1.ひやりとした金属の感触の向こう側に、小さな宇宙があった。
時計店の親爺は、もう此の世にはいなかった。
◇ ◇ ◇
チチチチチチ
「細かい音がするやろ。ええ時計の証しや」
厳格とまではいかないが普段あまり砕けたことを話さない祖父が目を細めて言う。
「ロンギネ…ス?」
「ちゃうで、これはなロンジンや。舶来のええ時計やで」
文字盤はシンプルではあるが大きく、細身の三つの針が上品さを醸し出している。大振りの見掛けから予想していたよりもケースは薄く、穏やかな金色に輝いていた。めっきり皺の多くなった色白な顔の中で、自慢の時計と同じくらいにしっとりと輝いている祖父の瞳に促され、もう一度、銀色の裏蓋に耳を当てた。
チチチチチチ
ひやりとした金属の感触の向こう側に、小さな宇宙があった。誰も知らない、誰も見ていない空間で、微細で勤勉な金属たちが発する硬質な音色は、秩序と永遠性を帯びた神秘的な響きを刻み続けていた。
それが、ロンジンとの出会いだった。
◇ ◇ ◇
沖縄行きフェリーの出航まで、あと2時間を残していた。しぶる弟から借り出した原付バイクに、テントと着替えを詰め込んだバッグを積んでの一人旅。大阪とはいえ港特有の、むわっとむせ返る潮の香りが旅への思いを掻きたてる。
いざ乗船と思いきや、腕時計の留め金が壊れた。左手首にだらしなくぶら下がったこの国産の時計は、祖父が中学への進級祝いにと買ってくれた。廉価ではあるがデジタル表示とストップウォッチ機能に少年ごころがくすぐられ、何度もねだったものだった。バンドがステンレス製なのと50気圧防水をうたっていたので、炊飯や遊泳など水周りの作業が多くなるキャンプ旅行の友に選んだのだが……
幸先の悪さは何としても振り払わねばならぬ。何といってもこの旅は卒業旅行。就職先が決まった翌週に一方的に研究を中断して、大学を飛び出してきたのだから。
急いで原付のわき腹を蹴ってエンジンを掛け、市街地へと戻った。数キロ走ると、それなりの繁華街に出くわした。都会とはいえ都心とはいえない土地。付近の大通りには大型の量販店が進出していて、一筋入ったその通りには個人商店が数件並ぶ程度の寂れた商店街だった。一昔前まではこちらが本通りであったのだろう。電器店やら雑貨店やらがぽつりぽつりと商いを続けていた。
あった。
アクセルを緩め、店先でヘルメットを脱いだ。波打つガラスがはめ込まれた木の扉は古めかしいが重厚さなどは微塵もない。昭和のまま時を止めてしまっているようだ。目を凝らしても店内は薄暗く、営業しているのかどうかすら疑わしい。だが扉には「時計店」と漢字で張り出されているので、目的の店で間違いないだろう。取っ手のあたりに着けられた程よく重ねられた手垢が、この店の信頼と信用を証明している。などと勝手な解釈をして扉を開いた。
「すみません」
「み」の部分は限りなく「ん」に近く、かつ、弱い音という関西独特のイントネーションを店内に響かせて店内に足を踏み入れた。