1.
死ね。
死ね死ね死ね死ね皆死ね。
そう念じながら、六月の曇りの下をゆらゆらと歩く。
あたしの前を走る子供が邪魔。あっちへ行ったりこっちへ来たり、フラフラと鬱陶しい。
あたしを追い越していったおばさんが邪魔。今当たったんだけど。その膨らんだ買い物袋が当たったんだけど。ちゃんと謝ってよ。
あたしと同じくらいに歩く年寄りが邪魔。ずっと監視されてるみたい。うざい。早くどっかの曲がり角に消えればいいのに。
もちろん思ってる事は口に出さないし、出せない。
頭の中でなら好き勝手に言えて、好き放題に振る舞えるけど、現実のあたしはただの学生、中学生だ。その上嫌われ者だ。だから弁えている。世間は絶対、あたしの嫌いな子供やおばさんや年寄りの味方ばっかりするに違いないのだ。
だけど妄想の八つ当たりでもしなければいられないくらい、あたしの心はやり場のない鬱憤ではち切れそうになっていた。
荒い衝動に任せて歩を早めたら、ずきり、とお腹が痛む。
できるだけ優しく手で撫でると、その温度のお陰か、少しだけ楽になった気がした。
あたしは、いじめられていた。
きっかけはよくわからない。何をしたわけでもないのに、いつの間にかクラスで浮いて、孤立していた。
でもあたしがしたのは正しい事だけだ。授業中に騒いだり、人の噂話に興じたり、任せられた役目を放棄したり、学校に関係ない私物を持ち込んだり。そういうのは間違っていて、注意されて当然だって思う。
だから絶対に俯かないで、負けずに睨み返していた。そうしたらそれは、段々とエスカレートしていった。
あたしが通り過ぎた後ろで聞えよがしな陰口を囁かれ、笑われた。指摘すると今度は無視をされて、そのうちに私物を隠され捨てられるようになった。
皆があたしから距離を置いて、嫌な目線を浴びせるようになった。
だから相談をした。
当たり前だけど、相手はクラスメイトなんかじゃない。そんなの意味がないってわかってる。
最初は担任にだった。その先生はいつも快活に「困った事があったらなんでも相談しろ」なんて言ってたから。
でもいざ持ちかけたらひどく迷惑そうな顔をして、「お前にも問題があるんじゃあないか」だった。先生はお前らの味方だなんて吹聴しておいて、とんでもない嘘つきだった。
──嘘つきは死ね。
次はお母さんにした。
でも「またなの」って返されただけだった。「私にも人付き合いがあるのよ」って億劫そうに俯いて、それっきりだった。お父さんはもっと酷くて、眉間に皺を寄せて首を振るだけだった。明らかに「面倒を持ち込むな」って顔をしてた。
手ひどい裏切りだと思った。
お母さんとお父さんの言う通りに、言われた通りのいい子をちゃんとしてきたのに。し続けてきたのに。
その二人ともが、あたしの事なんてどうでもいいみたいだった。興味がないみたいだった。
──裏切り者は死ね。
おまけに役にも立たないあの担任が「いじめはよくないぞ」みたいな話を唐突にし出したものだから、そこからあたしが言いつけたのがバレてしまった。
それで、暴力を受けた。
「いい加減鬱陶しいんだけど」
「何様のつもりなの?」
そう罵られて、お腹を殴られた。痛くてうずくまったら、そこを皆で踏みつけられた。一人に対して複数でかかって正論ぶって、なんて卑怯なんだろう。
なんであんな奴が、あんな奴らがのさばるんだ。
あたしの方が正しいのに。こんなの絶対、絶対間違ってる。
──乱暴者は死ね。
しかもあたしが助けてやったあいつらは、最後まで見て見ぬふりのままだった。
正義の味方なんていない。
それが今日思い知った事実だった。
正義の味方なんていないのだ。あたし以外には。
もしあたしに力があったら、みんな、みんな、やっつけてやるのに。
どこにも行き場のないあたしが逃げた先は、町外れの廃ビルだった。
ベッドタウンになりそこねたこの街には、こういう建物がいくつかある。建てられて、使われないまま放置された場所だ。
放って置かれて理由は、壊すのにもお金がかかるとか、失敗したみたいで世間体が悪いとか、単に面倒くさいとか、そんなとこだろうって思う。あたしに対する、うちの親の態度と一緒だ。
でも人と時間に忘れられたみたいなここは、全然壊れても汚れてもいなくて、だからこそ変な連中も近づかないみたいで、隠れて一人きりの時間を過ごすのにちょうどよかった。あたしの、お気に入りの隠れ家だった。
そうしていつものように、廃墟の一室に座り込んで、ぼおっとお腹を摩っていたら。
突然、猫の声が耳に飛び込んできた。
それは普通に想像するにゃあにゃあって鳴き声じゃなくて、威嚇と怯えが綯交ぜになったみたいな、悲鳴じみて必死の響きをしていた。
少し悩んだけど、人間じゃないなら怖くはない。
好奇心に駆られてあたしは立ち上がり、音を頼りに猫を探した。
幾つ目かの部屋で見つけたのは、全身の毛を帯電したみたいに逆立てた母猫と、その後ろでみゅうみゅう鳴いている、生まれたてと思しき子猫たち。
そして親猫が凝視する先の床をずるずると這う、バケモノだった。
その大きさは子猫と同じくらい。
でも全身に体毛はほとんどなくて、ぶよぶよと気持ちの悪い赤い肌を晒していた。
足は鳥の手羽みたいに折れ曲がって縮こまっている。それを打ち上げられた魚のヒレのように動かして、母猫目指して蠢いていた。
口から垂れるのはよだれだけで、可愛らしい声なんて全然漏らさない。両耳の間に少しだけ生えている体毛が、人間の髪の毛みたいでより異様だった。
何より気味の悪いのは、ひとつきりのその目だ。
片方が潰れてるとかそういう事じゃなくて、両方の目と目がくっついてひとつになったみたいな、大きな楕円の単眼だけが、その顔の大部分を占めているのだ。
親猫がこのビルに入り込んで、こっそりと子供を生んだ。そこまでは理解できる。
でも、これはなんなんだろう。このバケモノは一体なんなんだろう。あたしは息を詰めて、ただその動きに魅入られる。
またしてもびっくりするほど大きな声で、母猫がにじり寄るバケモノを前足で払った。それはあっさりコンクリの床を転がって、苦悶めいた身震いをする。
ただ気持ち悪いだけの姿だったけど、それでもなお縋ろうとするその有り様を見て、あたしの中に閃くものがあった。
ひょっとしてこれも、子猫なのじゃないだろうか。
たまたま一匹だけ、他とは違う醜い姿で生まれてしまっただけの、母親を求めているだけの子猫なんじゃないだろうか。なのにあんなに邪険にされて、可哀想に。
そう思ったら、咄嗟に飛び出していた。
「やめなさい! 自分の子供になんて事をするの!」
異形の子猫に集中していた親猫にとって、あたしの登場は予想外みたいだった。こっちが驚くくらいの素早さで子猫たちの前にまで飛び退った。
だん、と足を踏み鳴らしてやったけど、もう逃げる素振りはない。
自分の子供には指一本触れさせないって、そういう気概に満ちてるみたいで、尚更に腹が立った。出来損ないを追い払おうとしてたくせに、したり顔で綺麗事を語るみたいに見えた。
「お前が要らないんなら、この子はあたしがもらうから」
睨みつけながら、“子猫”を抱き上げる。
そうして母猫を無視して、あたしは最初にいた個室に戻り、しっかりと部屋のドアを閉めた。
あたしの腕に抱かれたまま、それは力なく、弱々しく震えている。
やがてすんすんと鼻を持ち上げて鳴らし、あたしの匂いを嗅いでいた。そのひとつ目は、あまり見えていないようだった。時たま口を開けはするけど、声も出ないらしかった。後ろ脚はないくらいに短く萎えて、前脚で這う事しかできないみたいだった。
小さくて、ひどく儚い命に見えた。
それはあたしが初めて見つけた、あたしよりも弱いものだった。
可哀想なこの子を救ってあげよう。
そう思ったら、心がぬくもりで満ちていくのが感じられた。
「お前も皆に嫌われてるんだね。なら、あたしと一緒だ」
膝に乗せて、そっと手のひらで包み込む。
優しく優しく囁いた。
「あたしがお前を助けてあげる。お前はあたしが守ってあげる。あたしがお前の親で、あたしはお前の味方だよ。あたしだけが、お前の味方なんだよ」
“子猫”は。
まるであたしの言葉を理解したみたいに、こくりと頷いた。