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第二話『かけがえのないもの』

 フリストが運転する赤いセダンは野営地を離れたあと、小さな街に行った。決して豪華じゃない。むしろみすぼらしい雰囲気があったが、それぞれの家から漏れ出る明かりは、その家庭の暖かさを表している。ここが僕の住んでいる街だ。

 セダンは街に入り、街角にある小さな一軒家の前に停まる。この一軒家が僕の家だ。セダンを降りると、ボルシチの美味しそうな芳香が鼻を通り抜けた。僕は自然と口の中に唾液が広がるのを感じる。

「ふぃー、腹減ったな。さて、がっつくとするか!」

「がっつくのはいいけれどお前、この間みたいに僕の分まで食べようとするなよな。あの時は本当に怒ったんだから」

「わかってるわかってるって! お、ヴェルじゃないか! 元気だったかい?」

 家の前に建っていた犬小屋から、黒い毛色のラブラドールレトリバーがのそっと出てきたのを見たフリストはその犬の頭を撫でた。彼女はヴェルーチェ。僕ら、ハーン家の愛犬だ。頭を撫でられたヴェルは気持ちよさそうに目を細めた。

 僕らは家の中に入った。玄関のすぐ隣にあるキッチンで本を読んでいた僕の妹、イリーナは読書を中断し顔を上げた。

「ただいま、イリーナ」

「あ、おかえり、兄さん。そしてフリストも」

 年相応の少女の姿をしながらも、雰囲気やその表情からは既に大人の女性の片鱗を窺わせるイリーナは出迎えの挨拶をした。

「邪魔するぜ、イリーナ」

 フリストは挨拶をして僕より先に部屋に足を踏み入れた。僕もそれに続き、部屋に入る。

 部屋の中央には広いテーブルがあり、その上には色々な料理が並んでいた。

「じゃあ、イヴァン食おうぜ」

「ちょ――」

 イリーナの制止する声には耳も傾けず、フリストはパンを素手で掴み食べた。

「うーん! なかなかいい焼き加減だな」

 僕はチキンを手に取り、かぶりつく。じわっとした肉汁が口の中に広がった。歯ごたえも悪くない。

 イリーナはというと、後ろで眉をピクピクさせていた。

 僕とフリストはそんなことには気にもかけず、目の前の食事で空腹を満たしていた。

「ん! このキエフスキー美味いぞ、イヴァン」

 フリストは興奮気味に僕に向かって、そのカツレツを勧める。

「どれどれ」

 僕は手掴みでキエフスキーを口に運ぶ。

「おお! これはいいな!」

「だろう?」

 そんなやり取りをしている後ろで、今にも爆発寸前なイリーナはガタガタと震えだしていた。

「それじゃあ、次はこのポテトサラダを味見といこう」

 僕はそう言い、皿に盛ってあるポテトサラダを指ですくい、舐めた。

「手を洗ってから食べなさぁぁぁい!!!」

 イリーナのその叫びが、家の中で爆発し、家の外にも木霊し、街を震わせた。


           ※


 街の外の東側、この街を見下ろせる丘の上には一台のジープが停まっていた。

 そのジープの周りにはふたりの男が双眼鏡を覗きながら、街の様子を見ていた。男の一人はゆったりとしたグレーのスーツに身を包んでおり、もう一人は政府軍の野戦服で身を固めている。

「あそこが例の街か、ニコライ?」

 スーツの男はニコライと呼ばれた男にそう聞く。

「えぇ、この街は噂じゃあ治安はいいと耳にしてましたが、まさかこんなにも安穏としてるとは」

「反政府軍のホームグラウンドとはとても思えんが……、ここの情報で間違いはないんだな?」

「はい、それは確かです。反政府軍側の人間が、この街へ向かっているとの情報がありますので」

 スーツの男が双眼鏡から顔を上げる。端正なヨーロッパ系の顔立ちをしているが、その瞳には人を何人も殺めてきたかのような、冷酷な色が浮かんでいた。

「よし、それじゃあ続行だな。こっちとしても目の上の瘤は早く潰しておきたいんでね。……奴らは当然、歯向かうだろうがこっちにとっては些細な問題でしかない。ニコライ、奴らがもしそうするなら、わかっているな?」

「心得ております、ミスター・ロックフォード」

 その返事に満足したのか、ロックフォードは踵を返し、ジープに戻った。

「やられたらやり返す……。それだけじゃいつまでも争いごとは収まらない。反政府軍にはもうちょっと賢くなってもらわんとな。さて? どう出るか」

 ロックフォードとニコライの乗ったジープは街を後にした。


         ※


 イリーナにこっ酷く怒られ、そのあと夕飯を済ませた僕は、母さんのいる寝室の前に訪れていた。ノックを軽く二回する。

「母さん、僕だよ」

「イヴァンね? 入って」

 母さんは弱々しい声で言った。あの日以降、病状は徐々に回復には向かっているものの、まだまだ本調子とは言い難い。

 僕はドアを開け、寝室に入った。

 母さんはベッドで仰向けに寝ており、顔だけをこちらに向ける。

「イリーナの声が聞こえたわ。ひどく怒ってたみたいだけど、どうしたの?」

「いや、ちょっと行儀の悪いことをしてしまってさ。それより母さん、具合はどう?」

「今日はすこぶる良かったわね。食事も三食ちゃんと食べたわ」

「良かった……」

 僕は胸をほっと撫で下ろした。

「それで、お前はどうだい? 今日の工場は」

 母さんはそう聞いてくる。

「うーん、今日は出荷がいつもより多くて疲れちゃってさ。早く休みたいよ」

 僕はそう答えた。


 母さんには、僕はパン工場で働いてると嘘の情報を伝えていた。母さんには心配をさせたくないし、何より病状の悪化も十分に考えられたからだ。母さんは僕が自立したことを知った時はたいへん喜んでくれていた。が、それは嘘の上で成り立った喜びだと思うと、胸糞が悪くなったものだ。しかし、稼ぐ方法はそれしかないのだ。妹と母を養っていく方法は。

 だが、イリーナの目は誤魔化せなかった。ある日僕は火薬と硝煙の臭いを染み付かせた服で帰宅すると、イリーナには即効でバレた。火薬と硝煙の臭いは僕ら兵士には馴染みの香りだったので、気づいてなかったのだ。イリーナはそれまた即効で母さんの寝室に行き、チクろうとしたけれど、僕は引き止めてなんとか言い繕った。あの時は大変だったものだ。

 そんなこともあって、今はイリーナは僕が戦場に出るのを黙認していた。僕が帰宅した時にイリーナはいつも、一瞬泣きそうな顔をしているのを僕は知っている。


 部屋を出た僕を待っていたのは壁に寄りかかって微笑を浮かべているフリストだった。

「よぉ、お袋さんの調子はどうだ?」

 フリストは壁に寄りかかるのをやめるとそう言った。

「だいぶ治ってきてはいるみたいだけどまだまだだよ」

 僕は事実を述べる。

「そっか……。お前、まだパン工場で働いてるのか?」

 皮肉めいた言い回しとは裏腹にフリストの顔は険しい。

「お前には関係ないだろう」

 僕も言い返す。

「そうだ。人ん家の事情に首を突っ込むほど俺は知りたがりじゃねぇよ。だがなイヴァン、そんな嘘は長続きしないと決まっているのさ」

 フリストは改めて僕に向き合う。

「……何が言いたい?」

「お前はバカ素直過ぎる。だからイリーナにも一日も経たずにバレたろう? お前も気づいてるんじゃないか? 嘘で病弱のお袋さんを騙すのは、気が進まないと」

「うるさいよ」

 僕はフリストを睨んだ。フリストも僕を睨み返す。

 つかの間に沈黙が流れた。

 やがてフリストは折れたように肩をすくめると、

「まぁ考えておいてくれ。偽りは時として重大な過ちを生むことになるぜ。俺は帰る。ごちそうさま」

 と言って玄関の方へ歩いて行った。


 僕は手前にあったアームチェアに腰を掛けた。

 フリストは時として、核心をついた言動をとってくる。僕はフリストのそういうズカズカと人の心に入ってくる所が気に食わなかった。

 そう言うムカつきは図星を突かれたことに対する屈辱から来るものなのだが。

 フリストの言うとおり、遅かれ早かれ母さんにはすべてバレるだろう。その時、僕はどうする? また何番煎じかわからない理屈っぽい言い訳で言い負かすのか? それは気が引けるし、そもそもいい負かせるかどうかも怪しい。やっぱり素直になるべきなんだろうか。


 そう考えてるうちに、僕はうとうとしていき、終いにはアームチェアに背中を預けて寝ていた。

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