3.真っ白でいて誰もいない海水浴場を独り占めして遊泳した報いなのか。
沖縄の街はゆらりゆらりと揺れていた。
何のことはない。数日間、大海の波間に揺られ続けることに身体が慣れきってしまい、いざ動かない陸地に立つと、今度は地面の方が揺れだしたのだった。
この現象は陸酔いと呼ばれていることを後で知った。真っ直ぐ進んでいるのに右に左にゆらりゆらりと傾く青き空の下、初対面の南の街を関西ナンバーの原付が走り抜けてゆく。
沖縄での出会いは、飾り気のないまぶしさと、それが故の影を俺の心に刻み付けた。
「内地の人ですか?」
道すがら訪れたファミリーレストランの十代であろう女性店員から突然声を掛けられた。国道沿いの大店舗で、どこにでも見掛けるような制服を着た女の子だったので、いきなりマニュアル外の言葉を投げ掛けられた俺は、大いに不意打ちを食らった。
「なぜ分かるの?」
そうです、とは素直には返さず、逆に彼女に質問を投げ返した。その女子はメニューの束を持った手を後ろに回して、ふふっ、と柔らかく笑った。
「雰囲気で、何となくです」
内地の人、という言葉に俺は少なからずショックを受けていた。そこには私たちはあなたたちのいる所の外である、というニュアンスが感じ取れたからだ。話す相手のいない一人旅だったので、少し過敏に反応してしまったのかも知れないが。
彼女はやはり、それほど深い意味を込めていなかったのだろう。柔らかな笑顔のまま、俺のテーブルからメニューを下げ、軽い足取りで厨房へと消えていった。
本島北部の本部半島沖合いに浮かぶ伊江島へ向かうフェリーでは、数人の米海兵隊員と乗り合わせた。米兵を見るのは初めてだったので緊張と興味が入り混じった視線を送ってしまったのだが、他の客はまったく意に介した様子はない。外国人、それも兵士が日常の一風景に溶け込んでしまっているのが、とても新鮮に映った。
最後の激戦地となった沖縄本島南部の摩文仁の丘を訪れた時のこと。戦没された方々の名前が刻まれた黒御影石をバックに米兵の家族が記念写真を撮っていた。笑顔で写真に納まる彼らに、かつての敵国を蔑み貶める心はまったくなかったであろう。真夏を思わせる六月末の猛烈な日差しの中、幾多の黒き墓標を包む陽炎に揺れる少女たちのVサインが、アメリカという国が1万を超す自国兵士らの犠牲のうえに制した島であるという事実を、まざまざと認識させられた。
つい話がそれてしまった。時計の話に戻そう。
本島南部から国道五八号を快調に北上し、北部の中心地である名護に到着した。テントでの二泊、海水浴は一度経験していた。珊瑚のかけらが敷き詰められた、真っ白でいて誰もいない海水浴場を独り占めして遊泳した報いなのかもしれない。
親爺さんから借りた時計のバンドが、ブツリと切れてしまった。