見つめあい
「な…なに言ってんだよ。そんな急に…」
余りにも急な雪子の言葉に動揺が広がるばかりで、頭の中が白く霞んでいく事がとても怖かった。
「そんな情けない顔するな。こんな風に暢気に見えても、近い先を告げねばならない私はオマイサンの何百倍も怖いでんすからね」
雪子はとても笑みとは呼べない表情を浮かべた後に、ゆっくりと瞬きをひとつして息を吐いた。
「まあ、まだあと少し時間は残っています。それがどの程度の長さなのかは検討はつきませんが。残っている時間のその全て、大事な我が子に注ぎます。だから…私が尽きたらオマイサンの手で――」
「勝手な事言うなよ! そもそもお前が書くって言って始めた事だろうが! だったら書かなきゃ良かったじゃないか! お前が書かなきゃボクだってこんな思いをする事もなかったのに! なんでだよ! なんでこんなに突然――」
「物事はいつだって突然と共に在るものなのです。始めから分かりきっているなんて事は本当はないのですよ。幸も不幸もどちらもね。だから人は期待をしたり、希望や夢や、憧れを抱くのです。反面、憎しみや哀しみ、絶望に苦しんだり目を背けて諦めたりするのですよね。めんどくさい、人間とはなんとも難儀な生き物ですよね? 全く」
雪子は起き上がり、ゆっくりとボクに近付き、互いの顔がはっきりと見合える数十センチの距離で真っ直ぐにボクの目を見つめて、
「オマイサンに訪れた私という突然は、幸でしたか? それとも不幸でしたか?」
そんな問いを投げ掛けてきた。
「…わかんねえよ、そんな事…」
嘘だ。本当はわかってるんだ。でも答えたくない。
だって、結論を口に出したらお前との別れを嫌でも認めなきゃいけないじゃないか。
ボクは雪子の真っ直ぐな瞳から、まるで嘘を隠す子供みたいに視線を反らして逃げた。
「私は…、私に訪れたオマイサンという突然は、幸でもあり、不幸でもあると思っています」
雪子はそう告げて、か細い笑みをボクに向けて、
「両方もれなく心ゆくまで味わったのですよ。こんなに短い時間で沢山の幸せも、それと同等の不幸せもね。だってそうでしょ? 元々私の生きた時は二十年も前に止まっていて、今在る私はもうこの世になにも生み出す事が出来ないただの残留思念の塊なのですからね。神様ってなんて残酷で、なんて優しいんでしょうね。私を単なる塊で留めてくれたならこんな気持ちは味わえなかったよ」
消えかけた両手をゆっくりと組合わせて握り、震える口元に引き寄せ俯いた。
「一緒にいる事がこんなにも楽しくて幸せなのに。毎日毎日毎日。くだらなくて楽しくて嬉しくて仕方ない事だらけの愛しい日々でした。だけどオマイサンには触れる事が出来ない。もどかしい。こんなにもお互いが近い距離にいるのに。時々頑張るオマイサンを撫でてやる事も、時々怠惰で我が儘で頑固なオマイサンの頭をひっぱたいてやる事も出来ない。それがどれだけ寂しく辛く哀しい事か…」
目を閉じて、込み上げるものを堪えるようにひとつ息を吐き、再度ボクを見つめて、
「でも、だからこそ分かったんですよ。オマイサンという人と心が通い重なりあう瞬間がこんなにもこんなにも素敵な事だという事が」
固く組まれた両手がほどかれ、ボクの頬にそっと両手が添えられた。その手には温度はなく、触れられている感覚もない。だけど、確かに雪子はボクに触れている。なんだかそう思えた。
「ボクにとっても、お前という突然は、幸福と不幸のつづら折りだよ。無駄な色気でボクを翻弄させるわ身勝手でうるさいわ、そしてどこまでも自由で偉そうなお前様の説教説法が、遠い昔に置き去りにしたボクを引き戻した。お前がいなければ、想像、創作の楽しさや苦しさに再度出会う事は出来なかった。全く。忌々しくて悩ましくてめんどくさくて、かわいいやつだよお前様はよー」
きっとボクの表情は呆れるくらいぶっきらぼうだろう。そんなボクを見て、雪子は漆黒の瞳を輝かせ大きく見開き、
「本当にオマイサンはぶきっちょで小憎らしい男ですね」
まるで、白い小花が風にそよぐかのように笑った。
「よし、書くぞ。早く入れ」
「え…?」
「まだ時間はあるんだろ? 大事な時間だ。一秒も無駄にするなよ」
「でも…」
「大事な我が子だろ? ボクは生みの親でお前は育ての親。ラストくらいは両親が力を合わせて完成させてやってもいいだろ?」
ボクの問いかけに雪子は、
「オマイサンは…全く…」
そう笑って、両手を広げてボクを抱き締めるように心のに 入ってきた。