3.
その、夜。
奇妙な圧迫感で、あたしは目を覚ました。
重い。重たい。
仰向けでベッドに横たわるあたしの上に、何かが乗っている。払いのけようとしたけれど、体は少しも動かなかった。これが金縛りというやつなのだろうか。
どうにか自由を取り戻そうと四苦八苦していると、胸の上の何かが身動ぎをした。
すん、すん、と鼻を鳴らして匂いを嗅ぎ──暗闇で鈍く光るひとつしかない大きな瞳が、あたしを認めてゆっくりと瞬きをする。
あたしは悲鳴を上げて飛び起きて、それで今度こそ本当に目が覚めた。
カーテンの向こうはまだ暗い。蛍光塗料が塗られた時計の針が、午前2時過ぎを指していた。
夢だ。あんなのはただの夢だ。
そう思ってまた横になったけれど、胸と心に残る気味の悪さは拭えなかった。
けれど悪夢は、それでおしまいにはならなかった。
あれは夜更けにだけじゃなく、あたしが眠るたびにやって来た。
胸の上に、膝の上に、カバンの上に、机の上に。
いつの間には這い現れて、恨めしげにあたしを見る。ず、ず、と本当なら聞こえないくらいの音を殊更に立てて、前脚を使って醜く這う。
眠れなくて、眠れなくて、あたしの心はささくれて、苛立った。どうしてあたしがこんな目に、って思う。やがて時間を経るうちに、怖いよりも怒りが先に立つようになった。
そうして数日を経て、あたしの中に鬱屈してた不満が破裂した。
なんでこんなに何もかも、あたしの思い通りにならないんだ。あたしの邪魔ばっかりするんだ。あたしを裏切って、嘘をついて、乱暴をして、馬鹿にして。許せない。許さない。
あたしはいい子にしてたのに。
あたしは間違ってないのに。
あたしは正しいのに。
あたしは助けてやったのに!
ちゃんと助けてあげたのに、その恩を忘れて化けて出るなんて間違ってる。
なら──間違いは正されなければならない。
だからあたしは放課後、あの日以来立ち入っていなかった隠れ家に向かった。
まずは死体を確認するところから、あれがちゃんと死んでいるのだと確かめるところから始めようって決めたのだ。
でも本当を言えば死体を見にいくのなんて気乗りがしなかった。
きっと誰にも片付けられも、弔われもしないまま、この陽気で腐乱しているに違いない。きっとひどい臭いがしているだろうって予想してた。
それで足取りは重くなって、到着は夕方になってしまった。
入口を覗くその前に、鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。不思議と腐臭はしなかった。同時に、自分の仕草があれを連想させて更に嫌な気分になった。
鬱々とした気持ちのまま歩を進め、建物の中を覗く。
またもあたしの予想を裏切って。
そこには、何もなかった。
隠れ家の入口、確かに傘と死体を投げ捨てたはずの場所に何の痕跡も残っていなかった。ただ綺麗な床があるばっかりだった。
──ああ、
直感が走った。
──生きてるんだ。
冷水をかけられたみたいに怒りが萎んだ。忘れていた恐怖感が、夏の湿度みたいにわっと体を包んだ。
足が竦みかけたけど、でも逃げるわけにはいかなかった。
だって逃げて帰ったって、眠ればあれはまたやって来。
それにもし背中を見せたりしたら、あれはあたしを笑うに決まっている。あたしを馬鹿にするに決まっている。そんなの我慢がならなかった。
夏の長い日も、もう暮れかけている。廃墟の中は、外よりも早く夜だ。足元が暗い。
あたしはスマートフォンを取り出しして、それを当座の照明にして踏み込んだ。隠れ家はいつもと違って、なんだかあたしの敵みたいな雰囲気をしてるみたいだった。
まただ、って思う。
皆があたしを嫌いになる。皆があたしの邪魔をする。でも負けたりなんてするもんか。あたしは間違ってないんだもの。あたしは正しいんだもの。
自分を鼓舞しながら、いつもの部屋に辿り着くと、そこでは半開きのドアが揺れていた。
思い出せない。
どうしても思い出せない。
最後にこの部屋に来た時、あたしはちゃんとドアを閉めただろうか。
最初の頃は母猫が入り込んだりしないようにと、必ず戸締りを確認していた。でも後になってからは、いっそ親に殺されてしまえばって思って、あまり神経を使っていなかった。
こくん、とあたしは唾を飲んだ。
このドアは、あたしが開けっ放しにしたものなのだろうか。
それとも、あれが開け放したものなのだろうか。
あの日、最後にあたしがここに来た日、あれは外に這い出してきていた。
もしあたしの閉め忘れじゃないのなら、あれは自由にドアを開けて出入りできるって事になる。この建物のどの部屋に潜んでいても、全然おかしくないって事になる。
あれはこの部屋の中にいるのだろうか。それとも外を徘徊しているのだろうか。
内側の闇で待ち受けているようにも、廊下の向こうから這いずってくるようにも思えて、緊張でたちまち口の中がからからになる。
扉が揺れる。
ゆらゆら揺れる。
誘うように。招くように。
意を決して、ノブを掴んで引き開けた。
スマートフォンの光で部屋を照らし出す。殺風景な床、ミルクの器にトイレシート。寝床替わりに丸めた幾枚ものタオル。どれもこれも最後に見た時、そのままの風景だった。
あれは、いないみたいだった。
ほっと息を吐きかけたその時、タオルが蠢いた。
頭の毛穴が太くなるような感覚っていうのを、初めて味わった。肌にわっと粟が生じる。
生きていたんだ。生きて居るんだ。そこに居るんだ。やっぱり!
そうして今更ながらに気づく。
自分からあれの姿を探し求めていたはずなのに、あたしはいざ対峙した時、どうするつもりなのかをまったく考えていない。
逃げるべきか、もう一度殺すか。
その逡巡のうちにも布地はごそごそと揺れ、
「……え?」
ひょこりとそこから顔を出したのは子猫だった。ごく普通の子猫たちだった。
ああ、と思い至る。多分あれの兄弟だ。扉が開けっ放しなのに気がついて、勝手に押し入って住み着いたのに違いなかった。
安堵と同時に腹が立った。
なんだこいつら。あたしの物を勝手に、我が物顔に使うなんて。それだってタダじゃないんだから。
蹴飛ばして追い払ってやろうと部屋に踏み込む。
そうしたら。
ず。
音がした。あの音がした。あたしの背中の方から。
ず。
本当なら絶対に耳に届かないはずの、あれが床を擦る音。あれが這いずって動く音だった。
ず、ずず。
慌てて振り向くと、ドアの影からあのひとつ目があたしを見ていた。
すんすんと鼻を持ち上げて匂いを嗅ぎ、それはあたしを識別する。認識する。
「うそつきは、しね」
一度も鳴き声を漏らさなかったその口から、確かに人の言葉を発した。
そうして、ずるずると死角に逃げた。
数秒の思考停止の後、あたしは走ってそれを追った。もう猫になんて構ってる場合じゃなかった。
怖かった。
とにかく怖くて怖くて恐ろしくて、だから絶対に殺さなきゃって思った。
あれは逃がしちゃいけない。今度こそ殺さなきゃ。そうしなきゃ何をされるかわからない。
なのに。
必死で走っているのに、あたしはちっともあれに追いつけなかった。一体どうやってかあのサイズで、あの這いずり方で、あれはあたしよりも早く移動している。
暗がりで姿を見失ったのも、一度や二度じゃない。
でも足を止めて耳を澄ますと、必ずあの音がする。
すぐ先の影の中から、通り過ぎたそのすぐ後ろから。
ず。ずず、ず。
絶対に聞こえないはずのあの小さな音が、道しるべのようにやってくるのだ。
主客が転倒していた。
あたしは追いかけてるのじゃなくて、追いかけさせられている。追うのを強要されている。
「やだ、やだよぉ。もうやだ。なんでこんな、なんであたし、こんな!」
意味のない言葉の羅列が、意図せずに口から溢れ出す。いつしかあたしは泣きじゃくっていた。
もうどうにもたまらなくなって立ち止まる。両手で顔を覆い、荒い息のまま涙を零した。でも。
ず。
それが聞こえれば、顔を上げずにはいられない。
どれくらい、そうして走らされただろうか。
ず、ず。
今度のそれは、奇妙に高い位置からした。
見回すと階段の踊り場、その角からあの大きな瞳が覗いてた。あの小さな体で、どうやって階段を上がったのか。それを不審がる間もなく、
「うらぎりものは、しね」
あたしは悲鳴のように泣き叫びながら、全力で段を駆けた。そうして踊り場に降ろした足が、何かを踏みつけた。そして、ずるりと滑った。
稲妻のような一瞬で見えたそれは、ビニール傘だった。
畳まれて、でもネームバンドで束ねられないまま投げ出されたその傘の布地を踏んで、あたしの足はお腹よりも高く上がったのだ。
なんでこんなところに、と思う間もなく、あたしの体は真っ逆さまに転げた。
頭も肩も背中も腰も、全身を段差の角でごりごりとすり下ろされるみたく滑り落ちる。
痛くて、あまりに痛くて動けなかった。
下の階の床までの距離はそうなかったけれど、ひどい落ち方をしたみたいだった。
熱のようにじわじわと増してくる打撲の痛覚よりひどいのが、両足のふくらはぎだ。踏んずけた後、どういう具合に絡まってこうになったのか。ビニール傘のずたずたに折れた骨が、長く鋭くささくれて、あたしの足をざくざくに突き刺している。
落ちかけた時、むやみに腕を振り回した所為だろう。握り締めていたスマートフォンは、破片を飛び散らせながら廊下の向こうに転がってしまっていた。
普段なら、取りに行くのになんの苦労もない距離だ。でも今は違った。
頭ががんがんして、視界が霞む。思考が全然まとまらなくて、息するだけで胸が軋む。足は熱を帯びて鋭く疼いて、動くには両腕で這いずるしかない。
そんな状態のあたしには、光年ほどにも思える遠さだった。
でも壊れているかもしれないけれど、今はあれが、あれだけが命綱だ。
腕に力を込めると、頭から火花が出そうになった。ただでさえ目が眩むほどに痛いのに、どこかを動かそうとするとその全てが爆発みたいに連動して喚きたてるのだ。
赤ん坊のように泣きながら、1センチ、1センチと距離を進める。痛覚は少しも麻痺しないで、痺れるように鋭くあたしの神経全部を焼く。痛みに慣れるなんて嘘だ。こんなもの、もう一秒だって我慢できない。
それでも、こんなところで死にたくなんてなかった。
ひいひいと這って、あとちょっとでスマートフォンに指先が届く──そんな距離まできた。
心の中に希望が灯る。
でも、あたしは忘れていた。
ず。
そこに、あれがいた。
あのおぞましい単眼が、じいっとあたしを顔を見据えていた。
「ひ……っ!」
激痛も忘れて、思わず息を呑む。戻した指の先で、それは前脚を使い、ちょんとスマートフォンをつついた。
少しだけ、ほんの少しだけだけど、希望があたしの手から遠ざかる。
嫌な予感が心の中に膨らんだ。
──嘘だよね? まさかそんな事しないよね? そんな酷い事しないよね?
またもちょんと、それがスマートフォンを押す。あたしから遠ざける。
数字に直せば何の事もない、ごく僅かな距離。でもそれが今のあたしにとってどれだけ辛いか、それを確かに知ってるやり口だった。
──頑張ったんだよ? あたし痛くて、でもここまで頑張ったんだよ? あたしこんなに頑張ったのに、なのに!
声にならない悲鳴が聞こえたみたいに、それは見えてないはずの瞳をあたしへ向けた。
そうして、言った。
「らんぼうものは、しね」