛しき家族が一人また一人と増えゆく生命の足音とを刻み続けた。


 ◇ ◇ ◇  


 そのロンジンが壊れた。正確に言えば、ケースのガラスが割れてしまった。


 ある日の昼、収納している引き出しから取り出して腕にはめた。心なしかいつもよりキラキラとしているので、おっ今日は何だか輝いているな、と心が浮き立った。が、よく見れば……その輝きはひび割れたガラスが、受けた光を乱反射したもので彼の時計があげた悲鳴だったのだ。


 ガラスの交換だけならどこでもできるだろうと簡単に考え、近くのショッピングモールにある時計チェーン店に修理を依頼した。しかし数日経って、適合するパーツがないのでできないと突き返された。


 こうなればメーカー修理に出すしかないのだが、ふと思い出し、およそ二十年ぶりに親爺さんに連絡を取ってみようと思い立った。当時の記憶を元に、パソコンのキーボードを叩き情報を探し求める。すると、予想したよりも早く結果がもたらされた。そして、それは俺を地の底に叩きつけるかのような結末だった。



 親爺さんは、死んでいた。

 それも、不慮の事故で数年前に此の世を去っていた。



 検索結果を示すパソコンの文字列は、ひたすら冷徹に事実を伝えていた。俺はハンマーで頭を殴られたような衝撃を受け、椅子からよろりと立ち上がると憑依りつかれたように台所から寝室までを、ふらふらと歩いた。一歩踏み出すごとに心体からだの芯を支えている魂が削られ空漠に霧散してゆき、空っぽになったまま、再びパソコン前の椅子に座り直した。


 画面の片隅に開いていたノートパッドの、カーソルの無機質な明滅が、かろうじて俺とこの世界を繋げていた。


 いや、冷静になって考えれば二十余年、何も連絡を取っていないのだ。

 親爺さんにとって、俺はほぼ無関係な存在といえるだろう。


 だから、

 悲しい? いや違う。その感情は単なる自己満足にすぎない。心底悲しいのだけれど……俺に、そう感じる資格は、ない。ただ、一時なれど心を通わせた存在がいなくなってしまったという喪失感、これこそが正解なのだろう。


 親爺さんと話す機会は永遠に失われてしまった。

 青春の、無駄にしか思えないような偉大な時間はもう二度と戻らない。


 だから、


 時計店の親爺さんの話をしよう。


 蛍光灯の光がウイスキーのグラスに触れ、あのセピア色の空間が、滲んで、揺れる。


 時計店の親爺さんの話をしよう。


 白熱電球の光が、愛すべき皺の刻まれた額とニキビの癒え切らない頬を照らし出した、あの空間の温もりが、消えてしまわないうちに。


(完)

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