自由なやつだな
それから雪子は、パソコンはもういいからとボクにノートと鉛筆を要求して、全くの無言でノートに鉛筆を走らせた。
なんてか…懐かしいな。
白いノートの上を游ぐかのように動く鉛筆。白地に規則正しく並ぶ灰色の横線のみの場所が、文章であっという間に埋め尽くされていく様はなんとも小気味が良い。だけど書く速さよりも読むそれが勝るので、話の内容はそこそこしか入らない。今は読むはやめて、その作業、動きのみを見つめる事にした。
筆圧が強めで、はっきりとした字を書くんだな。なんというか、書く字に性格が出てるのかもしれないと頷きたくなるような…中々頑固そうな字だ。
女性の字って華奢で小さい人が多いのに、雪子の字は骨太で堂々としてる。まあしかし、ボクのほうが字は綺麗だぞ。うん、そんな事どうでもいいな。
無音の部屋に響くのは鉛筆が游ぐ小さな音だけ。テレビくらいつけろよな…とは思ったけど、ボクの視界は今は雪子のものなので、テレビは見れないから意味がない。
だからなにも言わずに雪子の目に映るノートをぼんやりと見て、なんとなく自分の昔を思い出した。
遠い昔。ボクもこうしてノートに書いてた頃があったなぁ…。
あの頃は今のようにインターネットなんて全然普及してなかったし、携帯電話なんてのも子供のボクには未知の世界だった。好奇心が無駄に盛んで背伸びしたがりな中坊時代。あの頃はポケベルを持ってた奴がすんごい羨ましかったなぁ…。
今みたいに小説を書いても気軽に投稿なんて事は決して出来なかった。一人で書いて、誰にも見せる場もないし、そういうのがあったとしても知らなかったし。だけどなんだかそれでも楽しくて一人夢中で書いてたっけ。
書いてたのは好きな作家の小説の真似事みたいなものだったけど、確かにボクの中で夢は大きく拡がってた。
いつかは自分も…。
そう思ってた時期もあった。だけどそんないつかは来なかった。
夢は早々と忘れて現実的な事を考えて生きていくだけの日々に埋没した。
就職難の時代。必死で見つけた就職先が今のファミレスの仕事だった。
早くに父を亡くし、母子家庭で育った事もあり、女手ひとつで苦労して育ててくれた母を早く楽にしてやりたいという気持ちが夢よりも先に立った。
母はボクが一人立ちして三年後、良き人と出会い再婚して平凡な幸せを得て暮らしてる。
早く孫の顔がみたいと言われる歳になったけど、まだまだ当分その期待に応えられそうもないな、ごめんな母ちゃん。
がむしゃらに働いてきた。結果店長を任されるまでになり、それなりの知り合いも、友人と呼べる人も出来て。まあ結構忙しい身で、週末や世間が休みの日に忙しく休みのない不規則な時間の仕事だから彼女とかは中々無理だけどね。うん。人生ってばこんなもんだろうくらいの気持ちで大きな不満なくやれてるかな。
小さな心のゆとりが出来たからだろう。何気に入った古本屋で、昔好きだった小説に再会した事が切っ掛けで再度書きたい気持ちが膨らんだ。
あの頃とは違って、趣味程度だけどな。そして、無料サイトに登録して作品を投稿してみたわけだ。
まあ、投稿した結果なんてそんなもんだろう程度だった。数人が閲覧し、感想もなにもない。
ボクの書くものは世間のニーズに合ってない。そんな事はわかりきってたよ。
他者の作品を読んでみた。
アマチュアってのはこんなにレベルが高いもんなんだな。まあ作家志望で書いてる人が多いんだから、ボクみたいな趣味の人とはわけが違うよな。
同じ好きでも、好きへの思いや熱がボクとはまるで違うんだろうな。
そう感じたら、なんだか自分の書くものが酷く稚拙なただの文字に思えた。
趣味の人と自分を位置付けてるくせに、割りきれていない自分が嫌だった。
子供の頃に見がちな小さな夢だったはずなのに。
現実や日常にあっさりと埋もれてしまった夢だったはずなのに。
あれからもう十五年以上も経ってるのになんで今ごろになってこんなに悔しくなってんだかねぇ…。
ぼんやりと考えていたら、突然ピタリと鉛筆が止まった。
「ああもうだめだ…」
雪子は悲愴感たっぷりの声で小さく呟き項垂れた。
「なんだよ、散々書きたい書きたい喚いて偉そうな事を言ってたわりには、すんげ早いギブアップだなおい」
熱意は口だけかよ。まあそんなもんだろ。
そう考えたら、なまあたたかく笑いたくなった。
「ぅあああ~っ! 人の体に入って操るってこんなにもエネルギーが必要だなんて初めて知りましたよ! うんにゃぁあああ~~~お腹が空いた~っ! 喉が渇いたよ~~~っ! このままでは飢えと渇きで死んでしまう~~っ!」
「はぁあああ? いやお前、すでに死人だけどな!」
「ああもう無理です~。一文も書けません~」
「じゃあ出てけ。今すぐボクの体から出てけ」
「無理。絶対やだ。だからおやつください」
「んなもんねえよっ!」
「え~…、おやつくらい買っといてくださいよ~…全く気が利かない人ですねぇ…」
「ふざけんなよあつかましい」
「はっ! そうだ、困った時は! 冷~蔵~庫~~っ!」
雪子は立ち上がり、台所へと歩いて、
「おい! 人ん家の冷蔵庫を勝手に漁るなよ!」
「残念ながら先にここに棲んでいるのはオマイサンではなく私なので。ですから人ん家ではありませんので。ここは私のお家でもありますので~♪ あ~~っ! あるじゃないですかっ! 素敵なおやつが~っ♪」
冷蔵庫の中に入れておいた酒のつまみの乾きものを取りだし、
「おほっ♪ ビールも発見~~♪」
「おまっ! マジふざけんなよ!」
缶ビールのプルトップを起こし、勢いよく飲み、
「ぷふぁあああ~~っ♪ うんまっ! いやあ~、二十年ぶりのビールはやっぱり最高ですなあ~っ♪」
盛大に息をついて笑った。オッサンか。
「つーか、酒飲みながら書く気かよ。お前やっぱりバカだろ」
「書きますよ~。ちょっと休憩したらね~」
そう言って、冷蔵庫からビールを数本取りだし抱えて、テーブルに置き、つまみを広げて…これ、休憩じゃないよな? どう見ても宴会モードだろこれ。
「そういえば、私、まだオマイサンの名前を聞いていませんでしたね。お名前は?」
スルメをくわえながら、雪子はボクの名前を尋ねてきた。
「明孝。宮元明孝だ」
「あきたか、ふむ、中々良い名前ですね。よし、わかりました。私はこれからもオマイサンと呼びましょう」
「…名前聞いた意味ないよなそれ」
「意味は充分にありますよ。だって、名前を知ってオマイサンという人をひとつ知ったんですから」
「なんだそれ。別にボクの事なんか知らなくてもいいじゃないか…」
「これから一緒に暮らすんですよ。相手を知ることは大事ですよ?」
「お前が勝手に居座ってるだけでしょ?」
「いいじゃないですか居座ったって。生きてゆくに必要な費用は一切要らないんだし。お財布に優しいお得な私ですよ?」
「ビール飲みながらスルメ食ってるこの状態でなにほざいてんだよ」
「は~あ~っ♪ 久しぶりの酒で気持ちよく酔っぱらった~♪オマイサンもカリカリしてないで飲みなさいよ」
雪子はそう言って体からふらりと抜けて、ボクの傍にぺたりと座った。
「なんだよ、結局書かないのかよ」
「今は書くよりオマイサンと一緒に語らいたいのですよ」
「ボクは一人でのんびりしたいんだけどな」
プルトップを起こして、ビールを飲み息を吐くと、
「私は二人でのんびりしたいんだけどなぁ~。ねえ、オマイサンはどんな仕事をしてるの?」
「飲食業。ファミレスの店長やってる」
「おおっ! 店長さんか。凄いじゃないですか」
「大したことないよ。店長ったって、本部が管理してる店舗のひとつを受け持つ程度。サラリーマンと大差ない仕事だ」
「ふむ、でもそれでも凄いですよ。店長さんはお店で一番偉い人なんだから」
「店で一番めんどくさくて大変な仕事を押し付けられてるだけで偉くもなんともないけどな」
「ふむふむ」
「バイト管理、社員管理、客のクレーム対応、心労をあげたらきりがない…」
気が付いたら、ボクは雪子に鬱積した愚痴を吐露してた。そんなボクの愚痴をふむふむと頷きながら、楽しそうに聞いてくれるもんだから…。
結局、明け方まで話してしまった。
今日も寝不足で仕事へ。しかし、心は驚くほど軽かった。