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2.老職人の声は拍子抜けするほど明るく、ごく自然に親爺さんと改められた。

 店内はガラス戸からの陽光を拒絶するかのように薄暗く、人の気配など三日前に置き忘れてしまったかのようだった。奥行き5メートルにも満たないワンフロアが店のすべてらしく、恐らくその奥のスペースや階上が、時計店主家族の生活空間となっているのだろう。


 店頭に売り物としての時計が陳列されていたのかどうかすら覚えていない。二、三点のセイコーが眠るようにうずくまっていて、時計自身も付けられたことを忘れているであろう黄ばんだ四角い紙片にかつての価値を示す数字が印字されていたように思う。棚には薄汚れて形の崩れた小箱や何年も使った形跡がみられない機械類がうず高く積み上げられていた、そんな記憶が微かに残る。


 すみません、を連発しながら店の中を進むと奥の空間から、一人の老人が現れた。白髪交じりで細面の骨ばった顔をした、れっきとした老人だった。そして、どこをどう見たとしても頑固者であるオーラを存分に発していた。


「時計のバンドを直してほしいの、ですが……」


 気弱な性格を正確に反映して語尾が尻すぼみとなった。


「はいはい。ちょっと見てみるわな」


 強面な老職人の声は拍子抜けするほど明るく、俺の心の中でごく自然に親爺おやじさんという呼び方に改められた。そして問題の時計を差し出すと、親爺さんはしなやかで無駄のない動きでそれを受け取った。


 カチリ。


 店舗スペースの最深部に据え付けられた作業台の白熱電球に光が入る。それまで暗黒の机上で沈黙を保っていたネジや歯車、ピンセット、ドライバーなどが我先にと黄金色に輝き出す。それと同時に、親爺さんは右眼にルーペをはめた。円柱形をした黒い胴体のルーペを上下のまぶたでくわえ、それが故に厳粛で真剣な職人の表情を以って俺の時計と向き合っている。


 角度を代え手馴れた手付きでバンドの接合部を見終えた親爺さんは、顔をしかめている。聞くと、一部の金属パーツが変形してしまいバンドがうまく留められないとのことだった。


「1時間で作業するのは無理やなあ」


 親爺さんはポツリとつぶやいた。ルーペで時計をしかと見ている間、あと1時間後には沖縄行きフェリーに乗らならければならないことを伝えていた。そして、キャンプの旅であることも。


「これを持っていったらええ」


 差し出された親爺さんの手には樹脂製バンドの黒い時計が握られていた。アナログ表示で、みるからに廉価な代物ではあったが、防水性能を考えたら現状でこれが最良とのことだった。

 すまんがこれで我慢してくれへんか、と目を伏せて申し訳なさそうに言う親爺さんの姿。一見いちげん客にここまで気遣いしてくれることを素直に嬉しく思い、その申し出を二つ返事で受け入れた。


「帰ってきたら、すぐ寄らしてもらいます」 

 

 十日後くらいになるかも知れませんけど。俺はそう言い残して店を出た。左手首の新しくて古い黒い時計の表面ガラスは六月末の陽光を勇ましく弾き返した。


 かくしてフェリーは出航した。その船の二等船室は「室」ではなく、通路より一段高いだけの床が寝床として広がっている空間だった。定員数百人規模だったと記憶しているが、乗り合わせたのはわずか数人だけだった。

 

 台風が近づいたため瀬戸内に避難したり、奄美である研究者と出会ったり、ポーカーに負け続けたり、食堂の飯がタダになったり、オリオンビールを飲みすぎたり……


 九州をはるか離れての太平洋上。広々としたデッキに一人立ち、大海と大空を抱く。きらきら飛び交うトビウオを横目に白く泡立つ航跡の合間に見えた、あのどこまでも深くどこまでも濃い藍色だけは、一生忘れることはないだろう。


 

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